津波による死者が1万人をこえるという、WAKI は数年前から津波に大きな関心を抱いていた。身近な大阪も過去に大きな津波に見舞われている、これは史実だから認めざるを得ない。嘉永7年(1854)の大津波は淀川をさかのぼって枚方まで達したという。(記事の瓦版は転載です)
摂州大坂泉州河内大和紀州大地震大津波(おおじしんおおつなミ) 都合五ヶ国頃ハ嘉永七寅年十一月五日夕七ツ半時大じしん。同日暮六ツ時又々大じしん同時に大坂天保山沖大つなミして安治川すじ木づ川尻なしのへんおき中の大船二千石づミ以下三百石づミぐらいに至ルまでことごとく川口へうちのぼし又ハ海岸へうち上ヶかしなどの家をふねにてうちくだきせんどうかこの者おびたたしく死する者共かづしれず其外上荷茶船小ぶね等ハ大船の下しきとなり死する者かづしれず尚又町々より舟にてぢしんをよけんとおきへのりだし又ハ内川へつなきいるもありしかるに大なミ矢よりもはやくしてしりぞくことあたわずついに数多こみ入る船におそハれ船くだけ人おぼれ死することおびただしく又橋ばしをほばしら大船のためにうちくだく其はしはしにハかめいばし。安治川ばし国つばし高ばしミづわけばしくろ金はし日吉はし汐ミばし幸ひはし住吉はしかねやばし大こくはしにて止る其そうどうこんざつ成こと目もあてられぬありさまなりまことに古こんきたいのちんじなり其外しんてん天保山近べん大あれにて筆紙につくしかたし
摂州大坂泉州河内大和紀州大地震大津波(おおじしんおおつなミ) 都合五ヶ国頃ハ嘉永七寅年十一月五日夕七ツ半時大じしん。同日暮六ツ時又々大じしん同時に大坂天保山沖大つなミして安治川すじ木づ川尻なしのへんおき中の大船二千石づミ以下三百石づミぐらいに至ルまでことごとく川口へうちのぼし又ハ海岸へうち上ヶかしなどの家をふねにてうちくだきせんどうかこの者おびたたしく死する者共かづしれず其外上荷茶船小ぶね等ハ大船の下しきとなり死する者かづしれず尚又町々より舟にてぢしんをよけんとおきへのりだし又ハ内川へつなきいるもありしかるに大なミ矢よりもはやくしてしりぞくことあたわずついに数多こみ入る船におそハれ船くだけ人おぼれ死することおびただしく又橋ばしをほばしら大船のためにうちくだく其はしはしにハかめいばし。安治川ばし国つばし高ばしミづわけばしくろ金はし日吉はし汐ミばし幸ひはし住吉はしかねやばし大こくはしにて止る其そうどうこんざつ成こと目もあてられぬありさまなりまことに古こんきたいのちんじなり其外しんてん天保山近べん大あれにて筆紙につくしかたし