「ものごとをあるがままを見るなどということができるはずがない。」というふうに言われることがある。私たちがなにかを見る時には必ず何らかのフィルターがかかっているということなのだろう。しかし、私に言わせれば、そのような考え方自体が、自分の感覚というものを科学的客観的な視点から俯瞰するという論理的思考の罠に陥っているのである。科学的客観的な視点というのも一種の架空、超越的でありドクサ(臆見)の種である。
「あるがまま見る」というのは、ひとつは言葉による再解釈をしないということである。言葉が介入すると必ず抽象化が行われ実相がゆがめられるからである。例えば、「鳥が飛んでいる」という言葉を聞くと人はそれぞれめいめいにいろんな鳥が飛んでいるさまを思い浮かべる。しかし、一般的な鳥や一般的な飛翔というものは実はどこにも存在しないのである。そのことは龍樹が「中論」において徹底的に論じているところである。西田哲学の純粋経験というものも発想はこういうところから来ていると考えて間違いないだろう。ハイデッガーもその辺には気がついていて、存在の一回性だとかテンポリテートとかいう概念を導入しているけれど、龍樹の方が徹底しているように見受けられる。
「あるがまま見る」のもう一つの要素としては、この世界を因果の結果としては見ないということだろう。哲学者はこの世界について、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問う。おそらくその前提としては、何もないことがニュートラルであるという思い込みがある。私はこのような世界の中に「すでに」投げ出されているのだから、今ある状態をニュートラルと考えるべきだろう。「今」、「ここ」、「私」、あえて言うならこれが原点である。禅の問題というのは、「今」、「ここ」、「私」を離れることはないのである。それは原点であるがゆえに、相対的な位置を記述することもできない、「今」、「ここ」、「私」がなんであるかということを語ることもできない。そのことについて胎の底から納得した時、この世界の原因を問うことはなくなるが、その絶妙さに対する素朴な驚きが残る。それが仏教でいうところの「妙」ということであろうと思う。
【 6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。 】
( ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」 )
世界が如何にあるかということを思量することはできない、神秘はそのまま受け止めるしかないということだろう。
Santiago de Chile
ただ、三点ほど指摘しておきたいと思います。
(1)「言葉」そのものが問題なのではなく、「言葉が介入」して「抽象化が行われ実相がゆがめられる」ことが問題であるということ
「鳥が飛んでいる」という言葉を聞いたこと
「それぞれめいめいにいろんな鳥が飛んでいるさまを思い浮かべる」
・・・これは単なる事実、「実相がゆがめられる」以前の具体的事実であることは、御哲坊さんも疑われていないと思います。言葉が浮かんできたり、言葉を聞いたり読んだり、書いたりしたこと、それ自体は単なる「あるがまま」の事実であると思います。
問題は、「一般的な鳥や一般的な飛翔」という、「どこにも存在しない」ものを想定し、それを実体化することだと思います。それらの抽象概念を具体的経験から遊離させ、パラドクスとか「差延」とか、いろんな屁理屈を導き出すことなのだと思います。
(2)本記事の内容は、まさに「イデアの否定」であるということ
「鳥が飛んでいる」という言葉を聞くと人はそれぞれめいめいにいろんな鳥が飛んでいるさまを思い浮かべる。しかし、一般的な鳥や一般的な飛翔というものは実はどこにも存在しないのである。
・・・これは、プラトン以降(あるいはそれ以前から?)の西洋哲学が、言葉に関する「誤謬」によって始まった学問である、ということなのだと思います。
(私はこれを概念の実体化の錯誤、あるいは抽象概念の罠、と呼んでいます)
御哲坊さんは以前、イデア的なものの経験もあるようなことを書かれていましたが、上記の説明と全く相容れない見解だと思います。
(3)因果の否定ではなく、因果のアプリオリ性の否定
「あるがまま見る」のもう一つの要素としては、この世界を因果の結果としては見ない
・・・という説明も、素晴らしい視点であると思いますが、若干説明不足かなと思います。前回の記事のときにも説明しましたが、因果関係そのものが問題なのではなく、因果関係の誤った適用が問題なのです。そして、上記の御哲坊さんの文章は、因果関係をアプリオリと見ることの誤謬を指摘するものであると思います。
ときどき見かけるのですが、「経験論は経験そのものが”なぜ”現れているのかを説明できない」というような的外れな批判です。経験論は”なぜ”そうなるのかという原因を突き止める学問ではなく、”なぜ”とは何か、因果関係とは何かを、具体的経験(あるがままの事実)として現れる事実として説明する、ということだと思います。
因果関係⇒経験の説明、ではなく、
経験(「あるがまま」の事実)⇒経験と経験との関係づけ⇒因果関係(原因・結果)としての把握
である、ということです。
(”「今」、「ここ」、「私」”という見解の問題点については今回は触れませんでした)
西洋哲学というのはどうしてもロゴス中心の考え方に支配されているという面がありますね。その辺はアカデミズムから縁の遠い我々在野の哲学徒の方が柔軟な視点を持てるのではないかとも思っています。
「『あるがまま見る』を、この世界を因果の結果としては見ない」というのは、因果関係の否定でも因果関係のア・プリオリ性の否定でもなく、世界のとらえ方を今ある結果の方から見る、という発想の転換を促しているとでも受け止めてもらった方が良いかもしれません。
ヒュームは因果関係にア・プリオリ性はないと言い、カントはア・プリオリであると言います。私も、どちらかと言えばヒュームよりですが、もう少しカントの言い分を聞いて見なければならないような気がするのです。ただ、純粋理性批判はとても難しいというのが私の本音です。
今回の私のコメントは、御哲坊さんの見解を哲学という学問において位置づけたときの意義を示したもの、(一部分を除いて)御哲坊さんの見解を言い換えただけにすぎません。在野の哲学徒の見解が、アカデミックな哲学という学問(こういった表現もちょっと漠然としすぎていますが・・・)においても意義を持ちうることを示そうとしたものです。
世界のとらえ方を今ある結果の方から見る、という発想の転換を促している
・・・これこそが、因果のアプリオリ性の否定だと思います。因果⇒経験、ではなく経験⇒因果、つまり因果律が先行するのではなく、御哲坊さんの言われる「結果」としての経験から因果が事後的に導かれる、そういう発想の転換、ということです。
そうでなければ上記の説明は、「この世界を因果の結果としては見ないということ」という御哲坊さんご自身の見解と相容れないものになってしまいます。
イデアや因果について、時が熟せばじっくり議論できるかもしれません。ヒュームやカントを引き合いに出すまでもなく、「あるがまま」の経験として、実際にどうなっているのか、まずはそこからだと思います。ヒュームやカントをどう考えるかはその後だと思います。