Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

無思考のエネルギーEnergy of None thinking

2017-01-27 | 坐禅

『思考を切る』という坐禅の枝法がある

There is a zazen technique as “Cut a thought”

この技法を扱うため『思考の側面』を書いたのだが

To deal with the technique I wrote “Lateral of Cognition” though

その過程で思考が止まるゼロ時点を言及する必要があった

I was needed to mention the zero point

where the thinking(=cognition) stopped in the process


そのゼロ時点は空間感覚を伴うため

Due to the zero point accompanies a spatial sensation

私達が生きている3次元以外の4次元以上の空間

The space that more than 4-dimensions

-other than 3-dimensional we’re living at

つまりは時空間を解明していくことになり

So, it has led to explication of the time-space

それがアインシュタインの時間概念の解釈へ発展した

It also has expanded to the interpretation of Einstein’s time conception

それら思考にまつわる枝別れについては

Those branching ways which coiled around on thinking

次回に関連付けていく

I will make a connection next time


その思考の側面に関したコメントの中でPOさんが

In the comments on Lateral Cognition, Mr. PO wrote that

『思考を外側から見る、ということが
私にもよく分かりません』との問いがあった

“Seeing the thought from outside, it is hard for me to understand well”

彼はまた、自らの見解を以下のように述べた

Also, he added that has stated his view as following

『私は知覚した「事」を先ず始めに「物」化するということが
思考として最初にあるのではないでしょうか』

“Would be there a way that make a thing to be as a thought

-at the first when I conscious a thing”


思考を外側から見るというのはどういうことか

What does it mean to see a thinking from the outside?

その解釈には

For the interpretation

脳科学、哲学、心理学、認知分野、辞書的な定義など

Brain science, philosophy, Psychology, Cognitive field and a dictionary definition

多岐に渡る捉え方がある

There are variety ways in the range

私はそれらを全部取り上げる忍耐力を持てないため

Since I don’t have the patience to describe all of them

私個人の思考の外側についてのみを述べる

I will describe only my personal view of Lateral thinking


思う、考える、思考 これら3つは

Think, Conceive, Thought, 3 of these are

脳の中で起きる神経伝達物質である

They are neurotransmitters that occur in brain

信号を送るための電波の送受信による結果でもある

They are also results of wavelength for sending and receiving to send signals

ある電波を発信しても

Even if a wavelength is transmitted

それを受け取る受信機が無いと

If there is no receiver to receive it

電波を交信することはできない

It is impossible to receive the telecommunication


よって、思考をある電波であると仮定すると

Therefore, supposition that the thought is the wavelength

自我が一つの思考をその自我に発したら

If an ego gives off a thought to the ego

その自我が送られた思考を受け取る

The ego receives the thought sent by the ego

受け取った電波は発信される限り

If the received wavelength transmitting as long

受信機と繋がった状態になり

It becomes to be connected to the receiver

これらの送受信は電源が切れるまで続く

These sending and receiving continue until the power turns off


私が思う思考の側面とは

What I think about Lateral thought is

その交信の状態を電波技術者の目から見るということだ

It is to see the state of telecommunication from the view of a radio technician

思考を切るといのは

Cut off the thought is

その電源(エネルギー)を切ることになる

Turning off the power(energy)

電源を切ってもまた電源を入れ直すことはできる

It is possible to turn on the power again when it is turned off

そのスイッチの入れ替えが

The switching of ons and offs

坐禅におけるゼロ時点であるのだ

-they are the zero point on zazen


つまり、思考=電波の送受信=交信状態

That is, Thinking = Transmitting = Telecommunicating

なので、切る=遮断=無思考になる

So, Cut = block = None thinking

POさんの見解である思考を物化するというのは

Mr. PO’s view of the solidify of thought is

物化=電波送受信=思考の側面

Solidify=Transmitting=Lateral of thought

3つが等しいともいえる

Can say 3 of them are equivalent


これらから言えるのは

Also, can say from these

思考には側面がありそれらを見るには

There is a side section on thought and to see

自らが思考の中から外側へ出ないと

-it must get out to outside by itself from inside

全体像を掴めないとのことだ

Otherwise, can’t grasp the whole figure  


その外へ出る道が坐禅であるが。

Though…the way to go out is zazen

Comments (33)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Zの次元Z-Dimensionその紐-Th... | TOP | 苦痛の暗号-Code of Pain »
最新の画像もっと見る

33 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
自我に国籍無し (To Zip)
2017-02-01 12:58:31
日本は私の第2の母国です。
国籍の壁を乗り越えようと努めましたが、ここに来てトランプが国境を分離させる壁を作ろうとしていますね。
彼を支持している人がいる選挙結果は未だに信じ難いものです。
生まれが韓国でも私の自我には韓国製とハンコ押されていません。
返信する
Unknown (ZIP)
2017-02-01 10:21:46
失礼しました。
桂蓮さんの自己紹介を見て、てっきり日本の方と思ってしまいました。
返信する
桂蓮 (訂正)
2017-02-01 09:40:22
良好×
旅行〇
追加:点 点 点を繋ぐと立体になりますよね。了解
返信する
Tへ (変性意識?)
2017-02-01 09:37:11
曹洞宗の総持寺は檀家さん良好で一度行ったことあります。永平寺はここに移住する前に行こうと思ってましたが、行けず残念に思っています。
当時は一人住まいだったので、永平寺まで一人旅企画を探すのはかなり大変でしかも費用も高かったです。
行ったことあるお寺の貫主さまが有名な人でしかも私のようにノートに書き込みなさっていたのですね。
そう言えば、譲って下さった恐山師の本の中で南師もノートに書き込んでいたとか。
Tもノートに書き込んでますか?
変性意識は南師の本を読めば出てきますか?
返信する
補足 (To Zip)
2017-02-01 09:25:08
Tの解説に便乗して、
指摘なさったとおり、日本語を無意識に覚えようと努力しました。
留学してから3年経った頃でしょうか、母国語の韓国語を頭の中で通訳する暇が無いとテスト中に思って、その瞬間から言語を分からないまま(そのままの形で)理解しようと思いました。
通訳の経路を無くすやり方です。
辞書も読まなかったです。

体で勝負、その感覚だけの勝負でした。

そうすれば、意識せず無意識の領域に入って言語が定着するとおもいました。
英語もその形を取っています。
Tにはこの説明しなかったから、訂正が入ってしまったのですが、
ZIPさんの無意識から入ったという見解は正に私が試した方法でした。
返信する
Unknown (T)
2017-02-01 06:57:10
今回の議論で浮かび上がって来ることは、

ある問題意識を意識し続けると、一点の周りをグルグル回ることに成って、一点から一本の線しか出て来ないが、

思考を一旦切る、一旦棚上げする、一旦無思になると、
客観的に外の世界から全体像を眺められるようになる、総合的な絵が出現して来る、という事だよね。
返信する
Unknown (T)
2017-02-01 06:47:26
Tの座禅の流儀は「睡眠禅」だから、毎朝「朝の目覚めのご宣託」で昨夜以来の意識的な、或いは無意識的な問題に対する回答(正解的なもの)を得てるよね。
起きている時は雑念の影で姿が見えなかった正解が睡眠でくっきり姿をあらわすという形だよね。

以前書いた事が有るけど、
曹洞宗総持寺元貫主の(85歳近辺のオーラ満載の住職様)板橋師は『息身仏』で坐禅中にいい答えがヒラメいたら密かに書き取ると言ってるし、
恐山殿ブログのコメ者が自分の坐禅体験を披露してたけど、会社内での問題などで悩んでいる時、坐禅する前に、なるべく視野を広げて(=点、点、点をいっぱい脳内に仕込んで)それで坐禅して無思考をやると、はっきりした正解がポッと自動的に浮かび上がって来る(=変性意識??)と言っていたよね。

大体が処、恐山殿の言う「変性意識」の中身は何なのか質問した方がいいかもね・・・
返信する
問題の泥沼 (桂蓮)
2017-02-01 06:10:28
ただ坐れ!と言われたから、問題意識を持っちゃいけない感がありました。
ですが、浮かんだ想いを『追わないで切る』教えに従って、切っていくと、思いに追われないで思考の行方を見ることはできました。

従順しながらも反逆もする、みたいな感じでしょうか。
いずれにしてもその割合が肝要だと思います。
TはこれっといったOutcomeおありでしょうか?
返信する
Unknown (T)
2017-02-01 05:27:00
座禅と問題意識は切っても切れない関係性をもって居ると言えると思う。

たとえば釈迦が何の問題意識も持って居なくて坐禅(瞑想)していたとすれば、悟り・解脱・涅槃の境地に達する事があったかどうかハナハダ疑わしい。

問題意識が坐禅(瞑想)を通して集約した形でハッキリした絵として原因究明・正解が導き出されたとみるべきなのだろうか・・・ならば坐禅とは正解究明の為のテクニックという位置付けとなる訳だ。

問題意識の無い坐禅って、どんなoutcomeが出て来るものだろうか???
単にタガが緩んで、「ああ、いい気持!!」ってうっつらと眠りこけるんじゃあなかろうか・・・
格好の睡眠不足治療法とかにはなるね!!だって脳は何一つ解決しなければならない事なんて無いんだから!!
返信する
Feral Child(母国語での社会性復帰の困難性 (T)
2017-02-01 04:49:02
この議題は「思考の側面」での、
エリックのコメ;1-26, 09:19:45と09:26:28及び、
Tの応答コメ(英文)1-26, 11:04:30, 11:38:22, 14:11:09,
とから構成されてます。ご参照下さい
返信する
睡眠禅 (T)
2017-02-01 04:17:59
今回のコメでの推論は、二つの情報源から出来上がっています。御参照下さい。
①武田鉄矢、今朝の三枚おろし、脳は疲れないーYou Tube 二週間のまとめ
www.youtube.com/watch?v=QTA1_f4IT__Q
又はwww.youtube.com/watch?v=sma0XmKFegl
池谷祐二・糸井重里共著『海馬 脳は疲れない』の武田鉄矢による抄訳・解説・ブックレヴュー・雑感

②なぜ人は眠るのか
http://s-park.wao.ne.jp/archives/597
『睡眠の科学』の著者、金沢大学医学類教授桜井武氏へのインタヴュー記事(睡眠とはの解説)
ーーーーーーーーー

脳科学的人間行動の分類
㋑起きている時・・・脳も身体も起きている
㋺レム睡眠の時・・・脳は起きているが身体は眠っている。
㋩ノンレム睡眠の時・・・脳は寝てるが感覚器官や筋肉とは繋がっている。

夢は通常㋺レム睡眠の時に見る。
ノンレム睡眠の時もたまには夢をみるがレム睡眠の程ではない。感覚器官とは繋がっているので、弱い刺激でも目を醒ます。このノンレム睡眠の時、脳内の配線の整理(=情報の整理、取捨選択が海馬によって)が行われる。(これが睡眠禅という意味だby T!!)。

ノンレム睡眠中に(海馬によって)情報整理がされて、点々点を繋ぎ合わせて、新たな発想(水平飛行)によって新規でベストなアイデア(@現時点で)である「全体的な絵」が自動的に浮かび上がって来る(注;書き留めて置かないとすぐ忘れてしまう)。

夢とはその途中過程でレム睡眠中に情報処理に伴ったノイズであると考えられる。点と点の幾つかをでたらめにつないだ記憶の断片がAt random に現れて来るものだ(従って奇想天外なストーリーとなる)。

座禅に限らず、
例えば小説家がストーリー展開を考えている時のベストの休憩(休息)のタイミングは、思考が纏まって一段落した時ではない。その時に休憩してしまうと、それで思考が完了してしまい、仕事に戻った時に、新しい展開の発想が浮かんでこない。
即ち、休む・休憩・睡眠する・坐禅する時には、或る問題意識を抱えたまま思考中断を図ると、気分転換がされて、頭の水平飛行がされて、想定外の絵(=正解的なもの)が浮かびあがって来るのである。

 付録;夢の原因から考えると他の動物でも夢を見る可能性がある。言語記憶経由では無くて、
不安感記憶からくる手続き記憶(=未来での行動・運動原理)を準備する形で・・・(Tの推測、痙攣研究課題)。
なお、渡り鳥は飛びながら寝るとか、イルカは左脳・右脳(=左半球・右半球)が交互に寝るというのも面白い。

「睡眠=生き抜く為に必要な情報整理」の事である。

おわり(の予定)!!

返信する
ZIPさんの誤解 (T)
2017-02-01 02:27:16
ケイレンさんは韓国生まれで、24歳で日本に留学して、26年間日本に住んで、去年アメリカに移動して来ています。

母国語は韓国語ですから、日本語で夢を見るというのは例外的理由が在るようだという事です。
返信する
Unknown (ZIP)
2017-02-01 01:20:35
母国において日本語を無意識に覚えたからでしょう。
英語、韓国語は意識して覚えたはずです。
心の中では絶えず言語を使って思考して
いるわけですが、言語化自体は無意識に
されているはずです。
返信する
痙攣する (桂蓮)
2017-01-31 17:03:45
Tからの研究話題提供は多彩で、Educated Guessingが非常に魅力的です。
① 『右脳が母国語での映像を拒否している(例トロウマ的経験とかで忌避回路メカニズムが働いている)』はハッとさせられました。
思う節があって、もしかしてあれか?あるいはそれ?など思い出し、寝れなくなったので深夜3時近くなってパソコン前に座っています。
トラウマ的経験はありますが、あまり気にしたことがないので、それも抑圧になってしまたのかしらと思いました。
いくら考えても、不幸な子供時代を送ったくせに、これといった立派なトラウマもないので、困ったもんです。
一応、心理学的坐禅という看板ですからね。
トラウマも持てない人が心理、心理といっても説得力ないかも??
ですが、外国語である日本語の夢をみるのは何らかの意味があるに違いないですね。
研究テーマとしておいしいし。
エリックのロングコメは全部読むのに忍耐力が要るので、暇があったら読んでみますね。
読んでないと彼に言わないでください。
世間渡りとして、彼のコメは読んだことになっていますから。
夢の脳科学的根拠は、今になってジールさんの経験が科学的なケースとして話題になったと納得しました。

返信する
夜見る夢と言語の関係 (T)
2017-01-31 16:20:02
私が書いた睡眠座禅は夜中に見る夢の事ではありません。

A.夢はフロイドとユングは別の解釈をしていますが、
脳科学的に考えると、
多分左脳活動(ロゴス回路)は低減しているものの未だいくらか保持されている状態(脳波のΘ波)での、
「右脳の暴走」と言う形で現れると考えられるフシがあります。
全く辻褄の合わない非論理的な論理が出て来るので、これは左右脳の同時混乱(カオス)という形で現れるようですから(Tの場合)、現象的に言うと坐禅での禅病と類似してるのかなと思います。
脳科学的な実験では、起きていて意識が有る状態(=左脳も目覚めている状態)で、五感からの刺激を完全に遮断すると(=左脳が仕事が回ってこなくて困っている状態)、脳はとてつもない幻覚を勝手に見る事が解っています。
ーーーーーーーー

で、本来なら左脳の言語野は、【自国語(母国語)】については、自国語を意識し始める1~3歳前後(幼児期)で、その言葉(@左脳)の背景(=映像)が右脳に繋がっていて、その言葉(@左脳)が右脳映像としてリンクされている筈と考えられます。

で、夢は右脳映像世界(感情世界)と深い関係が有るので、
夢は通常なら自国語(母国語)で夢を見るのだと思います。私はアメリカでの出来事でも英語で夢を見たことはないのだと思って居ます(多分??あまり覚えてない、ほとんど夢を見ないので・・・)。

なぜなら、私の場合、英語の学び方は活字から入りましたから、完全に左脳優先です。英単語に右脳からの感情が直結していない訳です。
英単語のアップルは英語世界のアップルの映像ではなくて、日本語でのリンゴの映像として迂回して間接的に右脳に繋がっているに過ぎません。

これが夢が右脳世界から出て来る時には、左脳の母国語で夢を見るのであろうという理屈付けです。

では何故ケイレンさんは外国語である日本語で、夢をみるのでしょうか。理由は下記の如くなのかと推測されます。
①.右脳が母国語での映像を拒否している(例トロウマ的経験とかで忌避回路メカニズムが働いている)。
②.日本での経験が、左脳での日本語蓄積と右脳での日本的映像とが1対1に繋がっている。つまり英語でアップルといっても、脳のイメージとしては日本の「リンゴ」という言葉(@左脳)と日本の「リンゴ」の映像(@右脳)が左右脳の中で定着&リンクしている。
③.上記②には完璧では無いかも知れないけど、①の母国語映像(感情)が抑制されてる場合には日本語的夢が優先される。
④.夢が色彩付であるとすると、日本で見たリンゴの色が脳裏(右脳)に強く焼き付いている。

・・・とか何とか無理にこじつけてみました(by Educated guess)。
すべて憶測ですから、この検証は痙攣さんにお願いしたいと思います(=研究話題の提供)。
このブログ上で関連話をエリックとしたことがあります。彼のいうFeral childが何故言語(母国語)を通しての社会復帰が困難なのか、という命題でした。コメ内容は探せば何処かに出て来ます。
返信する
睡眠坐禅(Tへ) (桂蓮)
2017-01-31 09:16:13
Tさんと800年前の道元禅師様は同じKnowhowを発見したことになるとのことでしょう??
そのやり方を教えてください。

私は寝る時は夢をカラーでしかも日本語でみるのですが、3ヶ国語を話す人が日本語で夢を見ると言うのは、なんの理由があるのでしょうか?
返信する
追加 (T)
2017-01-31 07:20:39
と、書いてあらためて気が付いたが、800年前地球上に実存していた道元師が、
座禅の時空は【行住坐臥】だと断言しており、この中で臥(ふ)せるとはすなわち寝る事(睡眠する事)だから、
T風我流「睡眠座禅」も、何のことはない、すでに道元師に言い尽くされてしまっていた訳だ。
よって第41番目の座禅法と自負したのは間違いであった。
誠に申し訳ありませんでした。すいません、道元さま。
返信する
補足(坐禅・瞑想スタイル) (T)
2017-01-31 06:24:54
更には私の生活環境に於いては、10%以下の左脳活動と90%以上の右脳活動で毎日を過ごす事が出来る。唯我独尊・自若泰然が出来る。誠に有難い事だ。

これは日々是好日瞑想法(常日頃坐禅)と名付けられるから第42番目瞑想法発見と行きたい処だが・・・実を言うと、

曹洞宗において、生活全てが坐禅であるという境地(=行住坐臥)がすでに述べられており、
ヴィバッサナー瞑想でも一日の全ての立ち居振る舞いを瞑想で実況放送する、という様式に於いても同じ事を述べていう訳であるから、
T流「常日頃坐禅」の特許を取るのは難しそうだ・・・
返信する
追加 (T)
2017-01-31 03:48:55
「おわり」の前に一言!!

瞑想(坐禅)形式に40以上あるという事は、
Tの我流{坐禅の流儀」(睡眠瞑想)が在っても良いと言う事になりますね。
その40種類の中の一つに既にあるのかも知れないし、無かったのなら、第41番目の瞑想方式とだと言えばいい訳ですから、
と自己弁護するT君でありました。

方法がなんであっても、
結果よければすべてよし!!
返信する
Unknown (T)
2017-01-31 03:25:05
禅宗はインド仏僧の達磨大師を祖としたが、
他分それ以前にも古代インドでは様々な瞑想法(坐禅法)が有った様だ(上座部派のS長老によれば40種類以上ある!!)。

達磨大師の禅宗は中国に伝播して、5家7宗に別れ、唐代、宋代に於いて互いの間での論争があって思考の揺り戻しが絶えず行われていた。

日本の禅宗に在っては、曹洞宗・臨済宗・黄檗(おうばく)宗、普化宗があったようだ(普化宗はあとで消滅?)。

道元は曹洞宗を禅宗と呼ぶのをとても嫌っていたようだ(なぜかはTは知りません)。

臨済宗は看話禅(=公安禅)を尊び、曹洞宗は黙照禅(=黙々と坐禅する)を正当とし初期では激しい相互誹謗を繰り広げた(のちに一応の和解は在ったようだ・・・ちょうど大乗と小乗の当初の主家争いの様に)。

黄檗宗(おうばく宗)は少数派である。レンさん記事「坐禅の科学的な証拠②」で引用している学者「坂田忠良」師は黄檗宗教理を引用している。

黄檗宗と曹洞宗はほぼ似ているが、黄檗宗は実践が絶対的第一の主眼、曹洞宗の道元は理論優先という違いがあった。

インド的瞑想法と関連付けると、
曹洞宗の只管打坐(黙照禅)は止観禅でサマター瞑想に属する。
臨済宗の看話禅はどちらかと言うと、観の瞑想(ヴィパシヤ瞑想)であろうか。

S長老によると、昔のインド瞑想修行者は、
サマター瞑想(止観)を5年以上かけて会得してから、
ヴィパシヤ瞑想(観)に移行する事によって釈迦の悟りに達するとしたようだ。

現代のS長老方式では両方の瞑想法を改良したヴィバッサナー瞑想で一挙に悟りの境地に達せられると言っている。

批判としては、ある原始仏教ブログ主催者批判ではS長老は解脱してないフシがあるとS長老の言葉尻を捉える。
また脳学者の有田博士が『佛教と脳科学』(有田氏とS長老の対談集)で、只管打座とヴィバッサナー瞑想は、有田氏にとっては同じに見える(あまり差は見られない)といっている。
TがS長老著『悟りの瞑想ヴィバッサナーなにがし??』を読んだ時も同様の感じを得た。

日本のウィキペディアで適宜なキーワード(例、禅宗、禅、看話禅、臨済宗、テーラワーダ、~~、~~)を入れて検索すると様々な説明が出て来る)。

おわり

返信する
Unknown (深山元幸)
2017-01-30 22:01:53
大変失礼いたしました。今後ともよろしくお願いいたします。
返信する
よく分かりまし^た^ (のしてんてん)
2017-01-30 09:36:31
確かに、
言葉で伝えるというのは難しいですよ^ね^

私も日々実感しています。

でも、そんな努力が、禅の普及につながって行くのだと私も思います。

私は五次元について、桂蓮さんと同じような考えを持っているのですが、努力目標は共通しているのかもしれません^ね^

返信する
Tへ (桂蓮)
2017-01-30 05:22:28
自我=送信機=受信機=五感
ゼロ時点=第6感

私の記事に対する解説版、本当に意思が疎通した感じになります。

極力説明の形にならないよう書きましたが、私のコアをキャッチしてくださいました。
嬉しくなりました。
返信する
ところさんへ (桂蓮)
2017-01-30 05:17:21
臨済宗の坐禅の取り方を書いてくださってありがとうございます。
私は曹洞宗系の坐禅経験しかないので、比較できる余地がなく困っていたところ、Tによって解説されたので、今の私にとってはT以上の解釈はできないと思います。
もし、更なる討論がご希望でしたらT宛に書いてくだされば、学術視点から交流ができると思います。
臨済宗と曹洞宗の違いを教えて頂きありがとうございました。
返信する
Unknown ()
2017-01-30 02:27:47
レンさん記事を真面目に再読。。。

此処で言う「自我」とは五感の事の様にみえる。
それが「送信機」に該当する。

受信機とは左脳のロゴスの世界、入力された情報を論理的に整理する場所みたいだ。

ゼロの時点に立って外から眺める、一瞬の内に全てを把握する・・・、とは第6感に依る作用、全てを総合した直観(直感)作用を意図している感じだ。
なぜなら直感(第6感)は時間ゼロ時点で起きる脳機能だから・・・。

女性は「女の感」が鋭くて有利だ。明らかに右脳の機能だ。そういう直観的自信が、女には「天から降って来る」からだ。

理屈を捏(こ)ねる左脳でしか物事を判断出来ない男は直感では女の足元にも及ばない・・・・・。
がががが!「直感」は時として過度の思い込みを産む。

座禅で一旦全ての思い込みを消し去る事も重要であるという話につながる。
返信する
Unknown (T)
2017-01-30 01:57:13
今思い付いたけど、
実に様々な坐禅・瞑想形式を
心理学的見地から分析した(科学的・客観的)学術研究書
を著作するというのはやりがいがある研究テーマかもしれませんね。
返信する
Unknown (T)
2017-01-30 01:48:40
確かに「公案禅」は何かに焦点を合わせ易くなるから、心を集中出来るメリットがありますね。
しかし夏目漱石が「門」で書き記しているように、臨済宗の鎌倉円覚寺で一週間の公安禅をしたが、何一つ得るモノが無かったと文句たらたらを書いていますね。

只管打座でも自分の呼吸の音を聞く事に集中するとかになるから結局同じ心理状態を述べているとも言えます(=息とは何かという公案)。

上座部仏教でのヴィバッサナー瞑想でも、いまの自分の動作、思考の一つずつを実況中継する事により雑念を切り捨てるという形で集中を図るという事は、

第三者からみれば皆同じ(或る特殊な)身体操作の心理の現れ方という事に成るのでしょう。
只管打坐式坐禅に詳しい脳科学者の有田さんが
(上座部仏教S長老との対談集で)、自分(=有田さん)にとっては只管打座もヴィバッサナー瞑想も全く同じに見えるといっていますね。
返信する
Unknown (ところ)
2017-01-29 17:35:43
坐禅にも二種あります。曹洞宗、臨済宗です、考案を見つけてただひたすらに考えてみるのが臨済です。要は自分の幸せは多くの存在の縁により成り立ちその事を自覚するする事だと思います。
返信する
Unknown (T)
2017-01-29 10:45:16
ジル・ボルト・テーラーの例は、
The【プロフェッショナル仕事の流儀】!!そのものです。

「ただ坐れ、タダタダ坐れ」は無智な素人体験記!!

レンさんが著したいのは、素人坐禅家をプロフェッショナル坐禅家に押し上げる為の心理学書。
それが無いと「素人ただ坐り坐禅」は「禅病・魔境」にさ迷う。
The【プロフェッショナル坐禅の流儀】指南書は素人の命を救う…科学的に・・・
返信する
のしてんてんさんへ (桂蓮)
2017-01-29 06:53:12
私の一方的な意見に対して
真剣に応えて頂きありがとうございます。

私も禅とは『ただ実在に坐ることだ』だと
教わり、その教えに従って実行しました。
実行しています。
ですが、私がどのように思考を切るかを質問した時もただ座れと言われ続けました。
禅僧ならそれを解明していく時間があるでしょうけど、私は当時仕事に追われて、
ストレスに殺されかけていましたので、
ただ坐るのは効き目無かったです。

今回は一般の方で
ただ坐る時間がなく、
聞ける人もいない状況を想定して
書いたのであります。

坐禅の行い方も置かれた環境によって
受け取り方は異なるでしょう。


返信する
Tへ (桂蓮)
2017-01-29 06:41:18
一つの言葉の表現に対して見る視点(位置)が違うと同じ現象でも違って見えるでしょう。
例えば、縁を横から見ると線になり
上から見ると平面図になるので
私やPOさん、Tそれぞれ見る位置が
異なれば、
認識構造も違っていくと思います。

ジル・ボルト・テーラーの左脳損傷体験談は感銘を受けましたが、
仮に彼女が科学者でなかったら
彼女の体験は
実話の一例になってしまうかも知れません。

彼女の脳幹は普通の人より太く丈夫にできているとは思いましたけど。
返信する
難しいです^ね^ (のしてんてん)
2017-01-28 23:58:33
禅、瞑想というのは、思考とは何かを考えることなのでしょうか。

思考とは何かを考える。

すると次には、それを考えている思考とは何かと考えざるを得なくなる。

するとその次には・・・・・きりがありませんね。

この操作がどれほど重要なのか私には理解できません。

というのも、私には、瞑想とはこの思考の無限循環を断ち切ること。

思考を止めて実在に身をまかせることと思えるからです。

どのようにうまく説明しても、言葉は真実ではなく、真実を指し示す道具ですから、道具は少ない方がいいですし、真実にはいれば一言の道具も邪魔になる。

禅とはことばではなく、知識でもなく、ただ実在に坐ることだと思っておりましたが・・・
返信する
Unknown (T)
2017-01-28 14:39:57
2~3度読みましたがまだ理解し切れていません。さらに考えて見ます。

なぜ理解し切れていないかというと「思考の側面」とか「思考を外側からみる」という言葉のニュアンスをレンさん・POさんとは違って受け取っていたからなのかも知れません。

私の解釈は、思考は言語機能のある左脳でなされているから、その左脳のロゴス機能を抑えて行けば、
必然的に右脳サイドで物事を見る様に成る、これ即ち思考の側面で見るとか思考の外側で見るという言い方でもおかしくないと思った訳です。

臨死体験者談でもジル・ボルト・テーラーの左脳損傷体験談でも彼らの話の中に出て来ることは、
右脳の世界観では、何やら意識が自分の体から遊離して1.5メートル上から自分の体を見下ろしている感覚を持つ(それが右脳の世界観)だというのですから、右脳が外から自分の体、それに固着した左脳、左脳で思考されてる思考をサイド(側面)から、また外からみているという比喩の妥当性が有る・・・と思って居たという事ですね。
左脳と右脳は異次元の世界観を持っている訳ですから、両者はお互いの事を、側面とか外側から見つめ合っているという表現の妥当性が有ると思うという事ですね。
返信する

post a comment

Recent Entries | 坐禅