きょうは憲法記念日、「日本国憲法」をひっぱりだしてきて読んでいる。実にわかり易くて読み易い、旧憲法に比べたら雲泥の差だ、でもこの憲法改正に賛否が渦巻く、WAKIはこれでも戦争体験世代で疎開も経験したしあの恐ろしい空襲体験者でもある、したがってどんなことがあっても戦争には関わりたくないし、軍備を持つことにも反対である。でも読むほどに憲法が空文化していることに気がつく、だから改憲論者は一刻も早く改正したいのだろうと思う。最近の世論調査の結果は、憲法第9条について改正反対が大きく伸びているらしい。日本がこうして戦後60年に亘って平和を維持できたのもWAKIは世界に誇れる平和憲法を持っていたからこそと思う。
最近は駅の改札やバスの乗り降りも一枚のカードで乗り降りができてきわめて便利になった。京阪電車でも近郊各地に向けて便利なチケットを売り出している、その一枚が「京都観光一日乗車券・みやこ漫遊チケット」だ、一枚が1,600円高いか安いかWAKIたちは花も盛りの古都京の漫遊?に出掛けた先ずは三条から地下鉄で二条城へさすがに国宝二の丸御殿は凄い、庭園も素晴らしい天守閣跡にも登った。とにかくどこへ行っても外人観光客が多い、中国、韓国、台湾、マレーシァ、欧米人とさすが京都だ、ローマやフィレンツェも良かったが。日本もそれに匹敵する素晴らしさだ。そしてバスで金閣寺へ金閣の鳳凰の上にカラスが止まっていたのには興味をそがれたがさすが世界遺産だけある。そしてバスを乗り次いで清滝まで、でもそこは何も無かった。嵐山は人人人で渡月橋の写真だけ撮って、近代的な構築物のJR京都駅へ最上階の屋上庭園をみて地下鉄、バスを乗り継いで出町柳まで、そこから枚方市駅まで結局2,600円分乗ったがさすがに疲れた。次はもっと戦略を練って行って見よう。
枚方の歴史街道の北端、天の川にさしかかるところの旧家小野家、幕末期に建てられたと推定される建物だが昔ながらの姿に修復されている。説明によると広い間口は町屋の遺構を残しているがこのあたり明治18年6月に淀川の大洪水で冠水、この建物も天井まで水がきたその証拠が天井で発見された鮒のミイラであった、と記されている。
ここは枚方市中宮西之町百済寺跡史跡公園、その中で発掘調査が行なわれている。その昔、朝鮮半島の百済から海を渡って「なにわ」に居を構えた百済王氏一族の歴史を残す史跡だ、奈良時代、聖武天皇の頃、奈良の大仏造営に関わり、枚方中宮の地にー族が住むようになったという、渡来人たちは淀川を遡り枚方や木津を経て奈良に物資や文化を伝えた。百済寺遺跡はその名残で今は基壇だけが残っていて往時を偲ばせている、いま周辺の発掘調査では平城京に使われていた瓦が発見されて、今後かなり大きな遺構となる可能性もあり、これからの発掘調査によっては詳しい平安時代初期の様子が見えてくることになる。
枚方市の隣町、寝屋川市には昔から地元に伝わる民話に「鉢かつぎ姫」の物語がある。そして町のあちこちには石造りの「鉢かつぎ姫」がおおきな鉢を頭にくっつけて建っている。そのいわれは、昔、河内国に寝屋備中守藤原実高という長者が住んでいました。長谷観音に祈願し、望み通りに女の子が生まれ、美しい娘に成長しました。母親が亡くなるまえに娘の頭におおきな鉢をかぶせたところ、鉢がどうしてもとれなくなってしまいました。母親の死後この娘(鉢かつぎ姫)は、継母にいじめられ家を追い出されてしまいました。世をはかなんで入水自殺をしたが鉢のおかげで溺れることもなく、「山蔭三位中将」という公家に助けられ風呂焚きとして働くことになりました。中将の四男の「宰相殿御曹司」に求婚されますが、宰相の母は、宰相の兄たちの嫁との「嫁くらべ」行い結婚を断念させようとします。ところが嫁くらべが翌日に迫った夜に鉢かつぎ姫の頭の鉢がはずれ、姫の美しい顔と、金、銀、宝物などが出てきました。嫁くらべのあと、鉢かつぎ姫は宰相殿と結婚して3人の子どもに恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生活を送ったそうです。
寝屋川市では、町おこしにこの石像を建てたりお土産の饅頭を売り出したりしている。
寝屋川市では、町おこしにこの石像を建てたりお土産の饅頭を売り出したりしている。
今度の旅行の企画に「熊野古道散策コース」があった。熊野古道は世界遺産にも指定されて石見銀山と並んでいまや注目の場所でもある。大阪側からは北浜に端を発する熊野街道を経て田辺市から熊野古道に入る。そして人々は熊野三山をめざした、そして人々は身分の差もなくすべて自分の足で歩いて神に祈りを捧げ、自らの再生を行なった。地元の語り部さんの説明を聞きながら歩いた距離は僅か1.6kmではあったが、その昔、熊野詣での旅人が踏みしめた路を辿った、道中語り部さんが幼少のころ国の政策で村を挙げて植林した杉林がこのように荒廃してしまったことを嘆いておられた。よく通る声で話していただいて、改めて先人の偉大さを認識した旅であった。
松花堂庭園にある女塚にまつわる謡曲についていつも欠かさずコメントを下さるKUSAさんから以下の解説をいただきましたので特番を組みました。女塚は秋のオミナエシに囲まれていました。
松花堂にある女郎花塚、謡曲では女郎花と云う題の曲がありますが、ヲミナメシと発音します。この謡曲は九州松浦潟から都(京都)に出てくる坊さんが、石清水八幡宮に詣でるときに、この地の男山の裾野に生える女郎花(おみなえし)の花の精と恋心の戯れを描いた物語ですが、小生、今から約20年前にこの謡曲を習ったことを思い出し懐かしく感じています。謡曲、女郎花のことを一寸触れましたが、その初めのくだりを紹介しておきます。これハ九州松浦潟より出でたる、僧にてそうろう、我いまだ都を見ずそうろうほどに、この秋思ひ立ち都に上がり(のぼり)そうろう。と云うワキ(旅僧)の言上から始まります。
謡曲では、シテ、ワキ、ワキツレ、子方、の役柄があり、謡には、強吟、弱吟があって、それぞれ、うたい方が異なります。女郎花の曲では、ワキは旅僧、シテは女郎花でこの二人のやり取りが絶妙でなんとも言えない雰囲気をかもしだしている物語です。
松花堂にある女郎花塚、謡曲では女郎花と云う題の曲がありますが、ヲミナメシと発音します。この謡曲は九州松浦潟から都(京都)に出てくる坊さんが、石清水八幡宮に詣でるときに、この地の男山の裾野に生える女郎花(おみなえし)の花の精と恋心の戯れを描いた物語ですが、小生、今から約20年前にこの謡曲を習ったことを思い出し懐かしく感じています。謡曲、女郎花のことを一寸触れましたが、その初めのくだりを紹介しておきます。これハ九州松浦潟より出でたる、僧にてそうろう、我いまだ都を見ずそうろうほどに、この秋思ひ立ち都に上がり(のぼり)そうろう。と云うワキ(旅僧)の言上から始まります。
謡曲では、シテ、ワキ、ワキツレ、子方、の役柄があり、謡には、強吟、弱吟があって、それぞれ、うたい方が異なります。女郎花の曲では、ワキは旅僧、シテは女郎花でこの二人のやり取りが絶妙でなんとも言えない雰囲気をかもしだしている物語です。
八幡市ゆかりの人物、歌人で劇作家でもある吉井勇(1886-1960)の文学碑が松花堂庭園を入ったところにある。戦後僅かに3年しか在住していなかったがこの地で数々の作品を残した。彼は昭乗が住んでいた地にいることを詠んで和歌に残した。そして京都をこよなく愛し数々の歌を残している。そして松花堂を詠んだ歌も数々。女郎花塚は松花堂の中にあり謡曲でも謡われている。
昭乗といへる隠者の住みし蘆 近くにあるをうれしみて寝る
松花堂好みの露地幾うねり 郁子の雨にも濡れにけるかも
女郎花塚のあたり雲雀鳴き 夕日のなかを雲水の来る
聴くほどに心かそけし松花堂 すむしあたりの松風の音
昭乗といへる隠者の住みし蘆 近くにあるをうれしみて寝る
松花堂好みの露地幾うねり 郁子の雨にも濡れにけるかも
女郎花塚のあたり雲雀鳴き 夕日のなかを雲水の来る
聴くほどに心かそけし松花堂 すむしあたりの松風の音
松花堂昭乗(1584~1639)は石清水八幡宮の社僧であったが書道、絵画、茶道の奥義を極めた、その晩年に作った庵が「松花堂」でたった二畳の広さの中に茶室とくど(竈)に持仏堂を備え、屋根は茅葺きのいたってシンプルな建物です。この建物や庭園は当時のまま保存されていますがこの域は写真撮影も禁止です。さて方丈記を記した 鴨長明(1155~1216)は京での数々の災いのあと、60にして建てた家は方丈の庵にふさわしく1丈四方(3.3m四方)立って半畳、寝て一畳とここで思索の日々を過ごした。鴨長明から400年を経て、「松花堂」で見事に実践されているのを見て。WAKIは大いに興味が湧いた、自然の素材で、これだけ住み易く自然流の生活の智恵にあふれたシンプルな建物にひとり感動した。
家から車で約30分八幡市に松花堂庭園がある。ここは松花堂昭乗の草庵「松花堂」を中心に庭が配置されて書院、苔庭、枯山水の築山など外園は、茶室が有名で茶の庭園といわれ茶室「竹隠」「松隠」「梅隠」がある。珍しい竹が40種、椿が200種が植栽されているそうだ。そして竹を主材料とした生垣が随所にあり伝統の様式を伝えている。秋とは言え紅葉には少し早かったが古いシンプルな佇まいに納得した。ここは松花堂弁当発祥の地とされ、美術館とともに「吉兆・松花堂」があり松花堂弁当もいただけるがWAKIたちはそれを横目に、お昼としてはいつもよりやや豪華な日本料理を田の字に配置した松花堂弁当風のお店に入って遅い昼食を戴いた。