妻が読んでいる本のタイトルを見ると、「どうせ死ぬのになぜ生きる?」となっていた。著者にはそれなりの意図があってそのタイトルを選んだのだと思うし、その本の中にはおそらく意義深いことが書かれているのだとも思う。しかし、ここではそういったことを抜きにして、このタイトルだけに焦点を当ててみると、哲学者としてはちょっと引っかかる点がある。
まず第一点として、この問いには「永遠に生きるのなら、今生きていることに意義があるだろうけど、どうせ死ぬのなら今生きることに意義などない。」というようなニュアンスが含まれている。しかし、「どうせ死ぬのだから、今はしっかりと生きなければならない。」とも言える。永遠に生きるかどうかということは、今生きることの意義とはあまり関係がなさそうである。
第二点として、そもそも生きるのに理由や意義を求めることができるだろうかということがある。「なぜ生きる?」ととわれても、へそ曲がりな私は、「理由や目的がなくては生きていたらあかんのか?」と問い返したくなる。
どんなことがらにでも「なぜ?」という言葉をつけ足せばそれがそのまま問題となる。人間の理性はどんなことにも理由を求めるからである。ちなみに英語では、理性も理由もどちらも "reason” である。「どんなことにもそうなったことの理由がある」という原理を充足理由律と言う。私たちの理性には充足理由律が刷り込まれているのである。だからこそ科学文明が発達したとも言える。科学は充足理由律を前提として構築されているのである。だから、科学の上ではなんでも「なぜ?」ととうことができるし、また問うべきである。「私はなぜ生まれてきたのか?」という問いには、父と母が結ばれたからと答えることができる。しかし、「なぜ生きる?」という問いは科学上の問題ではなく、いつのまにか倫理的な問題にすり替わっている。
倫理的な価値観というものは、我々が生きていくうえで生まれてくるのであって、生きていることそれ自体は無意味である。「無意味」という言葉がネガティブにひびくなら、ニュートラルとでも言っておこう。「世界がどうしてこのようにあるのか?」という問いには科学上の事であれば、「それはビッグバンから始まった。」とか、さらにはそれ以前へと無限に遡及していくことだろう。しかし、究極的な意味において、「そもそも世界はどうしてあるのか?」とか、「私はなぜ私で、今ここにいるのか?」という問いに解はない。
だから、「私はなぜ私で、今ここにいるのか?」という問いを発すると、人は実存の不安に襲われる筈である。なぜなら解答が存在しないから。その問いを発するということは、世界の中に自分の位置を確認しようとする行為であるが、無常の世界には確かな座標というものは存在しないからである。問い方を間違えているのである。
虚心坦懐に反省するなら、私の実存的世界は「私が私であり、今ここに生きている。」というところから始まるのである。それ以前にはなにも存在しない。私が今ここに生きているということだけがこの世界の中の唯一の不動点であり原点なのである。「なぜ私は生きるのか?」というのは、原点を指さして「この原点はどこにあるのか?」とたずねることに等しい。位置というのは原点によって決まるのである。その問いは一体何を問うているかが分からない意味不明な問いである。問は成立していないのである。
京都 思い川 (本文記事とは関係ありません。)
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