前回記事では疑似問題というものをとり上げた。問題としての体裁は整っているが、実はそれには回答がない。なにを問うているかが分からないのである。なぜそのような問題が生じるのか? おそらくそれは私たちが言葉で考えるからだろう。私が幼稚園の頃、次のような歌を教わった。
〽朝はどこから来るかしら あの山越えて谷越えて 光の国から来るかしら
〽いえいえそうではありません それは明るい家庭から
〽朝が来る来る 朝が来る おはよう おはよう
一体朝はどこから来るのか? 幼い私は結構一生懸命考えた。今から思えば、考えたというより不思議がっていただけと表現した方が良いだろう。どう考えても、朝がどこから来るかを考えるのは不可能だ。「朝はどこから来るのか?」という問いは言葉としては成立していても、実は何を問うているのかがよく分からない。それが何を問うているかが分からなければ考えようがない。
「朝はどこから来るのか?」という問題は子供だましみたいなものだが、「死んだらどこへ行くのか?」というのはどうだろうか? 「死んだら灰になるだけ」というのも一つの答え方だと思うが、これを実存的、つまり自分自身の死についての問題と解釈すると深遠な形而上の様相を帯びた問題に見えてくる。しかし、やはりそれは疑似問題に違いない。生きている人間は誰も死んだことがないのだから、死がなんであるかは全く分からない以上何について問われているのかが分かるはずがないのである。「なぜ私は私なのか?」というのも同様である。私が私でなかったことなどないからである。「私がクレオパトラだったらと想像出来る」などといっても駄目である。私がクレオパトラであったとしても、クレオパトラになった私はやはり私であることに変わりがないのだから‥。私が私でないことはありえないのである。私が私以外ではありえない限り「なぜ私は私なのか?」と問うことは意味をなさないのである。