安倍銃撃事件が発生した時、「民主主義への挑戦」という言葉が飛び交った。事件直後には自民党の政治家は口々にその言葉を発していたように記憶している。彼らはこの事件をテロだと見做したのだろう。しかし、これはテロとは言えない。テロとはウィキペディアによれば次のように説明されている。
『日本大百科全書』によると、テロリズムとは「政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致による自由束縛など過酷な手段で、敵対する当事者、さらには無関係な一般市民や建造物などを攻撃し、攻撃の物理的な成果よりもそこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して、譲歩や抑圧などを図るもの」
山上被告を事件に駆り立てた動機はあくまで統一教会に対する個人的な怨恨であり、政治的意図はないのは明らかで、彼の行為をテロというのは当たらないように思う。しかし、この事件は教団と政治の関係を浮かび上がらせることによって、大きな政治的効果をもたらした。結果的に教団に天誅を加え、その政治的活動をかなり制約することになった。山上被告が自身の行為の影響についてどの程度意識していたかは不明だが、結果を考えれば、この事件は「テロ」的様相を帯びていることは間違いない。
そのうえで、私自身がこの問題に関して「テロは絶対に許してはいけない」と自問自答すると、なにかきれいごとを言っているみたいな気がして後ろめたい感情が湧いてくるのである。なんだかんだ言っても、山上被告がこの事件を起こさなければ、旧統一教会もそれと持ちつ持たれつの政治家も何食わぬ顔でやり過ごしていたのではなかったか? 霊感商法であれほど社会を騒がした反社会的集団が政治家と結託しながら今も存続している、その事を世間に対してあからさまにした「功績」が山上被告にはあるのではないか、という思いが私の中で頭をもたげてくる。
民主主義を標榜するなら「テロは絶対に許してはいけない」のである。それは間違いない。もしテロに対して一分の理を認めてしまえば、思いつめた人間はなにをやっても良いことになってしまう、結局はそういうところに行き着くだろう。それは民主主義とは対極の世界である。テロは絶対認めてはいけないし、そもそも人を殺すこと自体が許されるはずがない。そのことを頭では分かっていながら、山上被告の行為を全面的に否定しきれない自分の本音を払拭できないでいる。一体それはなぜだろう。
それはやはり日本社会の現状が余りにもでたらめだからではなかろうか。この理不尽な反社会的集団を政治家が支えていたということ、またそのことに感づいていながら真相を追求した報道機関がなかったということ。権力への監視が緩めば官僚機構も腐敗する。日本の官僚は権力者の顔色ばかり窺っていて、命令されずとも公文書の改竄までしてしまうという「忖度文化」がすっかり根付いてしまった。もはや日本は民主主義国とは言えないほどの体たらくである。いつの間にか日本は先進国の中で報道の自由度はずば抜けた最下位(世界全体では71位)になっているのに、国民の大半がそのことを自覚できないでいる。
もし、今回の事件で報道機関が覚醒し政治の暗部があぶりだされて、日本の政治が少しでも改善されるならば、山上被告はある意味英雄である。殺人を称揚してはいけないのは百も承知だが、私はやむに已まれぬ彼の憤りにある程度共感せざるを得ないのである。それはやはり日本の現状がでたらめすぎるからだと考えざるを得ない。「何があろうとも人を殺めてはいけない」と彼に対して正面から堂々と言える、日本がそんな社会であって欲しい。
信州・小布施の栗ケ丘小学校 (記事内容とは何の関係もありません。)