私たちはものに対応して言葉があると考えがちであるが、ソシュールという言語学者は「言語が世界を分節する」ということを言い出した。もともと連続している世界を言葉によって分節し、分節した網の目構造として世界を再構成した上で認識する、それが私たちの知識となる。例えば、虹は何色でできているかということを考えてみればそのことがよく分かる。虹の色の種類の数は民族によっていろいろある。もともと光のスペクトルは連続していて色の分け方というものは恣意的にならざるを得ないのである。
ソシュールによれば、あらかじめ猫というものがあって「猫」という言葉が生まれたのではなく、「猫」という言葉によって初めて我々は猫というものを認識するようになるということである。つまり、「猫」という言葉はこの世界を猫と猫以外に分節するという機能「しか」持たない。ここで「しか」を強調するのは「猫」という言葉に対応する猫の本質というものが存在しないからである。その根拠は前回記事において、人間と人間以外を区別する客観的な基準は存在しないという説明で既に述べておいた。
ソシュールの考え方は現代言語学の主流となっているが、大乗仏教の祖である龍樹は1800年前に既にそのことに気がついていた。言語による分節は我々の思考を必然的に、善と悪、真と偽、等と不等、有と無、といった二項対立に追い込むことにならざるを得ない。なので龍樹は「言葉によって本当の真理は表現できない」と言うのである。
近頃よく耳にする言葉で「LGBTQ」というのがある。レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシュアル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)、クエスチョニング(Questioning) の略だそうである。ついこの前までは「LGBT」だったのが、何時の間にか "Q" がついている。性的嗜好ををいくらカテゴライズしようとしてもしきれない、生物種の定義が研究が進むたびに増えていくことと同じである。以前も取り上げたことがあるが、朝日新聞デジタルの「子どもたちの人生を救うために はるな愛さんが考える多様性と五輪 」という記事の中のはるな愛さんの言葉をもう一度ここで取り上げてみたい。
≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫
≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫
私たちの理性は何でもかでもカテゴライズしたがる。カテゴライズする、すなわち分類し言葉で規定することが「分かる」ということだと思いがちである。ところが、はるなさんはそんなことは「わからなくていい」と言っている。そして「わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。」ととも言う。つまり、その人を既成の概念に当て嵌めるのではなく、その人をありのまま受け入れて共感して欲しいと言っているのだ。言われてみればもっともだという気がするが、実はなかなか言えることではない。はるなさん自身が周囲の偏見にさらされながら苦しんできたのだと思う。生きづらさの中で自分と向き合うことでこのような気づきを得た、それは尊い悟りであると思う。
人を、世界を、ありのまま受け入れる。それが龍樹の目指す中道への第一歩ではなかろうか。
人を、世界を、ありのまま受け入れる。それが龍樹の目指す中道への第一歩ではなかろうか。
掘割川(横浜市磯子区) 美空ひばりの生家はこの付近にあった。