
本音と建前は人との関りの中で
料理しなければならない材料である。
Talk honestly and superficially stated talking
are like cooking ingredients that
should be cooked to have a connection with people.
思ったことや感じたことを
そのまま言葉にすることを本音だと定義すると、
食材を加工せず
そのまま食すことに似通っているかもしれない。
If define talking honestly meaning such as,
saying straightly what one thought or how the one felt,
it might has put similarity like eating as it is
without processing the ingredient.
建前を表向きに望ましいことを
自らの想いや感じに反して言うことだと定義すると、
食材を加工して
本来の渋味とか苦みとかを取り除いた料理法に比喩できる。
In the same way,
if define official talking such as,
saying contrary to be desirable
against what one thought or how the one felt,
it might has put a metaphor like a cooking method that
removed ingredient’s astringent or bitterness
by processing the ingredients.
人と関わっていく中で、
自分の本音、
本心をどう表すかは人格の良し悪しに直結する。
In the process to involving with people,
the thing that how express one’s true intension
or true thinking isdirectly linked to
how the one’s personality good to be or not.
ある程度の年齢に達した人が、
全て本音で貫くとするならば、
その人は孤立されるか、
或いは敵を作ってしまい
人はその人から遠ざかるようになるだろう。
Someone who has reached to aged appropriately,
if the one tries going through with true intension at all,
the one will be isolated or happed to make enemies and
people will be away from the one.
しかし、建前だけの人間関係を作ってしまうと、
当たり障りの無い安全な関係になるかもしれないが、
その人に本当のことを言う人がいないがために
孤独になる可能性が高い。
One the other hand,
if someone makes relationship with people
superficially related only,
it may can be safe without harm or offensive
but there is high possibility of to be lonely
because nobody tells a true to the person.
建前のことしか言わない人に、
誰も本音で接しないと思うだろうし、
その人が言っていることに
信用性が無いと人は判断するだろう。
People would not want to be connected genuinely
with someone who always says superficially only,
and people would judge that
the person doesn’t have a credit on what has been said.
私は馬鹿正直な面が多く、
どちらかと言うと、
勢いに任せて思ったことを言って
後で後悔するタイプだ。
I have many stupidities on honesty,
to say which am I,
I am the type of person who regrets later
about what I have said my thoughts with my momentum.
その傾向が原因で人の気分を害したり、
人との縁を切られたりしてきたが、
だからといって建前を言うと
後味が悪くてそれがストレスになる。
Such tendency of mine sometimes harms people’s mood or
made me broken out by someone
but even though in case I said just superficially,
it became taste bad and turned to stress.
その不協和音から考えると、
私は本音と建前の料理が上手くないがために、
人は私の言葉表現の料理をおいしく食すことが
できないことになるのかも知れない。
Considering such dissonances I made,
it may be caused by my inability
to cook honesty and superficial
so that people are not able to deliciously eat
my cooking of expression language.
料理をしていると、
味の決め手になるのは塩であると分かってくる。
When I cook,
I come to find the deciding factor of taste is salt.
良い塩は全ての食材の味を統制し、
火力の度合いや水との加減を
仲良くなるように仲介する。
A good salt controls all ingredients taste,
and it intermediates to go along well
with the degree of thermal power and with condensation.
塩は食材の分子構造を変え、
新たなうまみの結晶を作り出す。
Salt changes ingredients molecular structure and
crystalize a new flavor.
まずい料理は大概、
塩の分量が適切でないため何かが足りない、
何かが多すぎるがためにできる結果である。
In general, most of bad tasted dishes
resulted by the salt amount and
when it is not appropriately used,
the taste will be like lack something or
something is too much.
私は本来、
料理嫌いだったが、
塩の加減の力に魅せられて料理が楽しくなった。
Originally, I didn’t like cooking
but since I have been attracted by the power of salt
the cooking became fun.
料理をする時には、
ある特定の量の塩と
食材に含まれている水分の量が結合して作り出す
味の加減を実験しているような気分で挑んでいる。
When I do a cooking,
I feel like I am challenging an experiment that
finding out an adjustment taste that
resulted by a certain amount of salt,
creating a favor the salt combined
with contained moisture in each ingredient.
塩を振りながら、
この塩がもたらす結果に期待し、
味わってみて
私が使った塩の量と出来上がった料理の味を
比較分析できる実験A、
実験Bのようにデーター化している。
While I shake salt,
I expect a result that
the salt would have brought up a certain taste
and when all the ingredients have been done,
I converted it into my data bank
to analyze the amount of salt I used and
the taste I get
as an experiment A,
Experiment B to compare each case.
私の料理を味わいながら、
塩加減のちょうど良い料理のような
人間関係になれたらなと想いを広げたりする。
Tasting my cooking,
I sometimes spread an imagination that
wishing to have a good relationship with people
like a good dish which has a well-balanced salt.
人間関係は塩加減のように、
本音と建前もちょうど良い加減の比率が
きっとあると思うが、
私はまだ確実な比率が分からず、
試行錯誤を繰り返しているような気がする。
Human relationship is like the salt ratio,
I believe there must be a certain ratio
to be honesty and to be superficial in a good way
just like salt does,
but I don’t know the formula yet
so feel like I am repeating trials and errors.
人間関係で塩的な要素が足りないと
まずくて満足に食べられないから、
人は砂糖を使う。
When salt like element lacks in human relationship,
it is like a dish
which unable to eat satisfactorily so people use sugar.
砂糖は使い過ぎても食べるのに問題が生じない。
Sugar doesn’t make problem to eat
even though it used too much.
だが、砂糖を食べ過ぎると
内臓系がやられ癌や成人病につながる。
However, taking too much sugar
causing cancer or aging related diseases
because organs get harmed.
建前は砂糖のように、
食材本来の味を誤魔化し、
全て甘い味に仕上げてしまう。
The superficial is like sugar,
it deceives original ingredient taste and
finishing up all taste sweet.
その甘いだけの味に慣れてしまうと
体を温める辛い味や体を癒す苦みに耐えられなくなる。
If someone gets accustomed sweet taste only
the person would not be able to endure such like,
the hot spicy taste which can warm up body temperature or
the bitterness which can heal body.
しかし、甘みの無い料理はそれも食べるのに楽しくない。
However, the dishes no taste of sweetness,
it is not fun to eat.
本音と建前は塩と砂糖のバランスのように、
他人と自分をどう上手く結合するかが
人間関係を上手く料理できる業でもあろう。
Honestly saying and superficially saying
are like salt and sugar balance,
it would be also like
a deed for cooking well for human relationship
how combine oneself with others.
まあ、でも、次の記事に行きましょうか。
私のコメント方針と接待態度を大きく変えてくれました。
まだまだ言い切れないでしょうけれど、
スクロールバーを下げていくのが
面倒になったので、
お坊さんの地獄めぐり編の
ファンタジー系コメントの評価は
次になんとんかして
つなげていけたらと思います。
毎回、違うパータンのコメントが読めて
私は五体満足で
六感も養えた感じがします。
次の記事でよろしくです。
「地獄での菩薩行」発言が何故出て来たか
博学のイエスちゃんが解説して呉れましたね。
そ~か、正法眼蔵を白隠禅経由で解釈した秋月龍ミン老師の、「じみとくどせんどた(自未得度先得他)」の言い換えってことですね。秋月師見解によれば、道元師が「地獄での菩薩行」を説いている、という事なんでしょうね。
そしてネルケ師もそう解釈し・・・
では南師もそう解釈するのか?
という事だけど多弁の南さんはシランプリの無記もショッチュウやらかすし(=自分の気の向いたことだけ話す)・・・
かといってあの膨大な正法眼蔵から自分で調べろって。。。ネエ、おとみさん!!
それってちょっと無責任じゃあないかいな!!
自分で調べてもすぐには答えが見つからなくて、
ケイレンさんじゃあ無いけど、「(オタク仏教論には)もう飽きて来ちゃってェ、次の話題に行っちゃいたいなァ!!」ってなりますかね。
ケイレンブログで仏教オタクを遣る限界が見えてきましたね、たぶん。
実際にあるのかイメージだけか??
人は全て自分の作ったイメージで生きる
・・何故か?
右脳機能が『性善説』のイメージを保有する。
天国・神・仏・仏性の世界・万物はみな仏
と感覚する。
美を知覚する、無我も右脳の機能の一つ。
涅槃寂静・安寧の世界観
左脳機能が『性悪説』のイメージ。
地獄・一切皆苦・実存は苦だと定義する。
自他の分別,優劣観・勝ち組負け組分別。
左脳機能が競争をあおり、他者を蹴落とし「私は絶対まけません」と叫ぶ阿修羅の世界観
が、価値ある喩え話ではある、
作り話ではあるが、生きてく上では役に立つ・・・
が私の感想。
お釈迦様が今も天上界に生きていて、君の善行(徳業)を見ていて良き来世を保証してくれるって??
又は、お釈迦様は今は生きていないけど、
代りに閻魔大王が、この世での善行の君を審査して、
君に善き来世を保証してくれる・・・
まさにキリスト教の神と同じ思想体系、超越性の極み。
これが多分南さんが疑問視するところのものだけど、
これが一般に流通する仏教なのかも。
この世はとかく確認できないことばかりであります。
https://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/6535246695fc6559ca720c521b1e4afd
釈迦は、自分が悟りを実現することで、バラモン教の伝承の誤りを正した、と思っています。
仏教学者の中村元氏が、釈迦は、特別な宗教の開祖となる意識は無かった、と解釈するのは、そういうことだと思います。
悟りに達する真実の道、真のバラモン、そういうことだと思います。
輪廻を含む地獄や天国は、仏教以外に任せられなかったのでしょうか。
それらが実際に有ると思っているのか、イメージだけか、有るか無いかわからないか、全く無いと思っているか、つまり心の有り様を示されているのでしょうが、悪をなす前のブレーキ的な役割としては、ほぼ脅しに近い戒めではありますよね。
(スッタ・二パータ)
他にも、いろいろあります。
248 これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、常に(害を)なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆さまにして地獄に落ちる、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
(スッタ・二パータ)
中有というのも、輪廻転生のことですよね。
スッタニパータに、地獄は出てきますか?
(正法眼蔵 三時業)
道元禅師は、仏教以外?
この方達は、南氏の言われる「仏教以外」の僧侶なんですかね。
https://hasunoha.jp/questions/22039
知覚できる範囲で・・・?
そうなると、実存の意味が変わりませんかね。
彼のビデオは一時期
結構な量を観たことがあります。
私は何かに興味を持つと
全体像が持てるまで
しぶとくやるのですが、
彼は例外で
数少ない彼のビデオだけ観て
もう飽きてしまって
この外人、中身空っぽうだと
言っていることに核心が無いと失望した覚えがあります。
彼が変だと思う私の説も
名無しさんの説に加えると
①身のこなし方が修行僧としてだらしない
②人が書いた書籍を読んで市場価値で判断する
③明確な修行の方針が無い
④日本伝統禅を自分流に変更している
大まかに取り上げてみたのですが、
あくまでも私の見解にすぎないので
参考になれないと思います。
釈迦は、無記でもありますね。
ですので、「実際の釈迦」ってのが、誰が語っているのか、実際わからないんですよね。
所見①
言葉遊びたと断定した意識の背景には
書かれてある文章を
感情を介入せず、打算的に考えるからこそ言える表現だと思います。
私は他の人が
言葉で遊んでいると見受けられても
その人が
遊ぼうとした意志の方を見てしまうので、
その言葉を使ったからと言って
批判的にはなれませんね。
独身男性なら
そんな言葉を使って
シニカールに冷笑もして
自分遊戯でもして、
そう悪く無いと思いますね。
それから、不滅の魂について無記な釈迦は、輪廻を説いていないか、方便だと理解しているのでは。
なお、小林秀雄賞については、日本語表現豊かな著書(評論・エッセイ)に毎年贈られる、ということのようです。
内容の素晴らしさはもちろんでしょうが、日本語表現が豊か、ということがキーポイントだと思います。
内容的には、宮崎哲弥さんが、自分が最近出した本と同じと言っていたと思います。
ネルケさんは、かつて学界で起きた批判仏教の考え方と類似で真新しさがない、と言っていましたね。
その苦しみを、生きながらに滅尽する、もはや苦しみが生まれない、というのは、超越的。
そういう理解です。
釈迦は「あらゆる実存は無常である」と語っただけである。実存とは実際に知覚できる範囲で存在する事象と言う意味である。
そうすると釈迦は、死後の事を語ってはいけなかったし、苦の解脱の事も語ってはいけなかった。(当然涅槃の事も)。
でも実際の釈迦は語っているようだ。
じゃあ超越論の根源は釈迦自身から発しているという事で、
南さんの『超越と実存』本での論旨の組み立て方が崩れるのではないか・・・でも小林秀雄賞に値する?・・・う~む、何故でしょう??
ところで、たかはしさんが、「苦しみからの解脱を語るのは実存からの超越である」、という根拠はなんなのですか?
アメリカでの仏教の主流はチベット仏教なんでしたかね。
彼等は、中国共産党に迫害され、アメリカにレフュジー(避難民)として流れて来て、全米各地にチベット仏教会を立てた。
斯くして、ビッグネームのチベット仏教僧がアメリカで力強く生き延びている。
彼等は輪廻を説いて、来訪者に、輪廻が真実であることを証明できると主張している。
そうなるとケイレンさんの敵は、
キリスト教会だけでなく、チベット仏教会もですかね。
戦いには敗けません主義のケイレンさん、
道元禅だなんて公表して、
そう言う方々から、或る日突然、
焼き討ちに会わないように、
くれぐれも「どうぞ、ご自愛くださいまし、まし」。
悟った人の死後は、心と身体が滅して、もはや輪廻は起きない。では、どうなるのかについては、もはや測る基準が無い、論議出来ない。心と身体以外のナニモノカが永遠に存続する、とも言えない。
悟れなかった人には、自業自得の輪廻が起きる。
ややこしいですね。
それから、六道輪廻には、それぞれ寿命があるそうです。
だから、そこでの善行が重要になるということでしょう。
>苦しみからの解脱も実存からの超越
とすると釈迦も超越論者だったという事でいいでしょうか。
私の記憶によると、
釈迦の弟子が、悟りを開いた人は死後の存在はどうなるのかと問うた時に、
釈迦は、(完全に)吹き消された炎の行く先はもはや不可知となる、みたいな答え方はしているが、
悟りに至らない人の死後は輪廻すると言ってる(かな、たぶん)。
たかはしさん、どうなんでしたっけ。
地獄に落ちた人は渇愛エネルギーで悶々として地獄界で彷徨(さまよ)っている筈なのに、
どうして後世に生まれてくる赤子の心の中に滑り込めるのでしょうかね??
分身の術って事??
芥川龍之介の蜘蛛の糸ではその辺の事情を何と言ってるんでしたっけ、
蜘蛛の意図専門家のけいれんさん。
生前悪行した人だけが地獄へ落ちて裁かれ苦役をうけて、
嘘ついた罰として舌を切り取られ足は鎖で繋がれるのに、
悪人ネルケ師がなぜ地獄で菩薩の説教旅行など出来ようか・・・
喋れネ~くせに、
ふざけたことを言うのも休み休みせい!!
とかになる可能性が99.9%あるからですね。
そういえば、
あたしって閻魔大王ちゃんのいい人なのよ(意訳)、とかのたまわっていたケイレンさんはどう思いますか?
ネルケさんが道元禅師が否定している事を言うとは考えにくい訳ですが、
それはネルケ式の正法眼蔵解釈なのでしょうね、きっと。
ところが南さんの正法眼蔵の読み方だったら、
そんなすっとぼけた思考を正法眼蔵から読み下す筈はないと思われますよね、たぶん。。。
正法眼蔵に心が向いて来たケイレンさんがあの方のブログへ行って、博学者イエスちゃんに問い合わせてみられるのもいいですね。
または当店での博学者ZIP男爵の御登場をお願いするか・・・
シャカの心理をプロファイリングすれば、
輪廻が有るから、其処から脱出するためにひたすら修行する。だから彼のライフスタイルがうまれた。
ネルケさんはご自分の修行の目的は何だと思っているのでしょうかね。俄然興味が出てきました。かれの心の底が知りたいですね。
現世で善行をすればより利得の大きい来世が約束されるが、
不徳のヤカラは来世では肥桶のウジ虫よりひどい存在として誕生して来る・・・
という勧善懲悪型思考。
で、今不幸に生きている人は前世の悪徳の結果だとかという理論に繋がって行く。
これはまさしく超越理論そのものだ。
そして、苦しみからの解脱も、実存からの超越だと思いますね。
輪廻は、あってもいいし、無くてもいい。
もし、地獄に生まれたら、そこで菩薩行を実践するだけのこと。
というようなことを言ってましたね。
村上光照さんと似てますね。
道元禅師の言説に、地獄で菩薩行というようなことがあるんですかね。
地蔵菩薩というのは、六道輪廻の世界で菩薩行を実践する人のこと、というのは、大乗の説明で読んだ気がしますが。
DNA(の継承)を基本モデルとして論じていた気がしますが、
DNAの継承は一応、科学的事実として認定されている。まあどうやら信じて良さそうな感じはある。
それはあくまで科学的な物質が食物分子と光エネルギーの化学反応で細胞が分裂して継承される事を意味してる。
しかし輪廻は・・・ああ、輪廻は・・・、誰かの心が次の世代の誰かの心に滑り込む・・・そんな継承形式だ。これを超越的理念でないなんて誰が言えるか??
村上: そうですね。ちょっとの切り替えですかね。「断見外道(だんけんげどう)」といってね、死んだらもう何もない。そんなことなら宗教要らんわい。どうして命懸けで伝えているかって。
「いや、生まれたら、また人に生まれて、また人」これ「常見外道(じょうけんげどう)」と。そんな人間に生まれることできるもんか。
「因果の道理、歴然としてわたくしなし」これ第一ページできちっとせんとね。
人の生き方は、自分中心で、あ、また失敗したで終わったら、どこへ行くと思っているの。肥桶のウジ虫ぐらいに生まれたらましな方だわな。
地蔵さんみたいに好んで地獄へ生まれてやる、という、これは菩薩の道ですけどね。まあそれぞれです。
(引用終わり)
釈迦よりも厳しいかも。
修行せずに、生まれながらに悟っている、ということはあり得ない、ということかも。
現世の心(想い)の残念な部分である「渇愛エネルギー」が死後、後世のどっかの赤子に伝達されるのだ。
では究極の前世たる存在が「渇愛エネルギー」が無い位、悟っちゃってたら、人類は生命体として継承されてなかったのか、
すなわち新たな子孫など存在できない事に成るでは無いか??
一体、前世から渇愛エネルギーを受けないで生まれた赤子何て言うモノが存在出来るのかどうか?
もし存在出来るなら輪廻なんて無い事に成るのではないか?
それじゃあ理屈に合わんじゃ無いか?
輪廻観はやっぱり常住エレメントの存在を前提に成り立っている理論だ・・・とかなんとか。
まあ、そういう意味合いもありますね。
南さんのことが話題として提供されますからね。
これこそが典型的な仏教徒、
仏教的超越論者の塊に見える訳ですが、
南さんの言う「仏教もパラダイムシフトが必要だ」という旧型に属するんでしょうかね。
ある時点でトコトン論理的に突き詰めたら
どうなるんでしょうかね。
論理にうるさい論理派のケイレンさんなら
たかはしさんのこの文章をどう読み取られますか
ケイレンさんも俄然やる気が出て、いままで無視していたらしい正法眼蔵さえも取り組んで見る気になった。
たかはしさんの影響力は素晴らしいものが有りますね。
私もたかはしさんに引きずられて、このブログにコメを残す気になりましたから・・・
たかはしさんにとって、南さんブログへのコメは新記事更新日に旧記事へ自説を書き込む・・・
理由はテーラワーダ系の自説を南さんに聞いてもらいたいが、随時に書き込むと、たちまちテーラワーダ反発者の反論で炎上騒ぎを起こす…削除処置となる(まったく処置なしだ!!)。だから反発者が見るチャンスが少ない日にちを選んでコメ入れる。
で、それまでのつなぎにケイレンブログで仏教論を語るという方針…とお見受けいたしましたが、
ともかく、ケイレンブログが今迄とは違う方向に進んでおり
マコトに喜ばしい事だとおもいます。
まあ、もともと駒澤大学で学んだZIPさんの博識御披露とか仏教専門知識も
もっとここで御開陳して頂きたいですね。
駒沢大学で単位所得をしていたS長老の思い出話しとかも含めて・・
そういえばZIPさんは過ってはZというハンネも使っていたと思いますが、あの方のブログでの最近のZさんとは別人であったという事がわかって
私はホッとした思いでした。
同一人物であるならば、私は用心して、このケイレンブログにも口だししないつもりでしたから・・・
いや、一切が無常だからこそ、死後の生まれ変わりが可能なのだ。
大事な部分が常住なら、それは生まれ変わりでは無い、死んでも死んでないということだ。
まあ、言葉遊びみたいな気もしますが。
アイデア自体は、大学生の頃から考えていたもので、要は、こちらとしては「仏教とは諸行無常を説くものである」と思ってやっているわけです。
つまり「すべての実存は無常である」と。
ところがブッダ入滅後に出てきた、例えばアビダルマ(註・部派仏教の論説)や法華経、華厳経などを読んでみると、「無常ではない何かが〝ある〟」という話になっている――そう私には思えるわけです。
それはなぜか。
「諸行は無常である」つまり「あらゆる実存は無常である」とブッダが説いて始まったはずの仏教に、なぜ「ダルマ」「仏性」「唯識」「浄土」などの「超越的な存在」あるいは「超越的な観念」が後世になって論じられ、加えられていったのか。
仏教史をたどりつつ、こうした疑問に対して自分なりの決着をつけたい、というのが目的で、そのための補助線として「超越と実存」というキーワードを使ったわけです。
もちろんそうした超越的存在なり観念なりを否定しているわけではありません。
しかし、こうした「超越」が仏教に侵入してくると、もともとブッダが説いたことの意味が変質してくるのではないか。
その変質はいかにして起こったのか。
それは〝神〟のような「超越的存在」を前提とする、キリスト教やイスラム教といった他の宗教と変わらないのではないか――というようなことを考えてみたいというのが、その意図です。
(引用終わり)
仏教と仏教以外ということの意味するところは、そういうことのようですね。
仏教は、一切は無常と説く。
仏教以外は、常住な何かを説く。
ということなのでしょうね。
では、「すべての実存は無常である」ということは、死んだら終わり、常住な魂など無い、すなわち断滅論、唯物論と同じ、ということなのか。
それは違う、その問題は、無記、ということなのでしょうね。
実存とは、人の認識範囲内のことに限定されているのだからと。
やっぱり、ややこしいですね。
なお、「例えばアビダルマ(註・部派仏教の論説)」と言っているものには、テーラワーダのアビダルマは該当しないと思います。それは、説一切有部のアビダルマのことを言っているのでしょう。
テーラワーダのアビダルマ(論蔵)では、スマナサーラ長老の解説によると、常住な何かは認めていません。スマナサーラ長老は、説一切有部を批判しています。常住なダルマ(法)を認めてしまったと。
でも、南さんの言説を読んで、テーラワーダのアビダルマもそうだと勘違いしている人が、あちらのブログのコメント者にいるようですね。以前にそんなコメントを書いた人がいたと思います。
なお引用リンクはタイプすれば該当サイトが出て来るようですね。
そういう本人も一部しか読んでいないけど、
他者の解説文よりは分かりやすいと思いますね。
けいれんさんと読みっこ競争したら負けそうな気がしてます。
裸にのキヨシさんお「無常という事」およびそのコメに対応した無名死の「眼蔵のスガタ」では他者の解釈介入ではない素読のすすめを小林秀雄さんが推奨しているけれど、
眼蔵を原文で読むのは不可能に近い。
さすれな、西嶋先生あたりの眼蔵講義録を先ず第一に読んで、他者の現代語訳と比較するしか打つ手が無いのかも・・・
西嶋先生講義録
正法眼蔵=坐禅、
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12巻本
出家功徳
受戒
袈裟功徳
發菩提心
供養諸佛
歸依佛法僧寶
深信因果
三時業
四馬
四禪比丘
一百八法明門
八大人覺
別巻
辦(辨)道話(弁道話、別本あり)
四攝法(菩提薩埵四攝法)
法華轉法華
唯佛與佛
生死
道心
その他
心不可得
重雲堂式
示庫院文<
私自身のために引用コピペしておきます。
読む道 険しいなれど 我使命
うちのオタク夫の母親は
晩年、坐禅をやってたようです。
夫にタオ禅とかゴッホ禅とかの本を買ってくれたようですが、
本人も私もまだ、その本を読んでいません。
ここは話題に挙がっている、マインドフルネス的なことを
禅だと解釈しているようですね。
いまでは正法眼蔵読み始められたのですね。
それは大変素晴らしいことです。
過ってのケイレンさんの経典嫌いの発言とか、
ZIPさんの「行持」の巻を読むようにとの提案を全く無視したケイレンさん現象が
私の頭にこびりついていたので、今でもそうなのかと案じていましたが、
遂に改心して仏教者になる決心をされた、ということですね。
ホッと安心いたしました。言行一致の人になられたのですね!!素晴らしい事です。
家にきてくれました。
去年はメッサチュセッツ州バレエアカデミーに通っていましたが、
ここは体操系のスクールはいっぱいあるのに
バレエスクールは少なく
あったとしてもみんな子供向けクラスしかないので
仕方なく、高いレッスン料を払って
個人指導を受けています。
まあ~あのドリーム坐禅プロジェクトに向けて
足を広げているところですけど、
何事にも
踏むべき段階があるので...
数学はできなくても
成功に向けての緻密な計算(ビジネス的な)センスには
天性的に恵まれていると思っていますけどね。
私は
皆様が(そういってもここでコメントする人は3~4人な感じがします)
仏教と禅、南師他の禅関りのコメントを
100%受け身で読むのが好きです。
私が突っ込むところでないし
今はデーターを集めている段階でもあるから
読んで習うことに徹したいです。
同じ事柄でも
あっち山で書かれることとスタイルが
こっとで書かれることと違っているから
それが私は一番の興味の泉です。
私もここでのコメンテーターとの関りで
考えが変わっていってるので
それも面白いですけどね。
語らないからと言って
私が分からないわけではないので。
ただ、私は
既に書かれてある、伝統には
口を挟みたくないだけですし、
正法眼蔵も読んでいます。
そういえば
南師の解釈本正法眼蔵を読むという本は
私の師匠から頂きましたね。
皆様が何を言おうと
禅施設のプロジェクトは
安易に口にしないので
どうぞご自由にお思いになってください。
全く本質の事なるモノ・・・>全く本質の異なるモノ
道元禅とは、初めから終わりまで仏道に根差した、仏法に徹した修行の形態。
仏教者になりたいという志がなければ到底叶わない。
だから道元禅実践とは、『正法眼蔵』の参学が必須なのだと南和尚が説いている。
彼の絶対君主的なふるまい、
部下とか外注業者に対する猜疑心みちた扱い方、
会社に染み込んだ基本方針は
じぶんちは優秀だから偉い、外者は劣等者だから搾取せよって事で、
とっても仏教者の禅ではないようですよ。
まあ自我を高揚させるためのマインドフルネスとしてなら通用するでしょうけど・・
そこで思い出したのが、
ケイレンさんのコメ(10-15,13:18:00)での、
ケイレンさんの旦那が、ケイレンさんの怒り狂いに対し、なんの意にも介さずジョウク攻撃で
ケイレンさんの怒りを丸め込んでしまうっていうのは、
ヒョットしてオタクの旦那は隠れ仏教者か??
そして怒り狂うケイレンさんはスチーブ・ジョブズさんとおなじ見せ掛け坐禅者?
>けいれんさんのいう道元禅とはいかなるものなのでしょう。
道元禅を抜きに、坐禅ですか!?
それは、穴のないドーナツを食べるようなものですかね?
そうであるなら、無謀なことはされない方が宜しいかも・・・
一旦原点に戻って頭をリフレッシュすれば
思いがけない、いいアイデアが浮かんでくる。
ビジネス成功の為の手段の一つ。
道元禅でも共通する部分が有るが
全く本質の事なるモノでは無いでしょうか。
けいれんさんのいう道元禅とはいかなるものなのでしょう。
仏教徒にはなりたくなくて、正法眼蔵も読みたくなくて、如何にして道元禅が分かるのですか、
とても摩訶不思議な感じがしますが・・・
まあそれは、マインドフルネスになりますかね。
アイデアとしては、バレエをされてるなら、ヨガの修得は如何ですかね。ヨガと坐禅のセットなら、需要もあるかもしれないですが、勝手な案ですので保証はできません。
って言ったって、ところ変われば品変わる。
セロトニン欠乏民族のニッポン方式が
セロトニン過剰民族のアメリカでそのまま通用する筈がない。
ケイレンさんが日本式坐禅会をやっても普通のアメリカ人は集まらなくて(何故なら必要ないから)、
まあそれでもなんとか集まって来る連中は、
隣のキリスト教会の信者達が追放デモをしそうな異人(偉人でない、奇怪な精神状態の人)ばかりで、
排斥運動さえ覚悟せにゃならんのか??
地元警察が立ち入って来て、
こりゃテロリスト集団かと看做して会員全員逮捕、施設強制閉鎖、ケイレンさんの折角の投資が大損をして倒産の憂き目、離婚の危機、
ケイレンさんは屋敷・土地、丸ごと手放して、1人淋しくニューヨークの貧民窟街へと追いやられる。
白人専用高級地グランビーの地元住人は大喝采・・
だってしょうがないよね、自分たちの偉大で高級な白人コミュニティに汚物をもちこんだ異人(偉人でない)だからね、キ‥ミ‥は。。。。
・・・いひひひひ、出る釘はぶった斬っちゃうよね、どこの国でも。
踊りも勘弁してほしいところですね。
坐禅会にも色々あるようですね。
坐る時間を決めるのに、お香を焚くまではアレとしても、主催の坊主がアロマテラピーとか音楽とかを持ち出してきて、坐禅中に使うんですよね。
正直あれには参りました。そこにはもう行きません。
自称禅マスターと名乗る者は
髭を生やして
着物の着方も中途半端で
やけに胸元が深く開いていて
髪の毛はボジャボジャ、ムジャムジャ
覚せい剤の効能説明みたいな
解脱体験談を話して
もうあの世か
この世か
どの世か
訳わからないような眼差しで
幸せとか
快楽の極致とか言ってましたね。
この国、クスリ系に弱いみたいですよねえ~
坐禅やってる人を異人(偉人でない)のように
思っている感じもするし、
とにかく、これからの開拓していく道
険しそうです。
笑えないというか、
疲れましたね。
坐る前に躍るんです!
分かりそうですか?
躍るんです。
分けの分からないへらへらなことを言っているリーダー格の人の話に従って、
踊りも何雑で
ヨガ交じり、ジムのエアロビクス交じり
ごっちゃ混ぜになった踊りを
あれには参ってしまいました。
それから
いざ、坐る時間になると
そのリーダー格が
べらべら、ペラペラしゃべるんです。
あれはうるさかったでしたね。
耳栓持って行かなかったことを悔いましたね。
ちゃらんぽらんな坐禅でした。
これは曹洞宗のことですかね?
まあ夢精は自然現象で、どうにもならんことでしょうが、自慰は手を出さなければ事は済む、といった感じでしょうかね。
収まらんなら坐禅しろ、と。
手も足も出ない坐禅しろ、手足を引っ込めろ、と。
「身心脱落」ですかね、纏めると。
道元禅師は、刺激を避けてか、性的なことを書かれた書物がないような感じがしますね。
坐禅の話題になっても
何かのプレイみたいに軽く受けています。
なるほどねえ。
恐らく、勃起しても「ただそれだけのこと」として、取り合わなかったのではないですかね。
また、虚勢しても、性欲がなくなるわけではなさそうですね。
虚勢された犬で、性欲のある行為を見たことがあります。
そのような環境で、ドリーム坐禅に需要があるかは不安な感じですね。また、坐禅が恍惚やエクスタシーとは違うことの説明も、難儀なことかと思いますが、そこは間違えずに伝えてもらいたいところではありますね。
彼らに何か無い感じでも、人の根底にあることからの社会問題は、変わる可能性はあるでしょうから、坐れば変わることに期待したいところですね。
実際に禁欲の出家修行に身を投じた時、性欲との戦いに苦慮することが歴然ですよね。
夢精はいいが、自慰は駄目、という戒律があるとか。
道元禅師は、そこのところは何と言っているんでしょうね。
南さんが、修行中は、性欲は何とかなる、女性が入って来れない場所だから、というようなことを言ってましたが、その、なんとかなる、とはどういうことなんだろう、なんて思いました。
ブータンの少年僧が、テレビのインタビューで、僕は涅槃を目指す、と目を輝かせて言っていたのを見たとき、その少年がこれから直面するであろう性欲との戦いを思うと、切ない気持ちになりましたね。
身体が丈夫なら、せめて釈迦のように、結婚して子供作ってから出家すればいいのにと。
これを書いた人は、ホモだったかもしれませんね。まあ釈迦が女性だったら、男性が糞尿まみれの立場になっていたでしょうが、性差別の原因になりやすいエピソードではありますよね。
釈迦は妻子や家族を捨てたことになっていますが、王子として世継ぎの事も一応は考えていたから子供を作り、内心では作った後に出家しようと、画策はしていたのではないですかね。
ケイレンさんは白人コミュニティから総スカン喰らわせられそうですね。
ケイレンさんが、いくら一生懸命、南さんの本を英訳しても、ああ、あの仏教の僧侶かっていわれて、相手にさえしてもらえなくなるかも・・・お気をつけあそばせませ。
女性糞尿説は「お釈迦さまってひどい!!」って瀬戸内寂聴さんでさえ大憤慨してましたよね。
実際心を傷付けられた娘さんの親が釈迦を訴えたとかの逸話もあるんだとか。
目指すものが同じかどうかまではわかりませんが、自己への問題に、時代は関係ないのではないですかね。どの時代でも何人でも、人間と生まれたからには、自己が付きまといますよね。できるできないか、というより、そうするしか他に手立てがない状態なのではないですかね。
行ってみました。
一処不住は、結構興味が湧いたので
ブックマーク入れておきました。
ブログ書くなら、あのくらいまでやらないと、と思いました。
良心的な記事ですね。
ありがとうございます。
もう一つは
別に普通の記事で特色も無かったので
ざーと読んでお終い。
ステップ1の段階ですが、
3年計画で今、進行中です。
のろいですが、確実に。
このことについて
言えるようになるのは
恐らく、2年半後かなと。
余り、深く聞かないでほしいです。
結構、膨大な計画なので
安易に口に出せるものじゃないかと。
〇・・・現世での希望を与える
このことはちょうど私が着目しているところなので、
私が分かる範囲だと
話題に挙がっているセロトニンレベルは
遥かにアメリカ人の方が日本の人より高いと見受けられます。
私の地域は黒人とアジア系がほぼいない白人だけ密集しているのですが、
誰も内気みたい感じの人は見たことないです。
みんな、祭り騒ぎみたいな
常に明るく、肯定的なことを言い、
常にハイな感じです。
うちの夫も
私が怒り狂っても
タイミングを狙ってジョークで攻撃してくるから
怒っていられなくなっちゃいます。
彼らは坐禅をして解決したい『何か』が無い感じなので、
坐禅の話題になっても
何かのプレイみたいに軽く受けています。
再度輪廻を繰り返す必要が無い。
バラモン的にいえば、人間からの、最高神であるブラフマンへの昇格である。
仏教的に言えば、存在(実存)が滅失する事で、(輪廻によって引き起こされる)苦の連鎖から卒業する事で在った。
ともに究極的で崇高な人生目標な訳であろうか。
こう言う、輪廻と言う超越現象を前提とした思考方式で在った当時は、そうなんだからそうだとしか言いようがない。
また現在でもこの理論は人間が目指せる最高の境地だ…と思う一群の人たちがいる事は間違いない。
結婚して子をなす事は、愛執という煩悩執着をうむ根源であるから、輪廻からの解脱という修行目標の妨げにしかならない。
出家後の釈迦の取ったライフスタイル、
釈迦の弟子の修行僧に命じた同じライフスタイルは、
輪廻からの解脱をただただ目指した為の必然的な様式であった。
それ以外の他のやり方(ライフスタイル)など考えられない訳だ。
それが当時の常識であり、また現在でもその思考の枠の中で生きてる一群の人もいる訳だ。
他方で、カースト制最底辺にさえ入れない不可触民(アウトカースト)の人々のみじめな人生に光を与えようと、
現代インドにおいて、
現世での希望をあたる仏教再興を画策している「闘う仏教、煩悩上等」と強く主張する、
みずからの体の中には黒い血が流れていると宣言する佐々井秀嶺僧侶のような人もいる。「じみとくどせんどた」系の仏教僧だ。
まあ、親からの強制で、嫌々ながらも、という雰囲気を仏伝から感じます。
釈迦は、そもそも、そういうことを嫌悪するような特別な気質だったのかも、なんて思っています。
そして釈迦は、次のように言っています。
835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」(スッタ・二パータ)
悟りを目指して、全てを捨てて、そこまでやるというのは、あるいは、生涯掛けてそこを目指そうとする、それはいったいどういうことなのか、なぜそうできるのか、釈迦の時代ならまだしも、現代の日本人が、そこが私には分からない、ということです。
釈迦が、何故に禁欲したのかを、スッタニパータには書かれていないのでしょうか。今ごろ不思議に思うのですか。
あの方のように、いくら長い禁欲生活をしていても、道場から出て変わるなら、その修行は何なのだろうか?と、そちらの方が不思議ですね。
もし、村上さんやスマナサーラ長老に会うことがあったら、在家、妻帯でもよかったかも、と思うことはないですか、と聞いてみたいです。
澤木興道老師は、晩年に、家族を持たなくて本当に良かった、持ってたら大変だったと言ってますけど。
その気持ちは、ちょっと分かります。
でも、健康に問題ない人が、なんで若い時に、禁欲の出家を選択するんだろうか、と不思議に思いますね。
コメしておきます。
この写真はこの夏に
家の敷地に入るDrive wayを撮ったものです。
大きな木がある隣の家は
教会で、
ユダヤの夫と仏教の坐禅を研究しているアジア人の
隣家から
毎日曜、教会の鐘の音を聞いているのです。
(ユダヤの夫に対しては彼の家系がユダヤで彼はユダ教を信じていないですけどね)
今日朝起きてから、暫く起きられていましたが、
二度寝をしてしまい2時まで寝てしまいました。
慌てて庭の仕事をして今ちょうどパソコン開けたので、
帰宅してから
ゆっくりコメント読書(読画面かあ)します。
プラユキ・ナラテボー
https://blog.goo.ne.jp/yokienn
草薙龍瞬
https://genuinedhammaintl.blogspot.com
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-627.htm
いくら禅堂・宿泊施設設置がケイレンさんの夢でも、
市の許可・運営・後代への継承問題が勃発するから
ケイレンさんの土地をNPO法人に寄付しなければならなくなりますよね~。
言うはヤスシ、行うはカタシ…実践して見ろと言われたら、うろたえちゃうかも・・
挿し絵をオタクの写真に替えられたのですね?
見えてる道は舗装されて無い様だから
ドライブウェイ(私道)ですよね。
其の両サイドがケイレン家のお庭かな、
素晴らしいですね。手入れが大変でしょうね。
いずれの記事の時、道路(公道)からケイレン家のテリトリが一望できるような写真を添付してください。
アッ、この辺に道元禅の禅堂、此処には訪問者の宿泊施設とか、ケイレンさんの夢を語って見せてください。
セロトニンレベルは各民族のDNA特性に深く影響されており、
DNAは其の土地柄・自然環境に左右されて変化して来たと考えることができる。
人は環境から造られる。
自分を変えるためには環境を変えるのが良い。
自分を変えたい為なのかどうか分からないが、
ケイレンさんはアメリカに渡り全く異なる環境下に入った。
必ずなんかの変化をケイレンさんの心身にもたらすであろう。
アメリカで終の棲家たる安息の地も獲得したし・・すくなくとも当初の予定では)。
でもまあ、前のオーナーのご婦人も同じ思いだったようだけど、諦めて売りに出し自分は介護施設に入ったようだ。
彼女(前オーナー)の終の棲家とはならなかったが、新しい環境で彼女の心も変化する(筈??)。
日本人にも訳せないという代物ですから、ないとは思いますが。。
これが仏教の本道だっていう感じですかね。
南さん的にはかなり突っ込み感満載的だったけど、
村上光輝流で説くのが、
日本仏教の主流としての「仏教の真髄」で、
それは「超越性を含んだ道理性」みたいな感じで、
南教流儀の
「この世の思想は仏教か非仏教かの二種類しかない」論とは
なんか齟齬(そご)が生じそうな感じでしたね。
南さんがどの僧侶とも噛み合わないと悲観的になるのもやんぬるかなですかね。
紛らわしい書き方で、すみません。
アメリカ人は悲観的、日本人は楽観的になるでしょうかね。
まだ再度の深読みまでは行ってませんが考えるところ多く大変参考になっております。
村上光照師は物理学系の人らしく、たいへん理を通して、通常の日本語のバックグラウンドである仏教語としての解釈をイロイロ持ち出すけれど、
そんな日本語の仏教語用法にしても、
ドゥッカ(苦)でもわかるように、
インドのサンスクリット語やヴェーダ語、パーリ語などの仏教言語の意味合いと
かなり異なる日本式仏教語も多そうな感じで、
各国にまたがった仏教用語の翻訳なんていっても、ピンがキリにすり替わったりする感じになるんでしょうかね。
そういえば村上春樹氏の文章は欧米志向のロジックの組み立てで書かれているから、彼の日本語文章の翻訳は、欧米人にもよくわかる、
みたいな論評を読んだことがありますが、
さて南さんの場合はどうなんでしょう。ちょっと心配もありますね。
俗にいう苦は楽のように、否も悲も楽、憂いは美徳みたいな。
インド人気質としては、
初めは否定的で悲観的な現象を呈するが、
屁理屈付けて論理的に納得すると妙に楽観的になる・・・らしいですね。なんかそんな記事を読んだ記憶が有ります。
他方、日本人はセロトニンレベルが低いから、いつまで経っても否定的で悲観的思考が永続する。
まあ大変な地震や津波、台風や豪雨は永続的に来るから、もののあわれにどっぷりつかりますよね。
そんな日本人にとっては
アメリカ白人のメンタリティーなんて全然分からない。
翻訳家のケイレンさんには分かるのですか??
脳科学者の有田さんとテーラワーダS長老の対談本が出版されてたり、
曹洞宗に於いても、
座禅に関する本部(何とか支部?)での公報で「坐禅でセロトニン分泌が増える事が知られています」などとも書いているから、
もはや仏教界でも承前の事実という事ではないでしょうかね。
仏教においては、否定的で悲観的な面が無ければ、恐らく生まれてこない教説ではあったでしょうね。
奥さんが何歳か知りませんが、結婚して子作りのことも考えると、よくも8年も待ちましたよね。結婚後も、4つの顔でアチコチ行かれるんですから、落ち着くことはなさそうですが、それも込みで望んでたんでしょうかね。
奥さんの中には、旦那が家に長くいるのを嫌がる人もいますからね。アメリカでは、夫婦が離れ離れの生活でも耐えられそうですか。
頼住光子 著
http://whatever.doorblog.jp/archives/51125368.html
村上光照
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-237.htm
ものの見方が否定的で悲観的になる傾向が有ると言われている様ですが、
南さんが他の僧侶さんの誰とも話が合わないというのは、南さんは日本人の中でも極めつけにセロトニンレベルが低い方なのかもと考えられますね。
セロトニンレベルが高い日本人は2%位しかいないんだとかですから。
それに対してアメリカ人の80%はセロトニンレベルが高いから楽天的思考となって、
あまり実存に対して漠然とした不安なんて感じる事はないのでしょうかね・・・たぶん。
では、南さんの本をアメリカに紹介してもアメリカ人に理解されない可能性が充分考えられる訳ですが、
ケイレンさんはその辺の事をどうお考えなのですか。
このポイントについて、
純粋のアメリカ人(白人)であるご主人のEricさんとお話しされた事はありますか?
つまり、南さんのモノの考え方はアメリカ人にも共感をおこすものなのか?
8年待ってた、とか言っていたような。
スマナサーラ長老でさえ出来ていない、と私は思っています。
そして、南さんは、永平寺の修行で生涯を終えてもいいと思っていた。でも、もしかしたら、抱えている問題の完全解決が出来るかも、と僅かながらも期待していたかも。
そうやって修行を20年近くもやってきた頃に、修行僧の一人という立場から、永平寺という組織の管理側の職員に取り込まれそうになって、そこで思案の結果、自分の問題の解決を見てはいないが、以前から求婚され待たせ続けている寺の娘さんもいたから、その女性と結婚して寺の住職として、積極的に民衆に関わる道を選択した。
その時は、再出家も考えていたという話をどこかで読んだ気がします。
釈迦も、出家して、最初は、著名な指導者に弟子入りしました。そして、そこで修行して、その師と同じ境地に至っても、それに満足出来ず、次の師に弟子入りしても同様に満足出来なかった。自分の問題を解決できなかった。
そこで釈迦は、師から離れて独自に出家修行を続ける道を選択した。
そこが、二人の違いだと思います。
その違いは、何によるのか。
何でしょうねえ。
釈迦と同時代のインドに南さんが生まれていたら、南さんは、どうしたでしょう。
あるいは、南さんと同時代の日本に釈迦が生まれていたら、釈迦は、どうしただろうか。
同じ時と場所なら、同じ選択をしただろうか。
まあ、そんなこと考えても仕方ないと思えますね。
釈迦はハッキリした人生の目標を持ち得て、
それが達成された喜びと安寧と寂静が得られたが、
南さんは到達点のわからない、いつまでも漠然とした不安の真ん中に取り残されるという業を背負ってしまった?????
これはもう宿命としか言いようがない。
私のような精神的に鈍感な人間は
別にそんな漠然たる不安みたいなものを感じる神経(感覚)をもっていない。
何らかの不安があるとしたら経済的な不安のみだが、
南さんの場合は経済的に問題が無くとも、実存に対する訳の分からない不安感が解消されない。
テーラワーダの教理を受け容れていたとしたら、
修行で悟りを得る事が可能で、
自分の前世が分かり、
輪廻からの解脱を達成できるわけだ。
つまり、自分の不完全燃焼だった渇愛エネルギーが誰か来世に乗り移るという事は無くて、
自分はこの世で完全燃焼をするという事だから
神経症的症状はとっくに収まっている・・・釈迦と同じように、
ということになるのでは?
たかはしさんの場合は如何なのでしょうか?
やtt
決定的な違いがありそうですね。
釈迦の場合は、知的思想範囲が可なり狭く、明快に解答できる世界に生きていたから視点の単純化が容易で、
自分が悟りに達したと感じる事が可能で、
輪廻からの解脱が完全に達成出来たと思えるようになった。
だから苦しみ悩みも取り去ることができた。
社会の僧侶・世俗群もそういう釈迦を偉大なさとり人として尊敬と憧憬の眼差しで迎え入れた。
ならば神経症的症状の完全治癒となるのも当たり前であろうとも言える。
しかし現代人の南さんは其の正反対の社会環境に生きているから、悟りは開かず、無常無我で輪廻からの解脱如きも無いならば、
神経症的不安感が癒されるスベが無い。
いつまでたってもこれで良しと言う視点が得られない。
たかはしさんの反論をお待ちします。
ネットから引用。アドレスを貼り付けられませんでした。
公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団のサイトより。
神経症(最近では不安障害とも呼ばれます)はこころの障害のうちでも最も頻度の高いもので、一般的に人口の10%を超えるとも言われています。年齢的には、10代後半から40代までに発症するのが普通です。
神経症は、以前ノイローゼと言われ、しばしば精神病と混同される誤解があるようですが、「神経症は主に心理的原因によって生じる心身の機能障害の総称」であり、精神病とは異なります。
つまり、神経症は器質的な病気によるものではなく、健康な人が普段から体験するような心や身体に対する感覚や感情が、行き過ぎた状態とも言えるでしょう。
例えば、不潔なものを嫌悪する感情は誰にでもあるのですが、それが極端になって、「清潔」を保つために日に何度も手を洗ったり、何時間も入浴しないと気がすまない等、日常生活が大きく損なわれるような状態をいいます。
つまり、これらの人は神経症的な不潔恐怖症だと言われるのです。
(引用終わり)
まあ、誰でも、多かれ少なかれ、神経症的、な部分があると思います。
なぜに私は、この私なのか。
自己の存在の根拠が分からない。
答えが見つからない。
自己には絶対の根拠が無い。
絶対の答え、普遍の真理は、有限な人間には知り得ない。
そういう想いが強烈なんだと思います。
宮崎哲弥さんが、子供の頃から、神経症的に死を恐れた、というようなことを言っています。
南さんが、私が私である根拠が分からない、死が分からない、ということを気にするのも、私の目には、神経症的に思えてしまいます。
そして、釈迦が、避けられない老病死の苦しみを完全に解消しようとするのも、神経症的に私には思えます。
南さんは、自分のような考え方をするのは、自分一人ではなかった、釈迦もそうだったことを知って救われた、というようなことを言っていたと思います。
私も、釈迦と南さんは、同じような気質の持ち主ではないかと思って、それで南さんの考え方に興味が湧きました。
諸行は、無常だから、固定的な絶対の答えなど、ありえない。
そういう想いが、自分が言い切った、断言したことへの違和感を生じさせるのかな、と私は思っています。
そのことは確か、何回か面談の時にも
講談の時にも
出てきたことばでしたね。
その違和感が何か、聞けませんでしたが、
その時の私の感じでは
ご自身が書いたことにどっか不満足があって
言いたかったことを言いきれなかった...ことから生じる自己考察のような感じかなと
雰囲気から推測したりしてましたね。
何よりも
もったいぶって話すことは全くなかったです。
名無しさんに賛成です。
削除される心配なく
無理矢理記事に関連させることなく
その都度、挙がってきた話題やテーマを
ある程度、見識のある方々と
広い視野で話す、これが何よりですね。
私も誰かが言っていることに
嫌味の邪魔が入らないから
読んで、客観的になれるから
視覚も多角になる気がします。
他の僧侶と意見が合わないと言って
ブログで自己見解を主張しているが、
読む側にとっては何故あわないのか、
他の偉い人がどう言っているのかを知る為に、
たかはしさんやイエスちゃん、その他の方々が、
いろいろなコピペをして呉れることが大変役に立ちますね。
私の知識・知恵がひと回り大きくなり、視野が広がるチャンスが与えられる訳です。
たかはしさんも、どうぞ今までのやり方でやってください。
相撲とレスリングで勝負しているみたいで全然かみ合わない、
と言っているから、
自己流の仏教論をキッチリと公に表明しておきたい、其の為の言論活動だ。
そういう変質的見方が仏教内に一つぐらい在ってもいいだろう、
其処から何か見えるものが出てくるかもしれないし、何もでてこないかもしれないが、
やってみるしか仕方が無い。
そういう事でしょうかね。
まあネルケさんにとっては何の変りも無かったという批判が出たらしいけど・・・
南さんとしては書き終えた途端、自分の言った事にも違和感が生じてしまう、
とかの永遠の探検者的気質。永遠に安寧のない性格。
これはもうしょうがないしょうがない。
まあこれも自然に「時間」が南さんを変えるかもしれませんが・・
そもそもは、若い修行僧に向けて仏教全体の流れについて話したかった、というのがきっかけです。
それも自分なりの考えでもって。「自分なりの」という前提がポイントで、実証的な仏教思想史をやるつもりはありませんでした。
仏教に対する私の考え方の根本が詰まっているという意味では、確かに集大成と言えるでしょう。
「ある人間が仏教というものをどのようにとらえたか」というサンプルになるものを作れば、それなりに面白いのではないかと思ったのです。
読んで、「なるほど。この人は仏教をこのように見ているのか」と知ってもらえればいい。
構想を聞いた友人は、「君は自分なりの家風を作りたいんだね」と言いましたが、我が意を得たりで、極端に言えば、客観的かつ正しい仏教思想史を記そうなんて気はないわけです。
私は私の問題意識でもって、仏教史を通観する。すれば何が見えてくるか――ということを講義したかった。
(引用終わり)
あちらのブログで、経典や僧侶、学者の解説を引用してコメントすると、引用ばかりで中身が無い、という批判をする人がいましたが、それは、南さんのそのスタンスに共感しているからなのでしょうね。
でも、南さんは、伝統的な教義が心に響かない、とどこかで言ってましたが、それだから、自分で納得できるものを自分で考えるしかない、ということなのですよね。
それはまさしく、「君は自分なりの家風を作りたいんだね」ということだと思います。
そしてそれは、大なり小なり、みんなやってることでしょう。
そしてまた、特定の僧侶個人の解釈やスタンスにドップリで、それに基づいて他を批判する、という人も現れてくるのですよね。
言ってるお前がダメだろって話ですが
その背景にある何かにも怒りを覚えます。
ドーナツの穴はドーナツてるの?
南さんの「ドーナツの穴」禅問答<
この名無しさんのコメントは
アニメジョークに分類されるのですが、
漫画風にリメークされた、
事実に基づくファンタジー系コメです。
読んで楽しむ系なので
(少なくても私は楽しんだ)
読み流しが勧めです。
笑えない方は
きっと、私と南師との知り合った切っ掛け編
そのエピソード①を見逃したからでしょうから、
残念でした。
偶には
アニメコメや漫画コメも
イメージ訓練でいいかもです。
名無しさんの創造性、創作性には
拍手を👏👏
面白い、が、それ以上はいくなって感じですかね。
コメントは酷いでしたね。
そんな類のコメントなら
今、削除されてきた累計の方が
よっぽどマシな感じですけどね。
その背景にあったとされる、
礼儀としての人との接し方を知らぬ
直情径行行動を取った母親をみて
無明のやるせなさを感じたから。
そんなやさしさを失ってしまった
せちがらくなった社会に対し
怒りのようなモノを感じた。
お坊さんに対する敬意の念の喪失という社会的現象
を見せつけられたからということもあるかも。
なんで拙僧を一瞥も無く無視できるんだという驚き』
私の似通った感想でしたので、無名さんのコメントをコピペしておきます。
更に私の所見だと、
子供の立場を理解しようとせず、
大人の価値判断でダメだと言い
時と場合に関係なく
感情任せで子に怒り
人に迷惑かけても
謝りもしない母親
そのような現場に直面しながら
お坊さんの自分も
何も言えなくて
言えるような状況でなく
言っても無駄だったという読み
それらが入れ混ざって
怒りに似たような
やるせなさを感じたでしょうね。
梵天が分からなかったので、探してみました。
破壊神があると言うのは面白いですね。
梵天が分かった時点で
またコメ読み直しします。
直情径行行動を取った母親をみて
無明のやるせなさを感じたから。
そんなやさしさを失ってしまった
せちがらくなった社会に対し
怒りのようなモノを感じた。
お坊さんに対する敬意の念の喪失という社会的現象
を見せつけられたからということもあるかも。
なんで拙僧を一瞥も無く無視できるんだという驚き
さて、あの方は何に腹を立ているのでしょう、か。
それなのにS長老は、悟ったら前世がわかるとか言ってるんですか?
隠れバラモン教なんですかね。
ガッツポーズする時も鳥肌立ちっぱなしだったのかな??
おめでとう。
南さんの「ドーナツの穴」禅問答
南師「ケイレンよ、君に一個のドーナツをあげよう」
ケイレン「我が唯一の正師、ありがたき幸せ」
南師「ではそのドーナツの外側を食し、
ドーナツの穴を私に渡せ」
その通りにしたケイレンさんはどうしたか??
南師に足蹴り10発、
頭をドついて頭突き10発、
南師完全に、まいったポーズ。
で、ケイレン君、ガッツポーズ・・・
(これぞキックボクシングの究極の極意、
たった一個のドーナツ位で、そこまでやるのか、ケイレン君!!)
さて、
ケイレン君が悟っている事を知った南師は
自分の本の翻訳を託した。
おわり。
そこまでは、遡れなかった、ということなのでしょう。
マジマジ見ないでくださいな
マジで?
>じゃあその前世の人の前世は誰なんだろ??
そうなるよね。
神の前は?みたいな話になって、底のない迷宮入りになるね。
であるなら、いかようにでも言葉にすればいいですよね。
どうせ、対象そのものと同じにはならないのだから。
この感覚が、私には分からないです。どういう違和感なのだろうと。
古代インドでは当時のガタピシ木製車輪の事を意味していた。
車軸がズレており、輪っかも凸凹製で、
それで作った戦車などホント不都合でどうにもならないシロモノだった。
だから優れた青銅文化を持っていて真円の中心車軸のしっかりしたアーリア人の戦車隊にインド軍はコテハンに敗けてインドはあっさり征服されてしまった。
そう、
インドのドゥッカは全くどうしようもない不都合だらけのガタピシ物だった。
だから仏教の英語版の翻訳では、
苦(ドゥッカ)は不都合なモノ、不満足なものと言う言葉で訳されている
・・・とかだそうですね。
南さんはこの言葉にホッと安堵した事でしょうね。
なにせ南さんは他のどの僧侶と話してもまるで噛み合わない、
向こうは相撲土俵で対峙して来るのに、自分はボクシングで立ち向かって行くような感じだ、
と言われているから、
ケイレンさんに他の偉い人の相撲道の影響が既に及んでいて、
ケイレンさんから相撲土俵で自分(南師)を読み下されてはかなわんからなァ~って危惧したんでしょうね。
おまけにケイレンさんは相撲には無関心だけどボクシング狂でもあったし・・・とても好都合!!
これが決め手でしたかね、ナットク。
上記を書いて下さった方
あなたは本当に恐ろしいほど
優れた感覚の持ち主です。
そこまで読めるとは
怖いくらいです。
④については
私が一番強く主張しつつも
恐れ入りながら言ったので。
鳥肌が立ちました!
言語の超越性について話してくれました。
他に
私が南師をどう呼んでいいか分からないといったら
南さんでいいと言って笑ってましたね。
どうも、南さんと呼べなかったのでしたが。
いつか、その時の面談で私が感じたことを
ブログ記事にしようと思います。
公に言えない、面白い冗談などは
私の胸にしまっておきますが、
南さんはこの言葉にホッと安堵した事でしょうね。
なにせ南さんは他のどの僧侶と話してもまるで噛み合わない、
向こうは相撲土俵で対峙して来るのに、自分はボクシングで立ち向かって行くような感じだ、
と言われているから、
ケイレンさんに他の偉い人の相撲道の影響が既に及んでいて、
ケイレンさんから相撲土俵で自分(南師)を読み下されてはかなわんからなァ~って危惧したんでしょうね。
おまけにケイレンさんは相撲には無関心だけどボクシング狂でもあったし・・・とても好都合!!
これが決め手でしたかね、ナットク。
受賞インタビューを読んだだけでも、かなり参考になると思いますね。
ネルケさんが解説していた動画は見ました。ネルケさんには、真新しいことは書かれていないと不評のようでしたが。
ただ、文章は、とてもカッコいい、と言っていましたね。
今、ちょうどもしかしてあの買っておいたのか
確認のためStudy roomに行って
本棚の南師専用コナーを確認したら
その本だけ無かったのです。
なので、まだ読んでいないです。
たかはしさんも
活字になると
視力に何か異常をきたすみたいですから
まだあの本は読んでないでしょうね。
きっと、中学卒レベルの理科の授業も受けていなかったでしょうね。
冗談半分で
私の前世は男で侍だと言ってくれた友人がいましたが、
前世とかになると
全て王族とか貴族とかが全てで、
平民だった、殺人者だったとか、詐欺師だったとか
言われる人はだれ一人いないですよね。
そこから引用してコメントもしています。
南さんは、メリットよりもデメリットが気になる、というようなことも言ってましたね。それ読んだ時に、やっぱり、と思いました。
しょうがないから、自分で『超越と実存』受賞インタビュー読み直してみます。
わたしはその本を読んでいないので、どなたか読んだ方のご意見もお聞かせ下さい。
たかはしさんも読んでいないって事ですよね??
私の核心を刺すようなシャープな聞き方で聞かれました。〇
見方をつけた×
味方をつけた〇
誤字脱字、多くてすみません。
真面目な質問にテンバってしまいました。
じゃあその前世の人の前世は誰なんだろ??
遡及法的に究極の前世はどうなってるの??
結局人類始祖のアダムとイブ迄いって
美しき神仏混淆(こんこう)になっちゃうのかな。
アダムとイブはエホバの神の渇愛エネルギーを受け継いだわけだから「めでたしめでたし」になりますね。
まあ、インド界ではバラモンの神々迄遡及せざるを得なくなりそうだけどね・・・。
梵我一如のみごとな結晶。
水の結晶の方がまだリアルっぽいよね、ケイレンちゃん
それとも科学思考に準じて、究極の前世はアメーバって事??
そ~か、アメーバにもいっちょ前に渇愛エネルギーちゅうもんが有るんだね??
更に遡及の手を緩めなければ、そのアメーバは誰(何)から渇愛エネルギーを授かったの??
なんか摩訶不思議な理論になっちゃうよね。
すべて超越理論のなりの果て、いや、因のはて!!
上記に書いていないことは
恐らく、南師のプライベートに関わるかもなので
あくまでも
私個人の範囲で言っても
南師に害がない範囲のことだけ書きました。
私のような仏教門外人にそのような
どでっかいことを質問されるとは
夢にも思わなかったので
びっくりしました。
ですが、聞かれたことに答えないとの
先生やってた時の癖があるので
薄っぺらな私の読みだと。
実際、南師と2日間接してみて
翻訳のこととか
それにまつわる仏教思想への私の視点などを
刺さるようなシャープに聞かれました。
英語が達者の他の禅師も勧めて下さったり、
私の独断的な判断で彼の本を翻訳をしようとしてる可能性を考慮した上での本質を突く問い方でした。
それらについて
私は一瞬、考えていなかった質問に
戸惑いましたが、
①私の宗教への態度表明
②誰かの、或いはある宗派の教えに制限されたくない
③坐禅は日本文化の範囲で紹介する
④他の偉い方々の教えは私と関連が無い
大まかな上記のことを答えましたね。
その過程で南師も
あのインタビューと根本的に同じようなことを
言ってくださいましたね。
言い方もあのインタビューに書かれているのと
ほぼ同じなので
インタビューを読んで
南師は
①時間制限の中で簡潔にまとめた
②要点を的確に述べた
③他の宗派とのぶつかりを避けた
④見方をつけた
などが私の印象です。
釈迦はその当時の社会の常識という観点から
超越的な事を認めていた筈ですよね。
たとえそれが後代仏教定義として超越的な事を認めない事となったとしても
釈迦は時代背景上超越を認めていたと思う方が順当にみえますよね。
だから輪廻からの解脱が永遠の苦のサイクルからの脱出だと考えて、現世での人間性否定のライフスタイルを採用した。
その位の極端の事をしないと、輪廻と言う超越的な現象から抜け出せないと考えた。
釈迦がその弟子の言葉を容認している(否定していない)という事であれば、
それが諸行無常・諸法無我のテリトリーを
宇宙的規模での形而上学迄敷衍して行った根拠と見做す事が出来そうですね。
苦しみの滅尽、もはや苦しみが生まれない、なんてことは、超越的ですよね。
それから、深い瞑想の果てに、前世や輪廻のことが見えたとして、その見えたことを真実だと実感した、ということかもしれません。
それは、他人からみれば錯覚と区別はつかないでしょう。
でも、本人は、そこに何ら疑いが生まれないなら、本人にとって何も問題ないでしょう。
そして、それを信じられる人にとっても問題ないことですよね。
問題なのは、それが信じられない人にとって、そんなことは錯覚と区別がつかない、ということが気になる、ということですよね。
だから、そういう人は、そんなことは信じなければいいだけのことですよね。
誰か前世の人の渇愛エネルギーが乗り移っていたなら、なぜいまだにS長老はそれが誰だか言えないのでしょうね。
それは悟った人のみが分かる特権だというならば、
永遠に悟らん南さんには
ご自分に渇愛エネルギーを呉れた人の有難みを確認できないですかね。
たかはしさんも同様、君も私も右に同じ。
99.999999999999999~~%の人間も皆同じ。
まあそんなことを言って何の意味があるのでしょうかね??
そんなこと言って何の意味が有るのですけね。
それは、生まれ変わりなんかじゃない、と断言できる絶対の証拠も無いでしょうしね。
結局、自分にとって、どう思えるか、ということに尽きると思います。
だから、他人が受け入れられることを、自分は受け入れられない、ということがあって当然だと思いますね。
前世や輪廻についても同様だと思います。
自分が信じられないことは、信じられないでいいと思いますね。
そして、他人がそれを信じられるなら、信じればいいと。他人に迷惑をかけないならね。
もし、輪廻を信じている人を見るのが不愉快だ、ということなら、それは、最近話題になった、同性愛者を目にすることが不快、そんなものは見たくない、という人の権利も守るべき、というような危ない主張に類似になってしまいそうですね。
それに対しては、我が有ると思っている人には、それは怖い教えだろうが、我が有ると思っていないのだから、怖くなどない、と答えます。
なるほど理に適ってますね。
でも、心情的に、それで安心できるのか、ということですよね。
やはり、死んで終わりじゃない、死後も不滅の魂が有る、と明言してくれる宗教の方が、圧倒的に人気があるでしょうね。
「渇愛エネルギー」が後世の人に乗り移るとか、
自分(S長老)も、あと少し修行が深まれば、
自分の前世が誰だったか言い当てられる処まで来ている、なんて言うのは、
ものすご~く超越的な思考ですよね。
そんなふうに信じられるなんて不思議だなあ~!!
南さんの言う仏教か非仏教かの二種類しかないというのは、
やはり、超越性を認めるグループか、認めないグループかの二種類しかないという見解だと考えた方が良い(=非常にスッキリする)ように思いますね。
これは釈尊ご自身の思惑とは別だと思われますね。
仏教はある時代から、諸行無常・諸法無我を形而上学の範囲まで拡張する理論を展開して行ったのだと思います(サイは投げられた!!)。
なんかそんな具合の事を博学のイエスちゃんさんが言っていたような気がします。
そして仏教がルビコン川を渡った時に、
輪廻説を排除してしまったらよかったのに、大衆の圧力に負けて輪廻説がそのまま仏教内にとどまり、
最後にはほぼ他のバラモン教義も取り込んで行って
結局インドではバラモン教の一派としてしか取り扱われなくなった。
これも因果応報のなせる業でしょうか。
だから仏教の原点は何処の有るのかの判断も難しくなってしまったのではないでしょうか。
ヤッパリ宗教としては
たかはしさんの言う様な曖昧さでは存続できなかったから、
どこまでもどこまでも諸行無常・諸法無我を貫き通すしかなかった。
そゆ事だと思いますね。
他の方々の見解も聞いてみたいですね。
(ご自分の信条を犯したついでに
煮え切らない事の嫌いなケイレンさんならどう思いますか??・・・
ケイレンさんは『超越と実存』本&インタビューからどう読み取りましたか?)
これは全く当然すぎる当然の言葉でしょうね。
全ての全てのすべての執着を捨てろというのに、
我が言葉は固く守り抜け何て言えた義理ではない。
変ですが、
ここのコメントの流れを読むと
本当に、本音とか建前とか
或いは、その中間地点みたいな
位置づけみたいな
隠れた深層的なことが読み取れたりしますね。
不思議に
冷ややかに言われても(私の言動に対し)
言われてみると
そんなに防衛するほどの攻撃でないことが分かり、
自分を見直したりできますね。
昔、かの有名なカウンセラーに診てもらったことが
ありましたが、
受けてから
嫌な後味、お金を浪費した、余計なことをしたなど
後悔したことが散々でした。
なんの癒しにならず、
替えて嫌な気分になっただけでしたが、
ここで、私の独り言や無節制なコメント傾向を
指摘されると
その瞬間は不愉快で、心に怒りが湧きますが、
一息置いて
考え直し、再び読むと
不思議にも
浸かってた、引っかかっていた何かが
すーと
抜けている感じになりますね。
この過程で
変にも癒されているから
今の私には
否定的であれ、肯定的であれ、助けになります。
仏教は
仏教者になると決めてから
自分の所見を言えるようになるかもです。
突っ込めない段階でありますが、
皆さんが交わすコメントから
『知ろうとする姿勢』をも学べています。
願わくば、
悟りを開いた人が偉い
修行する人が偉い
悟りも無く、
諸行も実践しない人はクズに等しい・・
そんな依怙贔屓がされない事を願いましょう。
ただ単に
眼は横に在って
鼻は縦にあって、
口はチャックがシッカリ締まったガマグチみたいで、
見てはいるが「ミザル」で
聞いてはいるが「キカザル」で
口は堅く閉じて「イワザル」で
ただ其処に在るだけ、
飄々たる我が人生。
実践して行う系だと思いますが、
それを書いたら
あっち山で消されました。
『ややこしい、どっち付かず、有るとも、無いとも断言しない、そんな宗教は、仏教だけだ、という意味かも。』
たかはしさんのまとめに一票です。
私もややそう思う系です。
しかし、仏教思想には絶対的な受動態でいるとのモットにズレちゃいますが、
2千年後、全ての宗教が滅びて
生き残る可能性があるのは仏教だけだと
主張したコラムを思い出しますね。
仏教は人をえこひいき(漢字が分からない)しないし、何かオープンな感じがしますね。
宮崎氏「死ぬまでに言葉を手放すことができたら、と思う。」
釈氏「それまでは言葉を駆使されて。ブッダは自分の教えさえ捨てよ、と言っていますからね」
宮崎氏「信仰を捨てよ、とも」
釈氏「そんな宗教がかつてあったでしょうか。教祖が自分の教えを捨てよ、という宗教が」
(引用終わり)
仏教と仏教以外しかない、ということには、そういう意味もあるかも。
なるほど、そう言う事ですね。
非仏教系は超越性を認めたグループ(例、浄土系列)
仏教系は超越には無口のグループ、
それなら第三の存在として超越完全否定のグループが有る事に成るけど、
なぜ南さんは、この世の思想には仏教か非仏教かの二種類しかないと断言してしまうのか不思議ですね。
覚悟はおありかな??
現代では、そんな覚悟をする人は、極めて稀でしょう。
それで何のための人生か、そこまでする価値が悟りにあるのか、そもそも執着の滅尽など不可能だ、と考えるのが自然だと思いますね。
老病死が避けられないという現実を自覚して、その苦しみが嫌で、それを解消することが、人生の、生きることの唯一の目的、なんて考えて、それを実行する、なんていう思想は、現代日本では、非現実的に映るでしょう。
そして、現代仏教として、出来ることはある、それを模索すべき、という運動が起きるのも、自然なことだと思います。
そうすると、
どれもアートマンじゃない、と言いながら、アートマンの有無については、無記、というややこしい思想は、これは仏教だけだろうと思えます。
南さんの言っていることは、その意味ではないかと思います。
また、アートマンなんて無いという意味だとして、そう言っていながら、悟るまでは死後に輪廻するという、これまたややこしい宗教も、仏教だけだと言えるかもしれませんね。
つまり出家に対しては、一切の執着は捨てよと言ってる!!
さて、出家の方々、出家志望のこころざし高い善男善女のお方達。
覚悟はおありかな??
でもなんか、
あの方のテーマとは全然別な感じですかね。
ケイレンちゃん曰く「実践して見せろ!!」。
釈迦の教えを指針にして、自分の出来る範囲で実践する、ということです。
釈迦は、悟るための手法として、全てを捨てて出家して、乞食で、1日1食で、しかも腹一杯食べずに、定住せずに遍歴生活で、瞑想に専念ということを説いています。
私も含めて、そんなことは出来ない人には、そもそも、執着の滅尽なんて、目指せるはずがないでしょう。
出来る範囲で無理なく、徐々に、というのが現実的ですよね。
釈迦も、在家に対しては、一切の執着を捨てよ、なんて言ってませんから。
その苦しみが滅尽します。
なるほどいいことを言いますね。
諸種の事情により、実践不可能にはみえますが。
ケイレンさん関連なら、来年(2018年の事)の抱負として、
『最終幕の台本』記事で、
わたしの演技リストには(他人に自分を良く見せたいと)<多分バレリーナ気分か??>
あれして見せる、これして見せる、ああやって見せる、こうやって見せる、見せる、見せる、~~、~~、見せる、見せる・・・
と大変な気負いを他者に向けて宣言されていらっしゃいましたが、
たかはしさんの提言するのは、
そんな、「他者に見せたいという執着」が滅尽したら、その苦しみが滅尽するぜ!!と言ってる訳ですね。
注。ケイレンさんの基本信念は、
お前は実践して(=証明して)見せろ。
アタシだって実践して見せてるぜ!!
とかの思考が根本にあるから、
さようなケイレン文が出てくるのも「やんぬるかな」ですが。
ケイレンさん曰く「たかはしよ、自分の言う事を実践して見せろ!!」となりますね。
それには、意味が二つあると思います。
一つは、アートマンは、無い、どこにも存在しない、という意味。
もう一つは、アートマンは、有る、存在するとは言わない、アートマンの存在、非存在の問題には無記、アートマンを探す執着を捨てる、アートマンの有無の想いから解脱する、という意味。(認識されたものについて、それはアートマンではない、とは言う。)
私は、後者の意味に理解しています。
そして、その二つのどちらであっても、そんな態度の宗教は、仏教だけだ、と言っても過言ではないと思います。
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何千の順位に上がったことも結構ありますが、
可笑しいことに
坐禅と心理学のジャンルから抜けてきてから
順位が上がりました。
坐禅と心理学のランク順に入ってた時は
平均2万そこらへんをウロチョロしていたのに
そこから抜けた途端、
1万単位に上がりましたね。
ここのブログ会社のリアルタイム解析と
グーグル解析の結果が違って
案外、世界格国から
幅広い層で読まれています。
皆様のコメントも
うちの夫は(少なくても)
グーグル通訳かけて読んでいます。
毎日、誰が何のコメントをしたかについて
話をしたりしています。
追伸
Unknown (Unknown)
2018-10-13 04:13:00様へ
自己弁護が多いのは
公的に言うと
日本語で語る人がここでゼロのゼロだからですので
甘んじてください。
つまるところ、南さんは、
非仏教は超越性をみとめる有神論、
仏教は超越性をみとめない無神論だという区切り方をしており、
こう言う思考法は後世の仏教僧侶群が発展させた理論という事で在って、
在世当時の釈迦自身が意図したものではない、ということですよね。
釈迦のテーマは一筋に「苦」とは何か、「苦」はいかに滅失できるかという事だった訳で、
超越性がどうだこうだなどという思考は一切無かった。
釈迦の悟りとは何か、当時の直弟子は、どう考えていたか。それには、諸説あって、どれにも絶対確実な証拠が無い、というのが現状でしょう。
当時の宗教において、超越性の代表は、人間存在の本質たる、不滅の実体、アートマン。
釈迦は、そのアートマンについて、どう語ったか、それは、どういう意味なのか。
アートマンは、どこにも存在しない、無いのだ、という意味なのか。
それならば、死後も不滅、永遠なアートマンのようなもの(魂)を有るとしない宗教は、世界で仏教だけだと言っても過言ではないと思います。
でも、そうではなくて、釈迦は、人の認識範囲にあるものは、どれもアートマンではない、と言っているだけだ、と解釈する学者もいますね。
そういう学者の中には、釈迦はアートマンが有ることを認めていた、と解釈する人までいるようです。
また、中村元氏は、釈迦は、二つの自己について語っている、滅すべき自己と、育てるべき自己について、そして育てるべき自己の正体については無記だった、と解釈しています。
後で非難が来ても、~~、~~、その件から自由になっている・・・
とケイレンさんは言うけれど、
自由になって居ないからこそ、
ケイレンさんの言葉の揚げ足を取られると、
不愉快になって2週間もウジウジする・・・
自分が言った言葉に対して、
他者からの批判を受け容れる準備が出来ていないから
批判を聞くと不愉快になる。
これは、きわめて正常な人間的反応な訳だから、
「自分は自由になっている」と
わざわざ虚勢を張る必要もサラサラ無い。
自己弁護が多すぎる感じ(に見える)
だから、思い通りにしようという執着が滅尽したら、その苦しみが滅尽する。
そう私は理解しています。
テーラワーダのサイトから引用します。
DUKKHA:苦
ドゥッカ
『idam dukkham ariyasaccan ti me, bhikkhave, pubbe ananussutesu dhammesu
cakkhum udapâdi ñânam udapâdi paññâ udapâdi vijjâ udapâdi âloko udapâdi』
『比丘たちよ、私に「苦である」という聖なる真理が現れた。
このかつて知られていない真理に対して、目が生じ、智慧が生じ、光が生じた。』(初転法輪経)
『現実の世界は苦であるという真理』(苦聖諦)は、仏教の根本教説である四聖諦の一番目です。そう聞くと、仏教の偉大なる真理がただ「苦しい(dukkha:ドゥッカ)」というだけのことなのだろうか、と疑問に思われるかもわかりません。
ドゥッカとは解脱の境地から見た真理ですから、本来私たちの世俗的な語彙にはない言葉なのです。
お釈迦さまはドゥッカという言葉で、この世の真実の姿を表現されました。ではドゥッカというのはどういう意味かといいますと「空しい、不満、不安定、苦しい」というような意味です。
つまらないものであって、執着するようなものではない。捨てる程度のものだ、ということです。
そして、これは一般の真理とは違って「ariyasacca(アリヤサッチャ):聖なる真理」ですよとおっしゃっています。
一般の真理、たとえば数学や物理学の真理を理解したからといって、人格が変わってしまうということはありません。仏教の真理は、それを完全に理解することによって、人格が全く変わってしまう真理です。完璧な人格、静かに落ち着いたすばらしい人間になってしまう。
これは、pubbe(プッベー)以前には ananusutesu (アナヌステース)聞かれたことがない dhamma(ダンマ)真理であって、このドゥッカという概念はお釈迦さまがはじめて発見された真理なのです。
ですからこれは私たちが日常的に感じる「苦しい、空しい」というレベルの苦しみとは違います。だからといって、私たちの感じる苦しみと全く関係のないことだというわけでもありません。真理とは堂々と常にあるものですから、真理であるならば私たちもやはり私たちなりに感じているはずだからです。
人は、老いること、病気になること、死ぬことからは逃れられません。自分だけでなく、親しい人や家族が病気になったり亡くなったりすることも、とてもつらいことです。人生において悩みや問題が全くない人というのはいません。ですから人は、「この苦しい中に何か救いを見つけなければ」と一生懸命に幸福を求めています。多くの人々は「全知全能の神」や「永遠不滅の魂」など絶対的なものに頼ろうとします。そして、「とにかく信じなければならない、まずそこから始まるのだ」と言ったりします。
お釈迦さまは「まず信じるところから始めるのではなくて、事実はどういうことなのかを実際に自分で観察してみてください」とおっしゃいました。ありのままの姿を観察することによって、存在のシステムはどのように成り立っているのか、というこの世の仕組みがわかるのです。
存在を大きく生命と非生命(物質)に分けると、我々生命存在のエネルギーは不満から生じます。たとえば呼吸にしても、もっと空気がほしくて息を吸う。しばらく吸うと、空気を出したくなって息を吐く。「これで完璧に満足だ」という状態はありません。物質的な存在はすべて常に不安定でどんどん変化していきます。常に変化しながらずっと流れて行く。止まることはありません。我々生命も不満だからずっと変化して流れていきます。それにはきりがない。「これで終わった」ということはありません。宇宙のすべては不完全であること、生命はただの不満の流れであること、だから常に変化していること。ゆえに結局空しい存在であること。それらすべてをまとめて dukkha(ドゥッカ)と言っているのです。
これが本当に理解できると、生きるということは、たいしたことではないということがわかります。必死になってしがみついて、満足感を探し求める気持ちが消えてしまいます。人は、そこで初めてほっとした安らぎの気持ちを味わうことができるのです。
(引用終わり)
お釈迦様が自分の言葉で、
「実は、俺ってサァー、
ホントはこのまま餓死したかったんだけどサァー、
梵天が顕れちゃってェ、
三度までも勧請するからサァー、
もうしっかたねェ~って覚悟をきめたんサァー」
とかと初転法輪でのたまわったんかなァ~??
まさかね!!
スッタニパータでもそんなこと書いて無いみたいだし(そうでしょ、たかはしさん…という事は餓死願望の話も後代の作話?)。
でも何で後代僧侶達がそんなことを言うんだろうか?
釈迦を神格化したいからモソモソと作り話を考えた??
でも釈迦が何か原型を言わなければそんな脚色話は出て来ないよね、たぶん。
(仏教説話の教祖は誰??)
梵天(=ブラフマン)は当時では人気のキャラクターだったから、釈迦もついつい軽口をたたいた??
だって自分の心変わりは夢のお告げだとするのが自然の流れだし・・・
ということは釈迦は超越性を容認してた事にもなるよね、一応は仏教者ではあるけどね。
とにかく此処のブログサイトはいいよね。
好きなことを自由に言えて・・・
ありがとさん、ケイレンちゃん!!
他人の眼を意識せざるをえない、独り言でありながら
舞台で俳優が一人になって
セリフを言っているようなもんでしょうね。
何かの役を演じている錯覚があるから
そのような一人ことを
(恥さらす、恥知らず)
延々と語ったのでしょう。
語った以上、
それを読む人がどう受け取るかについては
私の限界を超えるので
皆さんの好み領域に入ってしまうと思います。
でも、恥さらいでも
書くと、妙に
そのざわめき、苛立ちが
消えるのです。
自分だけのだめに
書いて燃やす方法もありますが、
(そうしたこともありましたが)
あまり、効き目無かったです。
こうやって
独り言に何かしらの反応が
(ノレンを押していない)
あるだけで
恥もさらしておいた方が
私には何かの
蓋を開けるーことにつながる或いは繋がっていると
思っています。
書いておいて
私は書いた内容から離れられるのです。
後で非難が来ても
批判がつられてきても
私はもう離れているから
その件から自由になっているわけです。
考えてみると
矛盾ですが、
これらもエゴの歪んだ形の一つかもと思うわけです。
道元禅師の性的会話への過剰反応≒人格不完全説
(参考:因みにそのブログ主はコメント応答しないし、自分が好きなコメントしか公表しないようですが、個人的に思うこととして彼はある程度のレベルに達したかも)
もしかして、道元禅師が
①修行増が陰でヒソヒソと下ネタ話でゲラゲラ笑い、陰険になっているところを
②無視して、”まあ~若いとそう成りえるよな"と
黙認したとすると、
③その風俗的なムードを許すことになり
④結果的にそれも可の領域に入ってしまう
⑤で、道元禅師は思い切って
彼らを叱ったと思われる
上記は道元禅師が然るべくことを
当然にやっとと思いますが。
では、なぜそれをわざわざ挙げて
道元禅師の人格未熟のように取り上げているかを
考察すると、
①道元禅師も完璧でない、その例
②師だと言って、全て正しい判断をするわけではない、その例
③その件を取り上げることによって、ー私は勉強したーことを開示できる
まあ~其処らへんでしょうね。
多くのブロガーは
自分の見方を上に置くことで
自分の視野の広さと
他人を批判することで
自分のステタ―スを上げている人が
割と多いかなと思います。
それもそれなりに
彼らの生き方だから
私は何の文句も無いのですが、
ナイトコナンさん(引用されたブログ)
のブログがこっとまで
波及すると
ブログ社会の限界性、同時に拡張性も感じてきますね。
あの方は~~とか言い出すし、ケイレンさんも見識を深めていると仰るから、
この場を借りてたかはしさんと論議してみたい訳ですね。
たかはしさんと二人だけでチマチマ話すのは勿体ないかなと思うからですね。
あの方って此処のブログでの共通認識になりつつある(もともとケイレンさんのブログ発祥の原点をなしてる)訳ですし
オチッコやウンチしようとしても
音がするんです
それは逆ではないでしょうか。
自分が共感するから、他者と分かち合いたい。
だから引用する。他者に紹介したいから・・
自分が反感するなら無視して何処かに引用(リンク)したりしない、
反論は元ネタ提供者との内輪話で納めるのが普通だと考えられますが・・
便秘じゃない限り
ウンチは出るんです
ブリッて💩
そんなもんです。
生理的な苦は無くなりませんからね。
行き先は、どこかに添付されてましたけどね。
座右の銘にしたい金言ですね。
それは真理の言葉だと思います。
でも屁理屈をいうと、
同時並行的に、「苦とは我が有るからですよね」というのは背反思考となる感じかな。なぜなら
「我を無くせば苦も無くなる」が対偶となるから。
欲望が妨げられたときに表れるのが怒り
つまり、
【怒りは無謀に始まり、後悔に終わる】
始めるか始めないか
どうぞご自愛
心が気弱になってる処を狙い撃ちしてるという意味ではありません、
どうどご自愛下さいますようお祈りしております。
快楽というキーワードで思い出すケイレンさん言語録では、
他人(夫もその一人)の心の脆さをえぐり出し、他人の心の闇を暴きたてて、
他人が自分との論争に負けて、
へこたれうなだれるのを見るのが、たまらなく快感だ・・・とかなんとか。
(つまり根っからの争闘本能の炎に燃える人!!)
ご本人はそんな事言った覚えが無いと自己弁護なさるかもしれませんが、ケイレンさんの吐き出す言葉からは、第三者にはそう受け取れるという事ですね。
生きてる限り生理的なものは避けられないから、「苦」自体は無くならないけど、我は無くすことがでけますよ、ってことですよね。
釈迦が認識している無常や無我とは、
(スッタニパータによれば、)自分が現実に認識できる範囲内においては、
自分がこれまで見て来た事象はすべて無常で無我であった、
但し自分が実際に観察出来た範囲内に限って言えばだが・・、
ということですよね、たしか。
そうなると南直哉さんの言い草である、「この世の思想は、仏教か非仏教かの二つしか無い。
つまるところ、南さんは、
非仏教は超越性をみとめる有神論、
仏教は超越性をみとめない無神論だという区切り方をしており、
こう言う思考法は後世の仏教僧侶群が発展させた理論という事で在って、
在世当時の釈迦自身が意図したものではない、ということですよね。
釈迦のテーマは一筋に「苦」とは何か、「苦」はいかに滅失できるかという事だった訳で、
超越性がどうだこうだなどという思考は一切無かった。
たかはしさんはどう思いますか?
それが快楽であるなら、桂蓮さんの苦の現れでもあるのでしょうね。
自分の思考を整理する為の独り言を公開すると、
必然的に他人の応答を呼び覚ますのはやむを得ないですよね。
ケイレンさんの韓国・日本での50年間は自分自身を抑圧し、抑圧に抑圧を重ね、自分を押し殺し、
ただただ建前のみで生きた。
建前のみで生きざるを得ない人生だったので、
ほとほと恨みが鬱積し、
自由の国アメリカに来た途端、
すべてが爆発して自分の本音がでて来て、生来の本性がむき出しになった・・・
そんな風にも読める文章ですが
わたしの理解は正しいでしょうか。
でもそうだとすると、
あなた様自身がこのブログで書き残した幾つかの
コメが矛盾して聞こえるのですがどう解釈したらよろしいでしょうか。
例:韓国に住んでいる時、お姉さんがケイレンさんのきつい言葉に悩んで、自殺しようとした。
日本では同僚だったホステス(?)を密室に呼び出して、きつい言葉をいったら、その子は泣いて、翌日から店に来なくなった。
韓国でも日本でもよく他人とぶつかって、相手をなぎ倒して来た。「闘いには決して負けません」というのが私の主義だった。
ケイレンさんのコメをすべて根掘り葉掘り探せばいくらでも出て来そうですが、
これは韓国・日本でも結構直情径行行動を発揮していたみたいだと読み取れそうではありますね。
本性がそうなら、いくら自分を抑えようとしても抑えられるものではない。
で、けっきょくうつ病になって、
心理療法士の診断としては、自分を解放せよと言わざるをえなくなる。
そう言う性向に自分が気付いていたからこそ
自分の正体が知りたいと思って、心理学を専攻する事に成った。
こんな感じでしょうかね。
これは道元がどうかではなく、修行僧弟子の態度がどうかである。
リンク記事を読みました。
コメしたあなたはリンク記事の共感者という事なのですか、それとも反感者。
道元さんがああ言う行動を取ったとしたら、
よっぽど激怒した時の、われを忘れた直情径行の行動だったのでしょうかね。
正師・聖人も時には凡人に成り下がるという例でも在るし、
たとえ、正師・聖人であっても、怒るべき時には思いっきり怒るべしというジャッジの仕方もできる。
人はだれでも人間だからしょうがないと諦めの眼で容認する事も出来るし、
まあ何と言うか、逆に釈迦は人間ではなくなっていた、という思考もうまれてくるし、
色々複雑ですよね・・・にんげんだもの(相田みつお)、許してチョ!!
https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/e6f07cdd5430a8f286c635e48aa3fc9e
e6f07cdd5430a8f286c635e48aa3fc9e
釈迦と同じ境地に至るため?
釈迦と同じ境地って、具体的にどう解釈してるの?
いずれにせよ、釈迦の承認を気にするのは、ナンセンスだと思いますよ。
初転法輪での修行僧との承認があったから、釈迦が悟ったことが意味をなし、今も語り継がれているんじゃあないの?
承認がなければ、個人の妄想で終わってた話で、釈迦は自称ブッダになってたはずだよね。
釈迦の承認を気にしないことの方が、ナンセンスだと思うけどね。
考え方も変わっていきますよね
それを見つめる為にも宗教があるのかな、なんて思います
人(自分も含め)の色メガネに惑わされないことです
私が直情径行な傾向があると見えたことについて考えてみました。
何故なら、『感情の赴くままに行動する』ことは
私の理想的な生き方であるのに
実際、できないと思ってたからです。
日本に留学してから3年目に鬱病になって
医者から、『感情の赴くままに行動する』ことを
処方されたことがあります。
韓国、日本での50年間
やるべきことだけをやって
話したいことも話せず
常に
生徒して
韓国人として
先輩として
塾長として
先生として
それら~~として、生きてきたような気がします。
というのは
やりたい、話したいことの1%もできず、
与えられた使命から
行動し、言動してきたのです。
その挙句、心理学を専攻するようになったのでしたが、
私のあんな極限の
自ら課した使命感に
忠誠して生きてきたのです。
それらの使命感や責任感に解放されて
今、社会的な道徳の抑圧が無くなり
やりたかったこと
話したかったことを
素直に表したら
怒り系、自由奔放、空気読めない、直情径行
かちき、その他我まま系
などを間接的に言われるようになりましたね。
もしかしたら
私の天性がそのような我まま系かもしれませんが、
先天的にそう生まれたとしても
後天的にそのように生きられなかったです。
なぜ、このようなことを書くかというと
私への味方に違和感があって
まるで別人に見えたことに
変な感じがしているからです。
しかし、人はみんな
自分のメガネから人を見てしまうから
それも仕方のないのですが、
相反する他人からの私への自画像映しが
結構気を障りますね。
理解されたいよりは
違和感を無くしたいから書いているので
同情とか同意など乞うのでないことは
分かってください。
こんないざござがあるから
坐禅をやって
心を静める必要があるのでしょう。
ですが、
言わないと
この違和感を他人は分からなくなるから
言っておいて
坐禅をやるのが順番なのかなと思ったりします。
このコメントも
誤字脱字、文法チェックしないで
勢いで投稿するので
間違った箇所があったら
前後関係で推測してくださいね。
ご心配なく、
なお、前回記事のコメントの流れからみると
冷やかしや残酷な批評も
全体的にみれば
必要悪な感じがします。
嫌だからといって
削除するのは
それこそ、何かへの不安かも知れませんね。
結構、私の評判も
たかはしさんに負けず悪いですね。
でも悪評も他人が見た側面なので
受け入れる必要があるでしょうね。
私は逆に
私のことや記事のことを去っておいて
仏教の思想や対談を貼り付けてもらうことが
ずーと、心が楽になりますね。
というのは
私にいくら正しいアドバイスをしてくれても
本人の私が受け容れる段階で無かったら
不愉快感しか残らない訳で
それなら
私の知識の幅を広げられる知識系が
より効果的に効き目があると思うわけです。
たかはしさんが貼り付けtくれた対談内容は
ここでなかったら
私は絶対に読む機会が無いかもと。
私は仏教思想については
徹底して
受動態にいるのがモットなので
コメントに付き、付加的に論争はしない主義です。
ですが、確実に読んでいるので
わたしが素通りしていると思わないでください。
スマナサーラ長老が、理性の目で、客観的に観察せよ、と言うのと同じだと思えます。
そうすれば、南さんが心配するような、溺れる、という危険性を回避できると思いますね。
33.宮崎氏「社会の細分化。「戯論(けろん)」というのは、言語的多様性のこと。仏教者は、そのような社会の戯論を破折していく必要があるのではないか。社会が戯論に陥っていくとき「それは言葉だけの問題だろう?」と相対化していくことは、仏教者の役目ではないかと思う」
2010-03-19 11:27:26
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
34.宮崎氏「人が言葉に囚われてしまうのは今の社会に始まったことではなく、江戸時代でもそうだったと思う。しかし現代はメディア社会であるから、戯論が増えることもあるだろう」
2010-03-19 11:29:58
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
35.釈氏「禅仏教では、言葉が固定化してしまったときに、わけのわからない言葉をぶつけてみたり、まあ、とりあえずお茶でも飲みなされ、と勧めたりして、戯論(けろん)を爆破する。そのような特徴が仏教にはある」
2010-03-19 11:32:16
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
36.宮崎氏「宗教は社会の問題にも関わっていくが、本来は、宗教とは社会を超えた領域にあるものだと思う。宗教は、社会より広い。言葉で右往左往するのは社会の中での話だが、宗教は本来社会をこえたもので、そこから社会の中に振り下ろしていくのが役目のはずだ」
2010-03-19 11:35:30
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
37.宮崎氏「仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でも、本来宗教とは社会をこえたもので、そこから「戯論(けろん)」の相対化や、社会の閉鎖化・固定化を防ぐ役目がある」
2010-03-19 11:37:19
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
38.釈氏「私もそう思う。社会の価値観が一つだけになったら息苦しい。今の社会はビジネスモデルのような一元的な価値観が行き渡っていて、「別の価値観」がないので閉塞感がある。」
2010-03-19 11:38:42
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
39.宮崎氏「特に現代の若い人たちに、その閉塞感が強い。宗教は元々、そのような社会の価値観をこえるようなツールをいろいろと持っている。そのツールを与えることができたら、閉塞感を抱いている若者たちも、少しはらくになるだろうと思う」
2010-03-19 11:40:37
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
40.宮崎氏「イエスの山上の垂訓にせよ、親鸞聖人の悪人正機説にせよ、宗教は本来、社会とは異なる価値観をぶつけたり、社会に投げ下ろすことで少しづつ社会を変えてきた。私はそのような役割を仏教の伝統宗門に望むのだが、どうか。釈氏にもそのような役目を望んでいるのだが、どうか」
2010-03-19 11:44:06
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
41.釈氏「いろんなタイプの大人たちがいれば、子どもたちも救われると思う。父親がまじめな銀行員のようなタイプの大人だったとして、そこに「フーテンの虎さん」のような別の価値観をもった存在が現われる。秩序をまぜっかえす」
人が言葉で提示したことを信じて丸呑みするという態度が信じられない理由は、それが言語の問題に帰結するからです。
この本で、「仏教思想の核心にある問題は言語、より正確に言うなら、言語において意味するもの(言葉)と意味されるもの(経験)の間にあると考えている」と書いたのは、そうした理由です。
最大の問題は言語なんです。もっと言えば、言語に付随する「超越性」の問題です。
なぜ言語によって、普遍的で絶対的なことを話すことができるのか――そこのところが、どうしても腑に落ちないのです。
(中略)
言葉というものに、我々がいかにとらわれているか。それに気づかず、言語に対して距離を保てないと、結局は言語に飲み込まれて支配されてしまう。それこそ現代のようにメディアが発達し、情報に埋もれている状況においては、それを構成している言語そのもののところまで踏み込んで考えなければ、情報の幻想性に惑わされてしまう。
そこで仏教が貢献できることは多くあると思います。培われてきた身体技法で、言語が意味するものを宙づりにしたり、解体したり。あるいは情報内の実存のありようを考える時に、それを全体として俯瞰できる視点をどこかに確保する時などに、仏教は使えると思います。
(引用終わり)
宮崎哲弥さんの発言から引用
65.宮崎氏「‥スッタニパータにせよ、他の経典にせよ、言葉というものは、しっかりつかまえる必要がある。しかし、最後にはそれを捨てる。それができるかどうかで、仏教者としての真価が問われると思う。私にはまだそれができていない」
66.宮崎氏「死ぬまでに言葉を手放すことができたら、と思う。」
67.釈氏「私は仏教のことを、脱構築装置・内蔵宗教と呼ぶことがある。また言葉に関しては棒高跳びのバーのたとえをよく使う。棒高跳びするとき、バーを支えにしてジャンプするわけですが、どこかのタイミングでその棒をパッと離さなければならない。「ことば」とは棒高跳びのバーみたいなものです」
68.宮崎氏「そのようにして最後には捨てられる。仏教者としては、今のところは言葉を駆使して、社会における戯論を相対化したり、言葉をずらしつづけていく必要がある。」
(引用終わり)
南さんが、
全体として俯瞰できる視点をどこかに確保する、
と言うことと、
宮崎さんが、
社会における戯論を相対化したり、言葉をずらしつづけていく
と言うのは、
同じことを言おうとしているのかも。
釈・宮崎対談引用有難うございました。
大変有意義な引用して頂き感謝いたします。
ここのブログでの登場も大変意味ある事と思いました。
ケイレンさんがどう読むのか大変興味があるところなのですが、カビの力(💪)が此の貴重な引用を
カビだらけにしないように願っています。
「ご自愛くださいませ」と書くしかないですね。
本心からの言葉です。日本語的美徳の言葉です。
そう書くとケイレンさんがイライラしてビンタを喰らわせたくなる、みたいな直情径行言葉(=挑発と攻撃)を吐くから、
それを嫌う反発者がでてコメが炎上してしまう。
だからあの方もコメすべてを削除せざるを得なくなる・・・が原因だと思います。
物静かな、おとなしい気味の「思った事や経験談を思いっきり」書くとしたら、
それ自身が削除の対象になったわけではないと思いますね。
以下、引用。
66.宮崎氏「死ぬまでに言葉を手放すことができたら、と思う。」
釈氏「それまでは言葉を駆使されて。ブッダは自分の教えさえ捨てよ、と言っていますからね」
宮崎氏「信仰を捨てよ、とも」
釈氏「そんな宗教がかつてあったでしょうか。教祖が自分の教えを捨てよ、という宗教が」
2010-03-19 13:38:44
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
67.釈氏「私は仏教のことを、脱構築装置・内蔵宗教と呼ぶことがある。また言葉に関しては棒高跳びのバーのたとえをよく使う。棒高跳びするとき、バーを支えにしてジャンプするわけですが、どこかのタイミングでその棒をパッと離さなければならない。「ことば」とは棒高跳びのバーみたいなものです」
2010-03-19 13:54:31
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
68.宮崎氏「そのようにして最後には捨てられる。仏教者としては、今のところは言葉を駆使して、社会における戯論を相対化したり、言葉をずらしつづけていく必要がある。・・もう終わる時間ですか? 」
釈氏「時間は、とっくにオーバーしてます」
2010-03-19 13:58:06
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
69.宮崎氏「残念だな。これから、本題に入って親鸞上人の教えについておうかがいしたかったのに。今日は、現代の“善と悪の問題”について、お話を聞きたいと思って来たのだが・・」
釈氏「えっ、そんなすごい問題を・・・よかったー、時間がきれて! 助かりました」
以下、引用。p
4.釈氏「最近雑誌などであなたのしあわせは何ですか? とそんなことをいきなり聞かれても、という質問されることがある」
宮崎氏「私はそのような場合、たいてい仏教書を読むこと、と答えることにしている」
2010-03-19 09:04:57
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
5釈氏が宮崎氏と仏教とのご縁について尋ねる。宮崎氏「わたしが自分を仏教徒ではなく仏教者と称するのは、個別の宗門に所属しているわけではなく、キリスト者と名乗るクリスチャンに倣ったところもある。共同性を示す「徒」ではなく、単独者として「者」を使っている」
2010-03-19 09:13:13
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
6.宮崎氏「何かの行き詰まりがあって仏教に興味を持ったわけではなく、もともと、幼稚園児以来のわたしの最大のテーマが「死」だった。子どものときから、「死」というものにおびやかされる。自分が死ぬことを考えつめれば考えつめるほど、思考の陥穽にはまっていくような気がしていた。」
2010-03-19 09:15:42
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
7.宮崎氏「神経症のようなものとして、症候として、そのような死への恐れがあった。それとは別に、医者であった祖父が仏教好きで、家には大蔵経などの仏教書があり、それらを読んでいた。祖父のすすめで子どもの頃夏休みに、禅寺に住みこんで座禅のようなものをしていたこともあった。」
2010-03-19 09:18:47
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
8.宮崎氏「そのように祖父の影響で、そもそも仏教への親しみやご縁はあったものの、それを「死」という自分の少年時代からの最大の課題を解決する素材である、とは考えていなかった。西洋哲学やキリスト教などを勉強していた。しかしどうも納得がいかなかった。」
2010-03-19 09:21:45
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
9.宮崎氏「大学に入って初期の頃、中村元氏の『龍樹』を読んだとき、これこそが幼児期以来のわたしの問題を解決するヒントやよすがになるかもしれないと思った。わたしに回心(コンバージョン)の経験があったとしたら、その時だと思う。」
2010-03-19 09:24:34
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
10.宮崎氏「プラトンやハイデガーを読んでも、どうも肌合いが合わず、特に近世・近代の西洋哲学などは、結局キリスト教じゃないかと思った。私が傾倒した思想家は、シモーヌ・ヴェイユやE・M・シオランで、この二人は異端的なキリスト教やインド哲学・仏教など東洋思想に造詣が深かった」
2010-03-19 09:28:24
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
11.宮崎氏「そのような経緯から、仏教を中心とするインド哲学が自分の心にしっくりとくる、自己の問題の解決のよすがになるかもしれない、と思うようになった。」
釈氏「西洋哲学は、確たる自己を作れ、という感じが強い。仏教はそれを空だと言ったりする」
2010-03-19 09:34:43
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
12.宮崎氏「わたしにとっては肉感的に、自己を確立すれば確立するほど、死がこわくなるのではないか、という疑いがあった。西洋哲学の、自己を鍛えよう、自己を向上させようという傾向は、オブセッション(強迫観念)のように見えた。」
2010-03-19 09:38:13
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
13.釈氏「今自分の教え子の学生たちを見ていても、自己確立や自己向上に押しつぶされそうになっているように見える。社会もますます自己決定、自己責任を尊重するようになっている。それは近代の極端さがあらわれたものではないか」
2010-03-19 09:50:45
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
14.宮崎氏「昔なら家業を継ぐなどの形があった。近代では自己決定・自己責任が強調される。しかしここで、その自己決定の主体となる「自己」とは、そもそもそのような重みに耐えられるものか、ということが問われるべきだった。たとえば生命倫理的な問題に際して、自己はその重みに耐えうるのか」
2010-03-19 09:53:31
al(⃔ ॑꒳ ॑*)⃕↝sinceK @alsinceke
15.釈氏「最近でも大阪の橋本知事が、高校生に向かって「これからは自己決定の時代だ!」と熱く演説していました。自己が強くなるほど、苦しみもまた強くなるのではないか、と思うのですが・・」
(引用終わり)
独特で味のあるコメント者だったので残念でした。
自分に苦しみが有るか無いかは、自分で分かるのだから。
悟りを、苦しみの滅尽じゃなくて、苦しみの軽減だと解釈するなら、そんなものは、釈迦と同じかどうかを気にしても無意味だと思いますね。
どの程度まで苦しみが軽減したら釈迦と同じかなんて、そんなこと気にしても仕方のないことでしょう。
自分で満足出来るところまで軽減できたらそれでいいでしょう。
もし、どこまでやっても、苦しみの軽減では満足出来ないというのなら、釈迦の悟りを苦しみの軽減だと解釈したら、それはつまり、釈迦の悟りじゃ満足出来ない、ということになるでしょう。だから、釈迦の承認なんて意味が無いことになるでしょう。
いずれにせよ、釈迦の承認を気にするのは、ナンセンスだと思いますよ。
ザンネン!
医者も知らないので、様子を見ようとのことです。
X-rayも問題無かったし、
カビは地下室に広がっていたから
カビ除去機を24時間可動させています。
肌アレルギーはもう治りましたけど、
他の食品アレルギーなど
次から次へと
気力も弱ってしまいました。
坐禅をして統制できる系ではないようです。
菌類に弱いタイプかもです。
気を使って頂きありがとうございました。
バレエを習いたいのですが、
一番近いバレエスクールは片道一時間以上で遠いし、
バレエを一緒に習いましょうと
近所のGranbyサイトに投稿しても
蟻一匹も来なかったです。
以上、愚痴でした。
もう、愚痴ったから2度しません。
書いてみたかったです。
書いておくと、なぜか、全体が見えたりするので。
いずれにしても釈さんって浄土系の宗派らしいから、
「生きている意味」とは親鸞会と同じなんですかね?
南和尚さんのバッサリ定義によると超越系は非仏教という事に成るから、
其処での「生きている意味」はワタシには役に立たないかもしれないのですが、困ったものです。
問題あるようでしたら、秒殺削除して下さいね。
例の山のコメンテーター同士のいざござを共有していない人にとっては
このコメント欄で何が交わされているか
全く分からないでしょうね。
私も結構、相当に
あっち山で
①人に馬鹿にされるかも
②人に勉強し直してこいと言われるかも
③皆の流れに乗れないかも
④空気読めないやつだと思われるかも
⑤仲間入りできないやつだと思われるかもなど
あれこれ計算しても
答えが出ないから
じゃーならば
思ったことや経験を思いっきり書け!とやった結果
削除されたとの嫌な経験があるから
ここで、あんな心配せず
気ままに書けて聞けるから
楽になりますね。
難しい解説も
焦らず、取っておけて
分かるまで読めるから
それも気楽だし、
兎に角、ここに来て下さる方に
感謝しております。
何だか。思いっきり
話したい、話したかったことが
言えるようになりました。
皆様のコメントから
学び、それらをまとめていきたいと思います。
因みに記事に無理して関連付けしなくていいので、
気にかかることがありましたら
書いてください。
気が向いたら
私も心のざわめきを書いておこうと思います。
何か、癒される気持ちですね。
釈徹宗×宮崎哲弥対談「今、生きていることの意味」まとめ
それで検索してみて下さい。
発音も結構、日本の人の普通レベルは特に超えてましたし。
そうですか。シーユーアゲインらしいですから、アメリカ行きを狙われてるかもしれませんね。
または、日本で禅センターを作る予定なのかもしれませんね。
なお、勝手な想像です。
でも、あのサイトは、全部で4ページあるようですので、宮崎哲弥さんの発言の要点は網羅しているかも。
釈さんは聞き役という感じですね。
ですか通常、湿気が多くて咳が出ることは少ないでしょうから、また別の病原菌ですかね。
ブログは無理なさらず御大事にして下さいね。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/690cb7b9e5e2489fec875547cdb999b4
カンレキ迎えて変わったのかもしれませんが。
アメリカに派遣されたことも知っていて、
しかし、英語も結構、達者でありましたね。
発音も結構、日本の人の普通レベルは特に超えてましたし。
いいことをいいますね。ありがとうございました。
ところでたかはしさんがリンクしてくれた
宮崎さんと釈さんの対談記事、どんな対談だったのか内容を知りたいと思ったのですがリンクからは出て来ないようですね。
どこかに、ネットで対談文を読めるサイトがありますかね。
しかし、生まれ変わってもあんなに品性正しい言い方はできないでしょうね。
現在進行形だった、ですね。
過去完了の経験を聞いていると思っちゃいました。
補足:
ここアメリカでは
公民館みたいなところで
アメリカ式坐禅会に参加したことがあります。
他もMEET UPなどの活動に参加しようと
ネット的な関りは持っているのですが、
最近、病院通いが多くなって
行けじまいです。
酷い咳は
カビが原因かもと、昨日医者から言われ
今経過を見ているところです。
実は、このブログやあのブログも
やっとのおもいでやっている現状です。
私の人生でこれまで
病院通いをしたことが無かったので
これも環境が変わったから生じる適応過程でしょうね。
模範解答、謹んで承りました。
坐禅塾か何かを開かれないかなぁ。
ある老師から、アメリカ人の手紙の翻訳を頼まれて、何とか訳した事が誤解され、いつの間にか「英語がペラペラだ」という事になり、「修行僧海外派遣第1号」として流刑の如く、渡米されたのでありました。
今でもミネソタ州南部の釣月山宝鏡寺や、カンフーン湖に面した禅センターがあるんでしょうかね。
https://togetter.com/li/10117?page=2
宮崎氏「私は持病として腎臓結石を患っているのですが、石ころが腎臓から尿道を通って外に出てくるまでのプロセスが、痛いのなんのって、死ぬかと思うくらいです。そのような死ぬほどの痛みのとき、自分というものは消えていました。自分が、痛みそのものになっていました。」
23.宮崎氏「私の経験では痛みだったが、痛みに限らず歓喜や熱中なども、自己や意識が固定的にあるものではないということを気づかせてくれる体験だと思う。「私」「自分」という固定観念があるから意識・自己というものが作られる」
24.宮崎氏「本来は「流動性」しかないのに、アイデンティティといった言葉の枠組みにしか過ぎないものによって、意識や自己というものが作られている。そのことに気づくことが、無我を理解するポイントになると思う」
25.宮崎氏「私の解釈では、仏教がいう執着とは、概念という言葉として作り上げられたもの、他から与えられたものに「こだわる」ことから苦が生まれるという、ブッダが発見した世界の法則に基づいている」
>何かを見ていません。何もかもが一度に見えている状態になります。何かを聞いているのではなく、何もかもが聞こえているような状態になります
>見る者と見られているもの、聞く者と聞こえてくるもの、というような通常の認識の枠組みは消失してしまいます
それは、主客未分、対象と一つになる、対象そのものになる、というような説明がされますね。
私が、何かを見る、ということなら、能動。そこに「私」という自我意識がある。
ただ何もかもが一度に見えているだけ、というのは、一切が受動で、そこでは、私に、何かが見えている、と「私」を意識することもない。
そういうことだと思います。私は、まだ体験してないですが。
景色を見た瞬間、そこには、「景色」があるだけで、「私」という自我意識は無い。
その後に、私は景色を見ている、私は景色を見ていた、と「私」という自我意識が形成される。
自我意識は、そもそもは無かったのに、後から形成された概念に過ぎない。
つまり、そもそもは、無我なのだと。
それなら、比較的容易に体験可能ですよね。
桃の花が咲いているのを見て悟った。竹に小石が当たる音を聞いて悟った。間違って熱湯に手を入れて熱いと思わず手を引っ込めた時に悟った。
そんな話があるようですが、それも、その瞬間には「私」は無い、そもそもは無我で、自我意識はその後に形成された概念に過ぎない、ということが分かった、ということじゃないかと思っています。
初期経典では、悟りが4段階で説かれていて、自我意識が、後から形成された妄想概念に過ぎない、と分かることが、悟りの第1段階とされています。
でも、悟りの第1段階では、苦しみは滅尽されません。それは完全な悟りではありません。
だから、自我の解体を経験したとしても、ただそれだけのこと、ということになるのでしょう。
でも、自我が妄想概念に過ぎないということを一時的に体験することで、自我に執着して苦しんでいた自分を反省することが出来て、その執着が弱められるから、苦しみも弱くなる、という効果が得られると思います。
何より、坐禅中は、とても落ち着いた気持ちで居られるでしょうから、坐禅の後もその余韻を楽しめる、ということがあると思います。
南さんは、忙しくて坐禅が出来ないでいると、何か落ち着かない、というようなことを受賞インタビューで言ってますね。
ネット座禅会とかを開くって言うのはど~お??
(現在進行形のシチュエーション、∵日々の解体作業を目指す設定での話をしている)
A.いいえ、
でも、ずっと昔参加した事はあります。
最後に参加したのは1年前、恐山で二日掛かりの座禅会でした。
その前後は3年前にアメリカに来てしまったので、アメリカでは座禅会を見つける事が出来ませんでしたので、坐禅は自分1人でたまにしか遣っていませんが、
わたしのアメリカでの夢は
ここアメリカで自分の座禅会を開く事です。
なにかご提案が有ればご教授ください・・・かしこ
(これで話は現実的になって、話題がすすむ。
もしかしてスポンサー・賛同者・同志等がみつかるかもね??)
上記の部分も分かるようなわからないような、
私個人の勝手な解釈でも大丈夫ですか?
ことばとおり受けると、受動態、受動的ということばは、違う状態を表しているようですが、
これも、あっち山では
恥ずかしくて聞けなかったです。
もうブックマーク入れてあって、
私はそこからか、ここのブログのブックマークから
あっち山へ飛んでます。
ということは、
その内容について分からないことがあったら
ここで聞けるということになるですかね?
それができるなら
思っていた疑問など聞けるから助かりますが、
親切に教えて頂きありがとうございました。
ざーと読んだだけでも
深く考える必要がありそうですね。
解体、奥が深いですね。
聞いてよかったあ。
はい、坐禅を知ってから他の宗派も経験してみました。
11年前かもっと前か、
坐禅を知りたいと思ってから
毎日、坐禅会を検索して
時間があるだけ参加してました。
その経験の中で
曹洞宗禅が納得いけて
反感も湧かず
すんなり受け入れましたので、
曹洞宗以外の縁は薄かったでしたね。
Q:あの山のあの方から、坐禅指導を受けられたことがあるんですよね?
はい、去年青森まで行ってうけました。
面談も2回受けて頂きました。
大概の人間は
自分が得たものを後生大事に抱えて、
既得権がわが命とばかりに執着して
スクラップ&ビルドを拒否するものだ。
つまり、諸行無常を受け容れる事が出来ないでいる。
仏教の基本は捨てる事から始まる!!(S長老言)は、自分が得た物質のみならず、
固着した思考・自分勝手な正義感なんかの
思想分野も含む。
但し、アンプはどうなのかはわからない。S長老の好きなCDはどうなんだろう??
坐禅に於いて、最早「私である」ことの意識は【解体】され、自意識は融解してしまいます。
座禅をして、
自意識を【解体】する目的は、
人は特殊な身体操作によって、単にそう言う感覚に成れる(=変性意識を体験できる)と言う事実を知っておく事だけです。
そんな精神状態に「悟り」とか「見性(大悟)」などと名付けることはナンセンスです。
ましてや、そんな感覚を「本来の自己(=真我)」の発見などと言うのは全くのお門違いもよいところです。
(以上、意訳)。
コメ者の私感としては、
この感覚(精神状態、変性意識)は
単なる右脳の作用(=現実離れした感覚)が創り出したモノに過ぎない・・・ただそれだけ。
(しかしそれなりの効用はある。ゼロポイントに戻って
自分の心のスクラップ&ビルドが出来る)
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/4e8e85a2e51ddfd8845084a3e632d9ed
道元師は同発音の「身心脱落」という言葉で転用した。ケイレン流に言えば「ゼロポイント」。
これは、
ケイレンさんのテーマの座禅での体験なのでは?
いろいろ虚偽の衣を着て、錯覚マミレになって、偽りの自分を演じてきたが、
坐禅でゼロポイントに戻って、あたらしくより良い自分を作り直す。
物的成功に酔いしれて、それを見せびらかして、他者に誇って見せたが、
それらは全て、単なるアダ花だったと知る。
一旦それらを断捨離し、我が身の醜態を解体し、
我が身を清めて高潔な清貧を良しとする。
真の『スクラップ&ビルド』
解体に関しては、坐禅で体験することですから、坐り続けていくしかないでしょうね。解体出来ずとも、求めずに待つ、という姿勢で取り組むことが大事でしょうね。
どこか坐禅会の参加はされていますか。
2018-10-11 20:57:57
>故に、「ただそれだけのこと」とされるのであります。
記事添付、ありがとうございました。
解体の意味が分かるような分からないような。
みなさま、
解体、それどのようなことだと思いますか?
ずっと、質問したかったのでしたが、
あっち山ではどうも聞ける雰囲気ではなかったので
きけませんでした。
でも「ただそれだけのこと!!」
非常に理解しやすい例が
宇宙飛行士などの無重力体験ですね。
体が、宙(空間)にフワフワ浮いている。
ただそれだけの事なのに、
それを悟りだとか、悟りに到達した偉人だとかとほめたたえる。
すっかり信じてその人の言う事にドップリ嵌ってしまう。
なにやら麻原がやって見せたテクニック
…全くのフェークだったようだけど・・
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/8ac42e32c7433aa6a1adf144e7a90732
「○○は真理であるから、信じなさい」と言われた瞬間に、ある錯覚の中に溺れていくような気がするんです。
その〝真理〟は、時の権力や正義と結びついて、最初の意図とは全く違うところに連れていかれることもある。そうした例は歴史上いくらでもあるし、日本でも経験していることでしょう。
私は〝真理〟という時に生じるデメリットが、メリットよりも大きいと思う。
根拠や真理とされるものがなければ、人間の社会と実存を支えられないだろうというのはわかります。
しかし私はそこにデメリットを見てしまう。それは副作用と言い換えてもいい。その副作用を牽制するところに、仏教の凄味がある。
仏教という思想の最もユニークでオリジナルな部分は、そのデメリットを見ていることだと思います。
もちろん真理や正義とされるものに、メリットもあります。しかし一方で、そこにあるデメリットをきっちり見据えている思想は、仏教以外にないと思う。
仏教の中でも、特にゴータマ・ブッダ、そして『中論』(註・勃興ぼっこう期の大乗仏教を理論的に支えた龍樹[ナーガルジュナ]の論書)、それから親鸞と道元。
彼らの思想から、私は真理や超越的な理念に対する敏感なる危機意識を感じます。とりわけそれは、「無常・無我・無記」の思想によくあらわれています。
(引用終わり)
>「○○は真理であるから、信じなさい」と言われた瞬間に、ある錯覚の中に溺れていくような気がするんです。
錯覚に溺れる恐怖を南さんは感じているんだな、と思いました。
悟り体験が、錯覚と区別がつかない、ということを南さんは、よく言いますが、そういうことなのかな、と思いましたね。
特殊な体験をしたことによる歓喜、あるいはそれを聞いたことによる、それへの憧憬という感情から、思考停止状態になって、無批判に特殊な教義を受け入れてしまうことによる弊害とでもいうか。オーム事件のように。
そうか、そこまで心配するのか、そこが私との違いだな、と思いましたよ。
そこでの8割ぐらいが、これまでにブログの記事などを読んで理解していたことなので、すらすらと読めました。
残りの2割は、まだまだ時間が掛かるか、あるいは、南さんと同じ気質を持っていないと分からないのかも、なんて思いました。
私も南さん同様に生まれついての病弱で、将来に希望が持てなかったのですが、死ぬ危険は無かったので、そこがまず違います。
でも、死ぬ危険に直面していたとしても、南さんと同じ問題意識は持たなかっただろうなあ、そこに決定的な気質の違いがありそうだなあ、と思います。
それにしても興味深い考え方だなあ、と思いますね。
というか、そういう場合が多いかも。
例の山にもコメント欄でコピペしておきましたが、
こっちにも参考になるかもと思って。
私は翻訳関係でその出版社に連絡したことが
並行してメールマガジン配信を登録しています。
そこに10月10日日づけで
受賞インタビュー
「思想には仏教と仏教以外しかない」
第十七回 小林秀雄賞
著者南直哉
記事があったので
今読んでいるところです。
ただし、それは相手が理屈で対抗してくるからであって、そうではなくて感覚的なことを主張するなら、私はそれを否定はしません。
例えば、一神教の信者で、不合理ゆえに我信ず、という人がいたら、私にはそれは無理だが、その道を行く人を否定はしない、と言うでしょう。
もしかしたら
私がコメントで正直すぎるほど書くのは
私の性格があまりにも理屈過ぎるから
そのはけ口みたいになってたかもしれませんね。
塾長やって生徒に教えていた時
生徒は私の説明で結構笑ってくれました。
生徒を笑わせてそのつきを狙って
肝要なポイントや公式を
使ったりして
勉強は笑いと繋がることを
無意識に植えようとしてましたね。
兎に角、私の姉が
私が直情径行に見えた人もいると言ったら
信じてくれないでしょうね。
私は馬鹿正直ですが、
私の利得のために正直になったことはないです。
馬鹿正直になることで
場が和み
他人が楽しめて
言えないことを言えるようになって
まあ~そこらへんを狙って
馬鹿になったりしますけど。
たかはしさん、悪く思ってないので安心ください。
でも理屈塊だと言われるよりずーとマシです。
でも、若かった頃
全てに成功して
(学歴、経歴、財産、不動産で成功)
こわいもの知らずになって
本音を言いまぐった時がありました。
その結果、周りをみたら
友達が減っていましたね。
人に媚びる必要が無かったからでしたが、
独り善がりやっても面白くなくなって
ある程度、人と中間時点で
折りをつけるようになりましたね。
お陰様で
私の性格癖について
考え直すようになったので
感謝(建前でない)しています。
その言葉が無かったら
他人に私がどう見えるか、きっと分からず
自分の勝手な思いでものを言い続けたと思います。
>最近では、「直情径行」の意味を
「裏表がない」「正直な性格」
などと誤解する人も増えているようです。
>しかし、
本来は否定的な意味から来た言葉ですので、
勘違いしないようにしましょう。
まさしく、私は、勘違いの方の意味も使っている、ということになりますね。
海老で鯛を釣るとか、情けは人の為ならず、という言葉が逆の意味で使われることが多くなったという話を聞いたことがありますが、それは日本語の乱れとして、正す必要があるのでしょう。
どうもすいませんでした。
ただ、桂蓮さんに対しては、良い方の意味(勘違いの意味ですけど)を含ませて使いたかったという私の意図は理解して下さい。
決して非難オンリーじゃないということです。
彼の直情径行な性格は、短所であると同時に長所でもある。
その時は、それほど悪い意味では使っていません。
それから、言葉の意味は、時と場所で変わる、ということもありますよね。
また、ネットでの議論は、実生活と違って、感情を排して論理だけを追う、ということがありますので、実生活における振る舞いよりも悪く見える場合があるようです。
あちらで私は、極悪と見られていたようですし。
あちらに登場した当初は、嘘くさいと言われたこともありますしね。
たぶん、実生活で私のことを極悪で嘘くさいと思っている人は多くないと思っています。
私がその人だと言っているようですが、
文字の世界ではそう見えるかも知れませんが、
現実絡みの実生活では
反対です。
ですが、ブログ社会では
文字=人格
文字=その人
みたいな性質があるから
そう見えても
仕方のない他人の眼ですね。
はい、了解です。
たかはしさんとUnknownさん
これ以上異議ありません。
ですが、実際私を体験してからも
そう言えるかは定かではないでしょうね。
でも、私が今まで書いたコメントを見ると
それを実行しているように見えますよね。
他人が見せた鏡は
私が持っている鏡と違って映りますね。
相手の気持ちや周りの状況を気にすることなく、自分の思うままに行動する事。
類義語ー軽率短慮、猪突猛進、暴虎ひょうか(?)
使い方;
A.うちのクラスの小林君の評判は良くないよね。
B.うん,自分勝手な事が多くて、周りの空気を一切気にしないところがあるよね。
A.思った事を直ぐ話しちゃって、いつも女子から非難されちゃうんだよ。
B.感情の思うままに行動しちゃって、まさに直情径行な性格だよね・・・
他の例;
①直情径行の振る舞いに皆激怒した。
②.周りの意見も聞かず、周りの様子も構うことなく、いつも自分勝手なことをする直情径行なところがあった。
③.彼の性格は直情径行で、短絡的に言動する処が彼の評判を悪くしていた。
オワリ!
直情径行な傾向は全くないです。
感情的に動けなくて
それが問題なほど
頭でっかちで理論派なのです。
生まれつき
理論派のです。
もしかしたら
余りも人から
理屈過ぎると言われたから
感情の赴くままにやってみたいと思ったのが
表に出たのかな?
塾長15年のキャリアで
直情径行な要素が残るわけが無いと思いますけどね。
たかはしさんにそのように見えたのは
私に実際会ってないからだと思います。
ただそれだけのこと
悟りが簡単だったら、誰も、ありがたがらないでしょう。
自分に出来る範囲で、徐々に改善、長所を活かしながら、というのがいいですよね。
直情径行の人は、言い過ぎるという短所がある反面、言わなければならない時に、ちゃんと言える、という良いところがあると思います。
つまり、少しダメというニュアンス。
絶対良いですという正当化の意味は全然含まれない。
たしかに使い方によってはね、
使い方によってはと、
わざわざ言わねばならない処に
一般論としては、おとなの直情径行は
無意味な程に、この世に対立構造を巻き起こし、
自ら孤立する要素を含む事となる。
不必要に敵をいっぱい作る。
考えて見て下さい、
釈尊が直情径行な人だったかど~かを。
だから私は、桂蓮さんが直情径行だと思ったのです。
でもそれは、まるで駄目というニュアンスではないですよ。
多少遅ればせながら
やっと直情径行という言葉の意味を
調べる気になってくれた。
もしその言葉に注目が集まるように
脚光を浴びせなければ、
たかはしさんの発した直情径行という
たかはしさんの連想語は其のまま
闇に埋もれてしまった事だろう。
そのような損失をなんとか防げた・・・めでたしめでたし。
「感情のおもむくままに行動すること」
コメントの流れから
私も
天真爛漫、無邪気、ちゃらんぽらん、天真な
などのことばを連想しました。
無邪気な子供
天真爛漫な少女
ちゃらんぽらんなヤンキー
天真な田舎の子
直情径行な桂蓮?
それをたかはしさんが連想したとのこと??ではなさそうですね。
そんな傾向、実の生活では全く無いと思いますが、
文字から成るブログとコメントには
そう見えることもあり得るでしょうね。
旨味の結晶体を調べたのでしたが、
それ全部、つまらん図ばかりで
仕方なく、塩結晶体の中で
私の選別基準である
『色彩、グラフィックセンスのあるもの』として
上記の図が選ばれました。
図でまき散らせるものは無いです。
ほぼ同じ時間帯に私とたかはしさんが同じコメントをしたのですね。
ネットで調べたら、こんなのありました。
気性は私以上に激しく、直情径行で、理(ことわり)に適(かな)ったことを曲げるのを極端に嫌った。<辻邦生・西行花伝>
調べてみました。
コピペしておきます。
>直情径行」は、
「ちょくじょうけいこう」と読みます。
意味としては、
「感情のおもむくままに行動すること」<
『直情径行、すべからじ』
(=激情をおさえよ、自分を抑えよ、カッとなるな、冷静沈着をもって良しとすべし、あいての気持ちにも考えを馳せよ、
なんじの心に余裕を持て、とうとう)
それなりに有意義な会話が出来たものと満足しております。
心あたりのある人には分かる訳で、役に立つ情報になるのかも知れません。
これはたかはしさんが初めに投げかけた言葉で、
たかはしさんが何故だか連想した訳で、
何故、誰に対して、誰の言った言葉から
この言葉を連想したのか、
たかはしさんが
そう言う言葉を発した根拠が厳然として在るのでしょうが、
わたしはその言葉を聞いて、
イロイロ思索してみたという事です。
そうだなァ~、自分も直情径行の大人にならないように気を付けなければいけないよなァ~、
とかと言う意味の自戒です。
輪廻論者の悪癖ですから、それはいただけません。
自業自得の輪廻は、未熟者によって、単なる他者非難に使われる弊害がある、ということですね。
あくまで自戒の意味で言ってます。
自分にしか当てはめません。
ということは、
>不正常に育った子供(小児)は直情径行を抑圧されて、いつまでたっても成熟した大人になれない。
>よって直情径行の大人は未成熟者として排斥の憂き目を得る。
それは、あなた自身のことを言ったものだ、ということですか?
他者との軋轢・ぶつかり合いが多く
自分に葛藤を抱える可能性が高いから
自分でその傾向が分かる筈。
ならば修行(修練)を通して
自分を律して行けばよい筈で、
それをしないままで直情径行の大人になったら
やっぱり未熟な大人と判断されても仕方が無くて
自己責任としては自業自得を認識しなければならない。
これは自己診断用です。他者非難の手段ではありません。
あくまで自戒の意味で言ってます。
自分にしか当てはめません。
お前の業は自業自得だと非難するのは
輪廻論者の悪癖ですから、それはいただけません。
直情径行の親や伴侶が認知症になって
その持って生まれた気質が、もろにむき出しになったら、
介護する側にとっては最悪の悪夢ですよね。
これも自業自得に分類されて然るべきで、
自分の身ならず、まわりに毒を撒き散らす。
ところで今回記事のダイアグラムは何の化学式ですか。塩ならNaClだけど、
ダイアグラムのそれは、なにやら得体の知れぬ
まき散らし用の毒なんかではないですよね?
アナタがそう言う根拠は、
「直情径行の大人は、病的疾患を患っている(に過ぎぬ)」という事ですか?(=だから自分のせいではない)。
一理ありそうですが、私の言いたいポイントは、
直情径行型の大人の言動は、他の大人から排除される行動だが、
みずからそんな行動をとる、自分を制御できない状態は自業自得的、みずからまいた種だ、
という意味ですね。
>自業自得
やむを得ない事ではあるのだが、
自業自得的でもある。
直情径行の大人は未成熟者、というより、これは何かの病的疾患ではないですかね。そうでないなら、これは育てた側や周りの大人の責任も大きな要因となるでしょうね。
また人は、教育や環境によって変われるはずですし、今の日本社会で義務教育を通過するのに、直情径行のまま大人になれるはずもないでしょうから。
非行や引きこもりなどを例外としても、必ずしも皆が未成熟者とは限りませんよね。
故にこれを自業自得的と締めるのは、オカシイと思いますね。
また、気質は気質として、そのままでもなく、変容させることも可能ですよね。
ZIPさんの根本的なものの見方
↓
その見方を表す方法
↓
知識の取り扱い
↓
人との接し方
↓
社会規範をどこで切るか
↓
ことばの運び方
↓
自我とエゴの使い方
↓
自分を他人につなげる方法論
大まかな上記に書いた流れが
私と刻似しています。
だから、それに感動するときが
結構ありましたね。
>後は知ったこっちゃない(笑)。
私の脳USBに保存しました。
面白かったから
その以外のコメントは
内容の性質からみて
熟考してから
(発酵させる)
応えます。
皆さま
私の『ノレン押し』のPTSDも治してくださいますね。
①ノレン押し
ノレンを押しても何の反応がない、返ってくる反応がない
②なぜPTSDになったか
私流のジョークですが、
私に応える(堪える)人が長い間いなかったのでそれが後天性ストレス症候群(PTSD)になってたほどでしたが、記事から派生されたコメントで、ある種(私にとっては多種)の癒しになったとのこと
兎に角、わざわざコメントまでして頂き感謝します。
ケイレンさんをして、
「夫以外のただ一人の、私を支持してくれてる、
涙が出る程貴重なお方!!」
と言わしめるZIPさんのその思いの原点は何ですか??
普段ならめったにコメントしない人が
ブログ記事より
マシなコメントをして
こんな甘い反応の味をしめると
人の痒いところを掻く記事になりかねない。
気を引き締めないと
ヤバイ、ヤバイ
まあ~
けれど、たまには
甘いコメントも頂こうかな~
生まれた(時の)気質とは何なのか?
人の性格は個人のホルモン分泌の差からが半分と
育つ環境が半分、
というところでしょうか。
ケイレンさんお得意の、
AとBとがあって、A>BならCだが
A<BならDとなる。
A=Bなら環境によって皆、似たものとなるとか講義がでそうですね。
和食で言えば、素材を生かすも殺すも、ダシが決め手となるようです。
料理も人間も、飾りたてればキリもなく(欲望)、本音か建前かは、社会的生き物として、時と場合で臨機応変に使い分ける必要があるでしょうね。
料理は失敗してもどうにかなりますが、人間関係は失敗すると、どうにもならないことがありますからね。
塩のアンバイとは良い表現ですね。桂蓮さんらしいです。その本音が聞きたいんですよ。私はね。
どうも日本人は建前で誤魔化したがる。安部首相なんかその典型なんですが。
ドンドン本音で迫りましょう。後は知ったこっちゃない(笑)。
そして、育てる条件が違えば、尚更に違いが出るのでしょうね。
それから、どの程度を正常とするのかという問題もありそうですね。
人間性小児過程(成長過程)での直情径行を
周りの大人から抑圧・制限されてしまうので、
直情径行が無意識下に潜伏する事となる。
いつまでたっても「直情径行」過程から卒業出来なくなってしまう。
大人になって他者からの歯止めが無くなった時に
直情径行が自らの心の表面に現れ出てきて、
その人の気質となってしまう。
>持って生まれた気質
正常に育てられた子供(小児)は常に(=ほぼ)直情径行で
人はその後、社会人としての成長過程で
本音と建て前を案配(塩梅)して社会性を育む。
不正常に育った子供(小児)は直情径行を抑圧されて、いつまでたっても成熟した大人になれない。
よって直情径行の大人は未成熟者として排斥の憂き目を得る。
やむを得ない事ではあるのだが、
自業自得的でもある。
分かるということは、何が選択されたのかという事です。
数ある選択肢の中で、
何故それが選択されたのか?
何故他でもないそれなのか?
何故それでなければならなかったのか?
その何故が分らなければ、意味として分からないわけです。
受け手側が積極的に思い込まないと、意味は伝わらないわけです。
他でもあり得たはずなのに、何故それが選択されたのか、その理由に納得することで意味として分かるわけです。
もし、本能だけで人間が振舞うのであれば、これほどコミュニケーションが複雑にはなりはしません。
本能だけでは振る舞わないから、本音と建前があるわけです。
本能だけでは判断できない故に、分かり合えることができないわけです。
分かるのは、自分との選択の仕方の違いだけです
話した事が伝わらないのは、それが主たる理由です。
これを料理にたとえて
塩と砂糖の加減-------
面白い発想ですねーーーーーー
自分、本音とか建て前とか
ちゃんと考えたことなかった
と思いますーーーーーーーーー
これを機に
ちょっと考えてみようかなーーーーー
それも持って生まれた気質かなと。
本音と建前は、自分を二分するような関係にあるわけではありません。
前者は対自分
後者は対他人という
単に視線の違いであって、その中心には動かない己が有るのです。
ですから、本音と建前を別々に眺めて右往左往するのは心の迷いそのものでしょう。
本音と建前で悩んだら、瞑想して己に会えばいいのだと思います。
そうすれば
心を、傷つき傷つけ合うのは、核心にある己の外で起こっている妄想だと分かります。
己に本音や建前があろうはずはありませんよね。なぜなら真の己というものは本音や建前のさらに奥にある真実。
禅とはその己に出逢うためにあるのではないでしょうか。
いい塩梅とは、その己が喜ぶ塩加減のことだと私などは思います^ね^
本音と建前にしたのは
それを踏まえて
人間関係を再考したいからだ。
私のブログのコメント欄は
前期つまり一度閉じた前の時期では
私の師匠Tと私の対談みたいに行われて
刻稀にZIPさんが哲学的なまとめをしてくれたことが
主流であった。
前回は恐山ブログコメント欄で
顔が広く知られているたかはしさんが
コメントしたことで
普段ではめったに
あり得ないコメンテーターから
指摘や疑問を書かれた。
それをさておいても
ブログ社会でぶつかった人とのトラブルが
原因で
まるごと2週間
不愉快な気分を味わった。
ブログ社会では
どうしてもブログ持ち主同士で
何らかの交流がある。
恐山ブログは例外で
私のような
一般人の平凡凡なブログは
他のブロガーと持ちつ持たれつつの
条件付き関係が少なからずある。
煩わしくて避けているが、
場合によっては
人から害も受けたりする。
だが、ここで
人と率直に関わって
嘘のようにあの不愉快感が治まった。
もうその人がもたらした不愉快な結果に
左右されなくて済むようになった。
その変化した過程を
今回の記事でまとめてみたのである。