ある人に、「我々の世界は無矛盾な世界ではなく、矛盾のある世界であると考えれば、すべての謎(アポリア)が解消される、という考えはどう思われますか?」と問われた。
私は「その矛盾と言うのはどういう意味ですか?」と問い返したのだが、どうも要領を得ない。「矛盾」という言葉はいろんな意味に使われることがあるので、議論するにも意味をはっきりさせておかなくてはならない。人によっては「平等であるべき人間社会で貧富の差があることは矛盾だ」と言う。西田幾多郎なら、ものがあって運動しているだけで、そこに矛盾があるというだろう。
矛盾の本来の意味は論理的なものである。文字通りの意味は、「すべてのものを突き通す矛といかなる矛も撥ね返す盾が同時に存在する」ということである。矛盾という言葉をそのように解釈すれば、私達の世界は「無矛盾な世界」であると言って良いだろう。円い三角や、青い信号が赤く点灯している、というような事態は起こらないのである。
私達は矛盾することがらを考えることも想像することもできない。「どんな矛をも撥ね返す盾が突き破られる」ことを考えられるだろうか? もし突き破られたとしたら、それは「どんな矛をも撥ね返す盾」ではなかったというだけの話である。「円い三角」を頭の中で思い描くことができるだろうか? どんなに頑張ってみても三角おにぎりを想像するのが関の山である。言うまでもないが、三角おにぎりは「円い三角」ではない。
かりに矛盾した事象が起こっていたとしても、我々にはそれを認識する能力はない。トラック一周400メートルの競走で、審判がピストルを構えて「位置について用意!」と言う前に、走者がゴールしたとする。我々にはその事態を「スタートする前の走者がゴールした」と理解することはできないはずだ。空間と時間の秩序に矛盾する事態を我々は認識できないのである。
厳密に言うと、「矛盾がない」ことと「矛盾を認識できない」ということは別のことだが、認識できない世界のことを論じても意味はない。我々にとっての「世界」とは認識できる世界のことで有ったはずだ。この世界は「無矛盾な世界」であると言っても差し支えないと私は考える。
後半部の「矛盾のある世界であると考えれば、すべての謎(アポリア)が解消される。」という考えははっきり言ってつまらない。数学では矛盾を一つでも許せば、どんなことも証明できてしまう。つまり、矛盾のある世界では何が起こっても不思議ではない、当たり前のことと見なされる。矛盾のある世界では謎(アポリア)も当たり前のこととなってしまう、と言うだけの話である。
素人の哲学談義は言葉の遊びに流れてしまうことが多い。
シアトルのファーマーズ・マーケット
さて、認識不能なものはこの世界以外のものであり、矛盾するものもそれと同じである。と、云うことならば公案のかなりの部分は矛盾の提示であり、それを超克する事により本来の世界に気付くのが禅の目指すところである事との間に大きな齟齬が生じると思います。非思量しかり、相容れないものを乗り越えていくのが禅ではないでしょか。
それと、このブログは私の知的好奇心だけで書いています。為になることは一つも書かれていない、くらいの気持ちで読んでいただければと思います。
早速ですが、若し宜しければご教示願いたいことがあります。それは刹那生滅の道理と永遠の今という二つの考え方の繋がりが飲み込めません。言葉で言えば、非連続の連続とでも言える事かもしれませんが、ご見解をお示し頂けたら幸いです。
「永遠の今」と関連づけられるということであれば、やはりそれは禅定を通じて実感とともに納得するしかないのではないかと思います。
あくまで個人的な好みですが、「永遠の今」や「非連続の連続」という言葉を私はあまり好きではありません。禅者の境地を表現する適切な言葉というものが他にはないのだとしても、矛盾したものいいが一般化することに意義など無いと考えております。