仏教では無常ということをよく言いますが、これは結局「神さまはいない」ということではないかと思います。神という超越者がいてすべてを差配しているなら、この世はあるべき規矩におさまっているわけです。そして、人間なら人間、犬なら犬、猫なら猫、それなりの本質というものが神から与えられているということになるでしょう。しかし、仏教においてはそういうものを企画する超越者を想定しないのです。つまり、人間も犬も自然が設計図も何もないまま偶然につくりあげたものに過ぎない。設計図がないということは人間の人間たる本質も存在しないということです。永い時間が経過すればどんどん変容していくでしょう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を
あらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に
はほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
あらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に
はほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
日本では無常と言えば平家物語というほど、この冒頭の一節が有名ですが、私はこの文章は仏教的無常観を表現するには不十分であると考えています。「盛者必衰の理」というとなにかそこには予定調和的な響きがあるように思えるからです。無常というのは盛者必衰がお約束ではなく、盛者が盛者のままでおられる保証がないというだけのことであって、そのような理(法則)があるわけではありません。
神様がいないから、われわれにはなにも保証されていない。それが無常の恐ろしさです。たとえ現在は大金持ちで恵まれた環境にあったとしても、それは見せかけのこと、なんの足場もなく、たった一人でこの大宇宙に面していることに気づく、それが無常観、西洋哲学風に言うと実存的不安です。普段はそのことに気が付かない。私たちの思考が固定的だからです。考え方は常に惰性に流れるからです。幸せな子供は永遠にその状態が続くと思っています。両親のどちらかが亡くなった時、はじめて巨大な運命の渦の中にいる自分の卑小さを思い知るのです。
では、私たちはどうすれば良いのか? どうにもできません。どう考えても無常の大きさは人知を超えています。それを受け入れる以外にはありません。それが仏教的諦観です。なんの約束も補償も無いながら、ともかく私たちは現に今生きています。これは実に奇跡的なことであります。なんの約束も補償も無いということは、道を歩いている時にいきなり足元の地面が陥没して奈落の底に落ち込む、そういうことが起こったとしても、私たちには文句言える立場にないということであります。そして、実際にそういうことはありえます。が、現実に私たちは生きている。その気づきが大事であると思います。そのことに気づけば、私たちは実に絶妙な世界に生きていることを認めねばならないと思うのです。それがいわゆる「妙」ということであります。私は仏教を系統的に勉強したことは有りませんし、経典などはほとんど読んだことはありませんが、仏教の要諦とはそういうところにあるのではないかと思っています。
美しいミツバツツジ、まさに絶妙の世界。(鎌倉・長谷寺にて)