ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

フロドとサムのこと・・・

2003年07月01日 | 旧指輪日記
昨日ちょっと自分の日記を読み返していたのですが、このところ原作よりになってみたり、映画よりになってみたり、蝙蝠人間のごとく節操がないので笑ってしまいました(笑)ホント、未だに原作と映画の間で揺れています。
で、そんな状態で原作を読んでいて、(ようやく滅びの山のそばまで来ました・・・(汗))ちょっとフロドについて考えてみました。
原作で、サムがフロドに指輪をしばらく代わりに持っていようか、と言うと、フロドが剣に手をかけ、(突きつけるまではしてませんが)「これは私だけに負わされた使命だ」というようなことを言うシーンを読んでいて、あー、TTTでイシリアンに差し掛かったあたりでのフロドとサムの言い合いと、オスギリアスでフロドが剣を突きつけるシーンはこの辺りから取ったんだな、と思いました。それから、フロドが「もうだめだ」と弱音を吐くシーンも、原作のRotKから取ったんではないでしょうか。映画TTTのフロド、原作のRotKのフロドが前倒しになっているなあ、と思っていたのですが、やっぱりそうだなあ、と。
私が原作のフロドの好きな、というかすごいと思ったところは、フロドが自らの弱さをちゃんと知っていて、そしてそんな弱い自分が使命を果たさなければならないこと、そしてそれが自分を犠牲にして愛するものたちを守ることになるのだということを覚悟していたところかな、と思います。あと、一切の武器を放棄して、自分はもう戦わないと宣言するところもなんですが。
だから、映画のフロドはFotRの時から原作以上に弱すぎると言われていましたが、私にとってはフロドの好きな部分が拡大されて表現されていると思いましたので、全然オッケーでした。
で、私が違和感を感じるのは、やっぱりサム、なんですよね。原作を読み直していて、それまで決して希望を失わなかったサムがもう帰ることはできないだろうと覚悟し、決然として意志を強固にするシーンにかなり感動したのですが、映画ではあれだけカッコ良くなってしまったサムからあの感動は得られないよなあ、と。「それはそれでいいのでは」と思うには、あまりにも原作のサムから得た感動は大きすぎましたから・・・
結局のところ、原作との違いが許せるかどうかは、思い入れの違いかなあ、なんて思ったりもしますね・・・。

コメント
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