朝日新聞デジタルに寄せられたはるな愛さんの言葉に、感じ入るところがあったのでここで紹介したいと思います。
≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫
はるな愛さんはこれまでに何度も「自分は何者であるか?」ということについて、真剣に自問自答してきたのだと思う。その結果、言葉で決めつけることが出来ないという結論を得た。仏教的視点から見れば、それはまた当然のことでもある。あらゆるものが流動していて瞬時もとどまることのない無常の中では、本来固定的な概念は成立しない。それが空ということである。これは一般に思われているほど神秘的な思想でも何でもない。地に足を着け、素朴に考えれば、誰でもそこに行きつく結論である。
この辺が、「始めに言葉ありき」の西洋思想と大きく違うところである。プラトンのイデア論によれば、われわれ人間はみんなそれぞれ違うのに、みんな人間と分かるのは人間のイデアというものがあるからだと説く。いわば典型的な人間、どの人間でもないが人間である限りの人間、人間の設計図的なものが形而上の領域に存在すると、プラトンは説くのである。しかし、仏教側から見れば、そのような設計図を誰が書くのかということになる。超越的な存在、いわゆる神様がいなければイデアなどというものは成立しない。人間が進化の過程で生まれてきたのであれば、最初の人間は人間以外の親から生まれてきたということになる。では、人間と人間以外の境界をどのように設けることが出来ようか?
つまり、仏教的見地から厳密に言うと、完全な人間と言える人間はいないのである。どの人間も無常の中では偶然的なもので過渡的なものでしかない。便宜上、あえて「人間」と称しているに過ぎない。「人間は人間に非ず、これを人間と言う。」というのはそういう意味である。 「人間」だけでなく、「LGBT」だとか「身体障碍者」だとか「男」や「女」すべての概念について、このようなことが言えるのである。
もし、完全な人間や本当の人間というものが存在するのであれば、同性しか(性的に)好きになれない男や女は欠陥者だと言えるかもしれない。しかし、誰もが偶然に生まれたものであり、完全な人間などというものは存在しないのである。だれがどんな性的嗜好を持っていようとそれは偶然のこと、その人の責任とは何のかかわりもないことである。
私達は言葉に依らなければ思考できない。したがって、私たちは便宜上言葉を使わざるを得ないのだが、言葉が真実に的中することは原理的にありえない、ということは大乗仏教の祖龍樹も言っていることである。私たちは、他人のことを言葉に依って決めつけたがるが、その事には相当用心深くあらねばならないと思うのである。大事なことは、目の前にあることを具体的に見て、そして具体的に対処することである。はるな愛さんの次の言葉が、そのことを教えてくれた。
≪わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。 ≫