一般に宗教は神秘的なものと考えられている。人間の生死に関わることや世界の成り立ちに関わることを扱うからだろう。仏教においても、葬式を執り行ったり加持祈祷をしたりするので、なにか神秘的なことに通じているのではないかという印象を持っている人も多いのではないかと思う。しかし、私の知る限りでは(というより、「私の考えている仏教では」と言うべきかもしれないが)、釈尊が説かれたことの中には神秘的なことはなに一つない。釈尊は、生まれる前と死んだあとそれからこの世界の成り立ちについてはなにも言及しておられない。そのような形而上のことがらについてはすべて無記なのである。
思うに、釈尊の唱えられた教えというものはシャーマニズムの支配する当時においては余りにもラジカル過ぎたのかも知れない。人々はどうしても宗教に神秘的な力を求めているので、布教する側としてはそういう期待に方便として迎合したのではないか、と私は想像している。例えば六道輪廻ということについて考えてみよう。六道とは衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界のこととされている。そして、自分が今このような境遇であるのは前世の行いの結果であると説くのであるが、これは釈尊が前世と死後のことは無記とされたこととは明らかに背反している。 辞書によると、「六道輪廻」は仏教用語ということになってはいるが、もともとは古代インド人が持っていた世界観で、釈尊以後の人が仏教の教説として取り入れたと考えられる。
「自分の今ある境遇は前世の報いである」という説明は、諸悪莫作衆善奉行を推奨する宗教にとって分かりやすくて都合のいい教えかもしれない。しかし、報いがあるから悪いことはしないで良いことをするというのは仏教の原理ではありえない。それだと単なる損得勘定に従って行動しているのと何にも変わらない。損得勘定抜きで善いことをしなさいと言うのが仏教である。仏教における倫理の源泉というものは自分自身にしかない、決して他からは与えられないのである。
「一切皆空」というのはものごとに恣意的な意味を与えないということである。計らいを捨て自然(じねん)に従う、そこに慈悲というものがあるというのが仏教の原理である。慈悲というのは現代語でいうところの愛である。そういう意味で仏教は究極の性善説と言える。非常にシンプルな教えであるが、シンプル過ぎて難しいという面もある。というのは、すべてが空ならそこには一切差別というものがなくなるはずである。したがって、人種や宗教によって人を差別するというようなことがあってはならないということになる。ここまでは誰でも理解できる。しかし、ゴキブリはどうだろうか? 仏教の原理をどこまでも押し通すなら、当然のことゴキブリにも慈悲を施さねばならない。不殺生戒というのはどんな宗教にもあるが、一般的には「人間を殺してはならない」という内容であることがほとんどである。ところが仏教では「一切衆生悉有仏性」である。つまりその対象はすべての生き物に及ぶのである。現に東南アジアの上座部仏教の僧侶は虫一匹殺してはいけないことになっている。それで裸足で生活している、小さな虫を踏み殺さない為である。
シンプルな原理に基づく仏教はとてもラディカルなものを内包している。修行を徹底すれば、ゴキブリや蚊にも慈悲が湧いてくるというのは理解できないことではないが、現実に生きていくためには衛生的かつ快適な生活が必要だし、生き物を殺して食べるということも避けがたい。現実には原理原則でひとくくりにはできない面がどうしてもある。仏教には方便が多いというのもその辺に理由があると考えられる。現代の日本では、浄土系の僧侶などはほとんどが肉や魚を食べている。「かけがえのない命を頂いているのだから、粗末にしないで有難く頂戴する。」と言っているが、食べられる牛や豚の側からすれば、「粗末にしようがしまいがとにかく殺さないでくれ」と言うかもしれない。
私は子どもの頃一時的に菜食主義者になろうとしたことがある。牛の屠畜についての話を聞いた時、その作業の冷酷さに身震いした。殺される牛の側に感情移入した時の恐怖から肉を食べることが出来なくなった。その時は、今後一切牛や豚の肉を食べるのは止そうと思ったのである。しかしそんな期間は長くは続かなかった。私は食べ物の中で牛肉が一番の好物なのである。罪悪感を感じながらも牛肉を食べることを止めることは出来なかった。それ以来私は自分が宗教的な人間にも倫理的な人間にもなれないということを思い知った。