年を取ると朝が早い。今朝は3時に目が覚めてしまった。特にすることもないので、寝床の中で神について考えてみた。
旧約聖書では、「神は自らに似せて人を作った」とあるが、私はどうもこれは逆ではないかと思う。おそらく、人間が「自分に似せて神をつくった」のだろう。旧約聖書だけではなく、ギリシャの神々も日本神話の神々もすべて人間に似ているというか、明らかに「人間的」な価値観を持ちすぎている。
私の考える神とは、この世界のすべてを差配する全知全能の神の事であるが、どう考えてもそれらの神とは似ても似つかないものになる。
まず、神は全知全能であるがゆえに人間を認知しない。神は全知であるから当然、私がここでパソコンに向って記事を書いていることも知っている。知っているが、私という人間を認知しているかどうかが疑わしいのである。というのは、神の世界把握の仕方は我々人間とは違う、有限である人間のものごとの把握の仕方は表面的なものであるが、神はすべてを把握している。つまり、誰それが何かをしている、というような概念を媒介にした認識の仕方ではなく、分子や原子、素粒子のレベル(というか、ひょっとしたらもっとベーシックなレベル)ですべてを把握しているからである。
私たちは世界を可視光線を媒介にして見ているが、神の視点からみればそのようにして見る世界は特殊なものである。神は可視光だけでなく赤外線やⅩ線も見えるし、第一ものを見るのに光など必要としない。人の顔を見ると同時にその中のドクロも観ている、それも素粒子レベルでである。
つまり、無限の能力を持つ神はカオスをカオスのまま把握することが出来る。非力な人間は、流動する事象の中に差異と反復を見出し、なんらかの抽象化を経ないとものごとを理解できないのである。
ヨハネによる福音書には「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。」とあるが、これは西洋人のロゴスの偏重にちがいない。「言葉は神」であるどころか、おそらく神は言葉とは無縁のものである。第一に神はコミュニケートする相手がいない。言葉による理解は必然的に抽象化を伴う、非力な人間は言葉によらなければ思考することが出来ないが、神はすべてを把握しているのだから、もはや言葉による思考など必要ないのである。
最後に神の「意志」について考えてみよう。神は万能であるがゆえに、意志したことはすべて実現できる。というより、意志することと実現していることは同じであるとみなすべきだろう、万能なのだから。すると、私が今記事を書いているのも神の意志ということになりはしないか? すべてが神の意志なら、今この世界で起きていることはすべて神の意志である。
今起きていることがすべて神の意志であるならば、この宇宙そのものが神ということになりはしないか? 結局、神は万能であるがゆえに、あっても無くても同じということになりはしないだろうか? どうです、どこかおかしいですか?
もし、この規定が神、存在そのものの最大のものであるとしたら、どうやって反論、また抹殺の議論をなさるんですか。
神は人間の理解を何処か超えたもので、人間が創り出したものではないです。
プシュケーと呼ばれる人間の魂の原義は
風です。
遠くで木の枝が揺れている、すると、あっ、
風だ、風が吹いている。
これが、魂の解りやすい表現です。
この風の根底にあるもの、風そのものが
神です。
神の存在の理解のためには、ギリシャ哲学
Parmenides から勉強しなおしてください。
近代哲学の存在忘却のなかで、神のことを
知っている、と言っておられる。
数理哲学者ラッセルが、神は人が創った、と言ったことをオウム返しに話しておられるだけです。
哲学の初心に帰り、ある とは何かを考える努力をしてください。
生きるのに決定的に大切な ある 、善や美 について自分が知らないことを 自 覚 している
、また覚醒して生きている と言っているのであり、
それを知っているという高みにいるのではありません。
日本でこの、不知の知を間違いだと最初に主張されたのは、元九大、元慶応義塾大学そして現東大で教えておられる 何とかという先生、今思い出した、納富さんです。
何冊か、本が出ていますので、お読みください。
彼は、日本人のギリシャ哲学研究者では初めて
英国でドクターを取っておられます。
プラトーンとアリストテレスを対立的に捉えるのではなく、連続的に捉える点が、納富教授の
優れた点だと考ええています。3377
聖書の何処に書いてあるのでしょうか?
僕はギリシャ語で、新約聖書を読み続けていますが、
まだ、そうした表現には出会っていません。
逆にお訊ねします。あなたの言うところの神様は、何を知らなくて、そして何をできないのでしょうか?
>僕はギリシャ語で、新約聖書を読み続けていますが、まだ、そうした表現には出会っていません。
私は日本語で旧約聖書のヨブ記くらいしか読んでいませんが、「全能者」という言葉は何度も出てきます。全能は全知を含むと考えてもよいのではないでしょうか。
マタイによる福音書からヨハネによる福音書まで読んで下さい。
共通しているのは、救い主キリストが十字架に掛かって人間の罪を贖う話です。
ここには、神の愛が聖書を読むひとを打ちます。
キリスト教のキーワードは十字架なのです、苦しみなのです。
人生の中で、苦しみそしてまた苦しむこうした人間だけがキリストの十字架の下に集まり、神に感謝するのです。
ヨブ記を読んでおられるのであれば、聖書に関心が
無いとは思われません。
どうか、マタイによる福音書、マルコ、ルカ、そしてヨハネによる福音書を一読してください。
そして、また神は全知全能と言えるか、どうか。
神は愛なのです。
悪いことも長続きしない、という普通の解釈で充分ではないでしょうか。
私達にとって良い事、益となることまた苦しみの無い事は長続きしない。また然しながら、私達にとっての経済的な貧しさ、不正の持続からの苦しみ、この世の悪も、実は、長続きしない。
ひとは、上のなかの、前者のみつまり、善は長続きしない、を考えて、暗い気持ちを持つのですが、それは誤りです。
続くということに関して、僕のブログをお読みください。
新しい微笑みの詩 2021年3月29日
『habitus の根底にある考え方』
神について知っている、と良く書かれますが、
沈黙したが良いですね。
僕はやっと、存在そのもの という理解に到着して、違和感がなくなった。50年掛かっています。
ポッケットから、神の概念を引っ張りだして、
それは人間が勝手に創り出した言葉だ! と
吠えるのは辞めたがいいです。
でも、歴史的なキリスト教のある地獄を描いている
薔薇の名前 という小説はお薦めします。
この間亡くなった 007の主人公ボンドを数多く
演じたイギリス人が主人公となるキリスト教を
描く映画、ビデオも有ります。
なぜ話しを新約聖書に限るのでしょうか?
それと、私は決してクリスチャンの方々を叩くつもりもありません。むしろ尊敬しているくらいです。
あくまで、「神」という概念についてこのような見解も成り立つ、というような意味にとらえて下さい。あなたの言う神と私の言う神はおそらく違うものなのでしょう。
実は 神ではないのです。
私は、神という言葉をあまり、口にして話さない。
神について、知らないと考えるからです。
神は言及不可能なものです。
それを、トイレットペーパーについて語るように、
かみは無い、紙はない(笑)といとも簡単に
放言なさっておられるのは笑止千万ですね。
前に神は何を知っていて、神は何を知らないのかと
いう超難問を突き付けておられました。正直に答えます。
わたしは判りません。神は数字の 0だからです。
それでも、0の上で、足し算引き算掛け算割り算ーーーーの一切が生起します。
こうした意味での 神理解は間違っています?