禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

一日作さざれば一日食らわず

2023-08-03 13:35:25 | 仏教
 百丈慧海禅師の有名な言葉である。とても有名な言葉なので、その言葉にまつわる故事は省略する。(その故事についての解説はこちらを参照してください==>「一日作さざれば一日食らわず」
 
 百丈禅師というのは唐代の大禅匠であるが、「百丈清規(しんぎ) 」という禅林の修道生活全般にわたる規範を取り決めた人である。残念ながら百丈清規はその後散逸してしまい、今となってはその全貌を伺うことは出来ないが、現在の僧堂の運用の基礎として残っている。禅林では修行者の日課とその役割が事細かく決められている。各々が自分の役割分担をそれぞれ果たすことによって、はじめて禅林は一個の有機的な集合体として機能するのである。百丈は自立した持続可能な禅林というものを目指していた、千年以上もの昔に今でいうところの「 SDGs 」を意識していたすごい人なのである。

 以上のことを踏まえて、「一日作さざれば一日食らわず」をもう一度考えてみよう。重要なことは「お互いに役割を果たす」というところにあるのではないか。つまり、それはお互いに必要とされているということを意味する。自分に必要とされている役割がある、つまりそれがその人の居場所である。「働かない自分が食事をするのは申し訳ない」という気持ちが百丈にあったのかもしれないが、それだけの解釈にとどまっては不十分だと思う。自分は老人であまり大きな働きはできないかもしれないが、まだまだ畑を耕すくらいのことはできる。老いたりと雖もまだまだ人の役に立ちたい、つまり「一日食らわず」というのは自分の役割を奪わないでほしいというハンガーストライキなのである。

 人は互いに必要とし必要とされる存在である。必要とされることを必要としているし、必要することを必要とされてもいるのである。そこに共感と安寧が生まれるのである。人々が応分の役割を果たせる社会、そういう社会が百丈の理想なのだと思う。残念ながら、資本主義というのは人々に役割を持たせる仕組みとしてはある程度の機能を果たしているが、どうしても利益というものを第一の動機としているため結果的に人間と労働を疎外してしまう。労働を苦役に対する対価としての賃金を得るためのものに貶めてしまった。「働かざるもの食うべからず」という解釈が生じるのはいかにも資本主義的である。

 私はときどき障碍者の方々が働いている食堂を利用することがある。そこでの業務の流れは必ずしも効率的ではないし、はたから見ていてぎこちない点がままある。しかし、私の主観かも知れないが、それぞれの人がやりがいをもって生き生きと働いているように思う。一生懸命作ってくれた料理を供されて、それを食べた私も満ち足りた気分になる。こうした事業は大抵赤字で補助金なしではとてもやって行けないし、業務そのものも健常者がやってしまった方が効率的にできるというのはその通りである。自立し持続可能な事業というにはほど遠いが、何とか改良工夫して続けていく努力はしなければならないと思う。人は誰もが必要とされその役割を全うすべき存在だからである。そういう社会が百丈禅師が目指す理想の社会ではないかと私は考えている。 

(参考 ==> 「公案インデックス」) 

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