禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

未だに同性愛を犯罪と見なす国がある

2023-01-11 11:11:22 | 哲学
  2022年7月時点で、同性間の性的交渉を犯罪としている国は70カ国ある。しかも、そのうち12カ国は死刑、27カ国は禁錮10年から終身刑、31カ国が禁錮10年未満となっている。(クリックして参照してください==>「性的指向に関する世界地図」
この資料を見ると、死刑などの重罪が課せられるのはイスラム教国が多い。一般的に、同性愛に対する許容度がもっとも低いと言われるのがイスラム教で、プロテスタント系福音派、カトリック、そして主流派プロテスタントが続くと言われている。

 西ヨーロッパや南北アメリカのキリスト教国では同性婚が法律で保障されている国が多いが、これは近年のリベラルな風潮が浸透してきたためで、二十世紀半ばまでは犯罪とされていた国が多かったのである。現在のコンピューターの生みの親でもあるアラン・チューリングというイギリスの超天才数学者をご存じだろうか? 彼は解読不可能と言われたドイツの暗号システム「エニグマ」を解読した救国の英雄でありながら、1952年に19歳の少年との性交を理由に逮捕されてホルモン「治療」を受けさせられている。彼が自殺したのはその2年後である。彼の名誉回復が行われたのはその55年後、2009年9月にイギリス政府が公式に彼に対して謝罪した。映画「イミテーション・ゲーム」を見た人ならこの辺のいきさつはご存じだと思う。イギリスにおいても20世紀までは同性愛は犯罪だったのである。

 「性的指向に関する世界地図』を参照すると同性婚が法的に保障されている国はリベラルなキリスト教国が多いことが分かる。性を生殖の為と位置付ける宗教においては、同性愛は神の意志に背く行為であり明確に犯罪であると規定されていたのである。しかし、どう考えてみても性的指向(嗜好)は当人の責任ではありえない以上、同性愛を背徳と見做す思想は現代のリベラルな考え方とは相いれないのである。同性愛を禁止する規定は逆にそれを法的に保障する規定に書き改められたのである。

 日本などのような仏教国では、宗教的な理由によって同性愛は犯罪とされることはなかった。だが、一般に人は自分に理解できないものを恐れる、それゆえ異質の者は嫌悪され排除されるのである。宗教的な禁忌に触れなくとも、同性愛者が生きづらいことには変わりない。明らかな背徳として規定されていない分、表立って議論されないので陰湿な差別としてそのまま残りやすくなる。リベラルな民主主義国であるはずの日本において、同性婚が市民権を得るのはもっと先のことになるかも知れない。

 もし、神が人間の設計図を書いたのであれば、もしくは人間のイデアというものが存在するのであれば、ヘテロ・セクシャルな人間が範型に沿った正しい人間であり、それに合致しない者は人間として規格外の欠陥品であると言えるかもしれない。しかし、ここのところは仏教的な世界観に沿って、人間というものも無常の世界の中に偶然あらわれたものと受け止めるべきだと思う。それは偶然であるからいろんなバリエーションがあり得るのが当然なのである。

自然は偶然できたゆえに不定形である。(横須賀市 前田川遊歩道)
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