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日本語論23 美しいふるまい

2018-05-28 | 現代日本語百科2025
日本語が言うところの、美しいとは、言葉遣い、敬語、そしてその響きにある。そのそれぞれが接遇、接客のことばである。相手への言葉遣いにその場にふさわしい敬語をもって声の響きよろしく応接する、それを聞くときに、日本語は美しいと思う、ということである。なぜそう思うか、そのように受け止めることになるか、応対を受けてその美しさを聞くことになるかどうかであるが、その行為とともにある日本語であるから、一方的なやり取りを聞いて美しいと思うか、その場のすべてにおいて実感するかどうかである。 . . . 本文を読む

日本語教育の文法2 文法論

2018-05-28 | 日本語教育
文法は言語現象の現れ方を規則で説明しようとするものである。意味のまとまりである、それは伝えようとすること、モノコトについて、文という単位を設定し、さらに、そこに語という単位を最小の単位とすることで、その分析を行う。文と何か、語とは何か、それを定義して文の成立をとらえ、語と語との関係構成を明らかにして、言語を理解する。日本語文法は、文法という学術用語を、grammarについていう、翻訳語として作った。文法は日本語に即していえば、日本語文章法というべきであるが、文法論の考え方に沿って日本語教育の文法を述べようとする。文法論は形態と統語、いま、morphologyモルフォロジー、syntaxシンタックスと言っている、文法論を形態文法、シンタクスにとらえて説明する。 . . . 本文を読む

世論の対応

2018-05-28 | 木瓜日記
中朝、米朝の駆け引きが始まった。米中会談で米韓の軍事演習は容認されていたとするもそれを北朝鮮が非難をしたことで米大統領は中国習氏のポーカープレーに世界一流と皮肉った。核実験場坑道の公開爆破と言うパフォーマンスにも専門家と国連の査察団がいなかったことでメディアに向けた宣伝に過ぎないと受け止められて、朝鮮半島の非核化とする話し合いは行く先不透明である。日本の新聞などメディアが伝えるニュースは米国からの発信記事をもって南北首脳会談の動静を解説する。しかしここにきて米国寄りと中朝に配慮する報道が目立ってきている。このトピックだけではないのだがメディアの報道姿勢にはそのバランスが変わるようである。 . . . 本文を読む

日本語論22 美の基準

2018-05-27 | 現代日本語百科2025
美の基準を言葉において考える、と言うのは、本来的によろしくない、とすれば、美しいものを美しいと言えば、それで済むようなことである、となる。言葉の美を考えると、普遍的な美しさとはなにかを考える。美の基準を検索すると世界の美人についての記事がヒットして、その基準の違いを議論する。目的がそれ、その内容を見ると、次に見たサイトが面白い。 美しいとする標準は時代によって、地域によって変化する。異性に美を求める現代では、その性別による基準が変化して同じようになるのだろうか。アイドルと呼ばれるタレントを見ていると、それほどの長身でなくなってきたから、かつてのスタイルとおのずとはちがってくる。つまり美には、その対象となる造形にあるか、それを審美する心理にあるのか、と言うことを考える。 . . . 本文を読む

天地人と、気と

2018-05-27 | 日本語百科
気候と天候の違いは、数日から十数日のあいだ続く同じ様子が天候であるのに対して、15日周期を気候とする、と、日本国語大辞典は解説するようである。それでは、天と、気と、天候気候と言うから、どう違うか。まして、天気ともいうから、その区別があるのか、ないのか。気象学用語で区別があるようであるし、使い方によって人々が区別するところであるし、それほど難しくはない。天は変化でとらえ、気は変遷でとらえる、さてそれは何を見ているのか。天は空気をみて、気は大気であるから、地球を取り巻く気体のこと、いまでは通常、地球大気を意味することになる。その大気の組成は分析できるが、空気となると空を見て気を感じることとなる用法である。気はおそらく空気としてのときと、空気ではないときとを見て天気としたのであろう。空がなにもない、空になにかがある、そのなにかは水蒸気の寄る雲であって、その空気に雲が覆うと、空にある気の状態であり、その変化は降雨となり、また加えて風による天候である。風だけでなく、嵐となれば天が気を変える。 . . . 本文を読む

読者にお礼を申します

2018-05-27 | わくわく
読者登録の通知を受けました。最近、2つあったので、ここに、新しい出会いに、お礼を申します。どうもありがとうございます。ボケをもっぱらとするようになってきました。仕事をやめるとはどういうことかと日に日に身にしみて感じています。隠居、引退、退職、そして退休生活と、環境があって、仲間があって、生きている人間であることをつくづく、思い知っています。最近の出来事と言えば、住所登録の検索に問われて郵便番号を答えたら、住居表示が違って出てきました。単なる思い違いですから、思い出して言えば修正がなるところ、語呂合わせでの記憶が災いしてか、その場で2回間違えてしまって、これは大変なこと、入力番号を3回間違えばロックがかかってしまう時代に、自分の郵便番号が違ってしまうことを繰り返すという始末でした。すぐに3回目を思い出す、と言っても、それは住所から検索すればまた簡単にわかることであったのでしょうが、何しろ、相手に事務方が二人いて、効率よく進める作業に手間取って、恥をかきました。結果はわかってセーフでしたし、間違いはどこから来たかと思いなおして、その場の手続きは済ませました。 . . . 本文を読む

5音図、50音図、拡大50音図

2018-05-27 | 日本語表記
リマインダーにうながされて、日本語音声と音韻について拡大50音図のことを述べる。音韻は言語ごとに論じる音の意識のことであるから、日本語の発音が音節のもと、仮名文字の音韻でとらえられることを確認しておく。すると、どういうことかと言うと、単音、日本語の音声、その発音というのは、音素のことか、音節のことか、音声学によると異なってくる、普通に意識することになると、言語音としての日本語は、言葉の一つ一つの発音を、音節による音韻で区別していることである、ということである。したがって、日本語の音声を5音図でとらえる説明には、単音としての子音母音の組み合わせを音素で記述するとわかりよい。仮名文字を使う常識からすればそこまでの分析はとくに求めないことがある。発音を子音と母音で、略号をもってCとVとで、CV構造をそのままにとらえる。 . . . 本文を読む

タブレット端末の作業

2018-05-27 | 木瓜日記
タブレット端末を操作しながら契約書を作成する時代である。店頭に客を呼ばなくとも直に電子情報を駆使して事務処理が行われる。それは営業マンにとってもたやすいこととなった。苦手なんですよと言いながら契約の条項で機械とにらめっこしてタブレット画面が動かない。それはすぐにも携帯電話で問い合わせてこうだあだと指示を受けて解決してまた画面にうちこむ。30分ほどのところを手間取っておしゃべりをして小一時間で終わった。工事の係が間もなくあらわれて、交代して取り掛かってくれて、7つ道具ならぬ工具をしまったのだが、何やらタブレットで図面を書き始めた。完成図を記号と作図ペンでこしらえているから器用にしてあっという間に書き上げてしまった。うまいものだと感心しながらほかのこともそうかと思えば、先の営業ように完了書を作り上げて携帯プリンターで印刷をした。感熱紙だから日に当てていると劣化しますからコピーに写真で記録しておくようにと言った。感心を通り越してホームビジネスがいまや出張しての事務室となるネットワーク作業を目の当たりにしたので、この様子には電子情報の信頼性を確かめるようなことになった。 . . . 本文を読む

日本語教育の文法

2018-05-26 | 日本語教育
日本語教育の文法を考える。日本語教育文法と銘打って議論が出てきたとする主張は、その2005年を契機とするような発言であるから、学界の動きに合わせてとらえるとよい。しかしひとたび教育用の文法となると教室現場の実践者は、常に対照文法の視点と、日本語教育であればそれが日本語文法が比較文法にならないという意味で、持ちうる立場として学校教育文法、規範文法を目指すものであるから、体系主義、形式主義であれ、日本語学の文法であれ、文法教育になるものが実践文法であれ、そこには記述用の文法が求められる。その点では日本語教育の実践と記述は現場体験によるもので、演繹理論は実証されることであるし、帰納法には現代語の用法として絶えず注意をすることである。日本語教育の文法と言って、日本語文法、日本語教育文法というものを目指す議論であるから記述には教育に立場から心掛けることをお断りする次第である。 . . . 本文を読む

日本語論21 創刊3

2018-05-26 | 現代日本語百科2025
創刊3号、特集は、美しい日本語として、エッセイを載せる。美しい日本語を話す、日本語のリズム、玉藻よし讃岐、古典の言葉について、日本語の響き、「女ことば」の重い意義、「古い言葉」の最後の光芒、麗しきケセン語、東京下町ことばの味わい、日本の文字の美しさについて、というふうに、1994年新年号の目次を飾る。執筆者には思い入れの美しい日本語である。美しい、きれい、ゆたかな、などの、日本語を語る、これらの評価語には、その基準また標準をとらえて、それを示す指標を共有する価値観がいる。何をもって美しいとするか、美の鑑定はとりどり、さまざまである。編集者には、うかがい知ることができないが、美しいという語の響きにもまた、どのような意味合いを求めているのだろうかと、そのしるすところ、それは雑誌の全体の編集に現れるはずであるが、後記に、歩兵に署名をもって、私たちの言語意識の奥にひそむ美を探る試みと言う。美の文字にはクオーテーション引用符がついて強調がある。その言によれば、日本語の乱れについての風潮にこの号の特集のきっかけがあるようであり、その現象を云々するでなく、語法や単語にある美しい言葉、汚い言葉で対比している。果たしてそのような美しさというものがあるのだろうか。ここにまた正しい日本語、きちんとした言葉遣いなどの議論がおなじように見えてくる。美の文字にある、美をビとよみ、うつくしいと読むことの、その行いをしてきている日本語であるから、何事につけ言葉としての日本語を語るときの二重標準があるような考えかたは避けることが難しい。美も、美しいも、うつくしいにも、同様に感じるものがあるのだろうか。漢字文字のことに書体を見れば審美眼が異なるし、漢字かな交じりを見ればその複雑な体系に驚嘆してそこはかとなく感じ、和語にする響きにはもとより日本語を思うといった次第である。 . . . 本文を読む