枚方・交野の地は昔宮廷の狩場として都人が立ち寄り多くの詩を詠んだ、奈良県から流れてきた「天の川」は交野(かたの)から枚方(ひらかた)を経て淀川に注ぐがこのあたりは星にまつわる地名がなぜか多い、そうしてこの牽牛を現す牛石はWAKIのすぐ近くの観音寺山公園にある。そして織姫の祀られてている機織神社は天の川をはさんで交野市にあってきのうは梅雨の懸念もあったが降ることもなく多くの人で賑わった。聞けば神社の境内には36本の竹が奉納されそれぞれ思い思いにぎっしりと願いごとが書かれていいた、もちろんWAKIたちも願いごとをしたためて笹に結んだ。
きのうは鋳物民俗資料館(1)を紹介したが、同じ敷地内にあったのは旧田中家住宅(大阪府有形文化財)と田口山遺跡で発掘された弥生時代中期の竪穴住居を復元したものだ、田中家の方は伝統ある鋳物師の住居のため建築当初から防火もかねて瓦葺で周囲の家とは異なる特徴であったそうだ。造りも写真のようにしっかりとしていて機能的にできている。間取りは「田の字つくり」で当時の家具や民具も展示されている。いっぽう弥生時代中期から後期にかけての代表的な遺跡として、早くから知られてる田口山遺跡は、丘陵上に営まれた高地性集落遺跡です竪穴住居もなかなか立派で、造りの方もしっかりとして快適に暮らせるのではとWAKIは感心した。
枚方市の真ん中に万年寺山という小高い丘があってそこに昔から続く田中家という鋳物家があった今はその建物が枚方市藤阪というところに移設されて残されている。この昔ながらの建物はすでに築250年を経て母屋とともに今も健在、建物の中央に高熱で金属を溶かす「こしき炉」(溶鉱炉)と「たたら」(ふいご)4人乗り、を配し内部の土間に鋳型を配置するという構造になっている。現存するのは全国でもここだけだそうだ。そうしてお寺の梵鐘や農具などが作られた、古くは奈良の大仏(盧舎那仏)の造営に端を発して鋳造の技術は脈々として受け継がれてきたのは間違いがない。この日も地元の小学校生がバス2台で見学に来ていた。
ここは枚方市藤阪にある伝王仁墓、王仁は「日本書記」の応仁天皇の条にあり、「古事記」にも「和爾吉師」と記され、百済から論語10巻と千文字一巻を日本にもたらした博士(ふみよみひと)とされている。ただ、時代考証的には矛盾も多いが江戸時代から250余年儒学の祖の墓として崇められている、ここでは今も日韓親善の架け橋として11月3日には「博士王仁まつり」が行われる。韓国の国花「無窮花(むくげ)」がたくさん植えられて、そろそろ咲き出した。ところでWAKIはもうかれこれ1年習字と篆刻を習っている、 丁度WAKIは当時日本にもたらされたという中国の書 「真草千文字」隋智永 を2回臨書したがやはり難しいけれども書の心にふれることができる。「真草千文字」はここの墓の石碑や額にも納めらていてなるほどとWAKIは納得した。
WAKIの家から2.5km小さな山を一山越すともうこんな風景が現れる。そして田植えの終った田圃も現れる。そしてこの風景を撮影した場所が天の川だ。橋の欄干の一部も写っている。ここはWAKIたちのアウトドアのフイールドだ、WAKIたちはこの昔ながらの集落を通り抜けてウオーキングのコースに出る。このまま時代劇のようにチョンマゲと帯刀の侍が出てきてもおかしくないようなたたすまいだ。
戦乱で焼失した奈良東大寺は重源(ちょうげん)によって再興されたが、これは鎌倉再興といわれている、WAKIたちはこの重源の御恩忌八百年記念特別展「大勧進 重 源」を見てきた、東大寺は南部焼き打ちにより大仏が大破、堂塔伽藍が焼失その再興に当時60歳を超えた俊乗房重源が大勧進として活躍したが、この特別展では ①南都炎上 ②入唐三度聖人 ③東大寺復興④行基への尊崇 ⑤別所の経営 ⑥重源と舎利信仰 ⑦重源と阿弥号・同行衆 ⑧宋代美術の移植というテーマで数々の展示があった。偉大な業績と人柄に感心した。
帰りには久しぶりに東大寺大仏殿ににも立ち寄って南大門の仁王像にも会ってきた以前詠んだ「運慶の意欲満面仁王像」をあらためて確認、大仏さんにも会ったがこの日はおおぜいの修学旅行生や外国人が目立った。
帰りには久しぶりに東大寺大仏殿ににも立ち寄って南大門の仁王像にも会ってきた以前詠んだ「運慶の意欲満面仁王像」をあらためて確認、大仏さんにも会ったがこの日はおおぜいの修学旅行生や外国人が目立った。
これは昨日の産経新聞の夕刊、2ページ裏表が映画の宣伝だ、本紙はこの広告に挟みこまれて収まっている。こんな宣伝は新聞始まって以来のことだ。ダ・ヴィンチ・コードは文庫本で上中下とあるが、ミステリーに仕立ててあってWAKIには難解であったが、WAKIが理解したのは「聖杯」と「キー・ストーン」ぐらいでダ・ヴィンチにしてもミケランジェロにしてももともとミステリーでわざわざ殺人事件にしなくてもよいのにと言うのがWAKIの感想だ。
レオナルド・ダ・ヴィンチと言えばイタリアが生んだ人類史上最高の天才だが。WAKIはレオナルドが生まれたといわれる、フィレンッエ郊外のヴィンチ村の彼の生家を訪れたことがある。いまは博物館になっているが、そこには彼が残した膨大なメモに基づいて数々の模型が展示してあった、飛行機やヘリコプターそれに大砲など、このヘリコプターのデザインはその頃は全日空の垂直尾翼のマークでもあった。展示品の中には実用に使えるものもあって、コインのプレス機は実際に自分で操作して、記念メダルを作ることができ、そのメダルはいまも大切に持っている。文献のコーナーには日本人の著作のダ・ヴィンチに関する本も沢山あった。彼のアイデアは膨大なものですべてさかさま文字で書かれていて鏡に映さないと読めない。とにかくミステリーだがちょっとさわぎ過ぎのようだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチと言えばイタリアが生んだ人類史上最高の天才だが。WAKIはレオナルドが生まれたといわれる、フィレンッエ郊外のヴィンチ村の彼の生家を訪れたことがある。いまは博物館になっているが、そこには彼が残した膨大なメモに基づいて数々の模型が展示してあった、飛行機やヘリコプターそれに大砲など、このヘリコプターのデザインはその頃は全日空の垂直尾翼のマークでもあった。展示品の中には実用に使えるものもあって、コインのプレス機は実際に自分で操作して、記念メダルを作ることができ、そのメダルはいまも大切に持っている。文献のコーナーには日本人の著作のダ・ヴィンチに関する本も沢山あった。彼のアイデアは膨大なものですべてさかさま文字で書かれていて鏡に映さないと読めない。とにかくミステリーだがちょっとさわぎ過ぎのようだ。
つい最近淀川を見下ろす御茶屋御殿跡広場を紹介した、この広場を整備するにあたりこの場所から古墳時代(4世紀ごろ)の石棺が発掘された、それがいま綺麗に整備されて、説明のパネルも取り付けられた。4世紀といえば豊臣秀吉よりさらに1200年も前の話で、なんともロマンに満ちた話だ。しかもこの石棺の石材は遠く四国・徳島の吉野川産と聞けばいろいろ思いをめぐらすことができる。
ここは、北摂の山々と淀川が一望に見渡せる高台、さきに枚方市が公園整備をしていた場所だ、ようやく市民に開放されてご覧のとおり立ち入ることができるようになった。この場所は万年寺山といい4世紀ごろの石棺が出土して広場にはこの展示もおこなわれている、真下を京阪電車が通り、その向こうは「ふるいち」(旧一号線、トラック野郎は無線でこう呼んでいる、)その向こうは広大な河川敷公園があって淀川だ。そして歴史街道の看板も整備された、名づけて「御茶屋御殿跡展望広場」だ、豊臣秀吉がこの要衝の地に茶屋を建てたという、NHKの大河ドラマ「功名が辻」の頃の話だ、戦さにあってもお茶を嗜むゆとりをもっていたようだ。WAKIが生をうけたところは天下茶屋と言ったがこちらは住吉街道にあり、千利休ゆかりの茶屋があって豊臣秀吉が住吉詣での際に立ち寄ったことから天下茶屋と言うそうだ。
そしてここはWAKIたちのウオーキングコース、およそ家から7,000歩だ。
そしてここはWAKIたちのウオーキングコース、およそ家から7,000歩だ。
WAKIがものごころついた頃といえば、幼稚園に行く前だ、家が近くの市場で商売をしていたので毎日小遣いを貰うと家の近所で遊んだ、駄菓子やにはおばあさんが店番をしているときにいった。おばあさんだと沢山のお菓子をくれた、細い露地を抜けると天神さんがあった。そしてすぐ傍をこの阪堺電車が走っていた。店の休みの日は母親に連れられてこのチンチン電車で恵比須町までいきそこから日本橋の松坂屋百貨店にいった。いまも電気街にいきこのビルを見ると子供の頃を思い出す。この写真は元旦に住吉さんに行ったときに撮ったもの、当時のままのレトロな車両も走っていたが、どうみてもこてこての大阪だとWAKIは思う。質屋の広告はいただけるとしても、ラブホテルの広告はいただけない。