(原文)
或人の曰、養生の術、隠居せし老人、又年わかくしても世をのがれて、安閑無事なる人は宜しかるべし。士として君父につかへて忠孝をつとめ、武芸をならひて身をはたらかし、農工商の夜昼家業をつとめていとまなく、身閑ならざる者は養生成りがたかるべし。かかる人、もし養生の術をもつぱら行はば、其身やはらかに、其わざゆるやかにして、事の用にたつべからずと云。是養生の術をしらざる人のうたがひ、むべなるかな。養生の術は、安閑無事なるを専とせず。心を静にし、身をうごかすをよしとす。身を安閑にするは、かへつて元気とどこほり、ふさがりて病を生ず。たとへば、流水はくさらず、戸枢はくちざるが如し。是うごく者は長久なり、うごかざる物はかへつて命みじかし。是を以、四民ともに事をよくつとむべし。安逸なるべからず。是すなわち養生の術なり。
或人うたがひて曰。養生をこのむ人は、ひとゑにわが身をおもんじて、命をたもつを専にす。されども君子は義をおもしとす。故に義にあたりては、身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す。もしわが身をひとへにおもんじて、少なる髪膚まで、そこなひやぶらざらんとせば、大節にのぞんで命をおしみ、義をうしなふべしと云。答て曰、およその事、常あり、変あり。常に居ては常を行なひ、変にのぞみては変を行なふ。其時にあたりて義にしたがふべし。無事の時、身をおもんじて命をたもつは、常に居るの道なり。大節にのぞんで、命をすててかへり見ざるは、変におるの義なり。常におるの道と、変に居るの義と、同じからざる事をわきまへば、此うたがひなかるべし。君子の道は時宜にかなひ、事変に随ふをよしとす。たとへば、夏はかたびらを着、冬はかさねぎするが如し。一時をつねとして、一偏にかかはるべからず。殊に常の時、身を養ひて、堅固にたもたずんば、大節にのぞんでつよく、戦ひをはげみて命をすつる事、身よはくしては成がたかるべし。故に常の時よく気を養なはば、変にのぞんで勇あるべし。
(解説)
ここで益軒は、養生することに疑いを持つ人々に反論を行ないます。ある人は、養生は安閑無事なる人には良いが、仕事を持った忙しい人にはできるものではない、と言います。それに対し、益軒は、そもそも養生のためには、安閑無事であってはならず、人がそれぞれの仕事によく務めることこそ養生であると言うのです。
「流水はくさらず、戸枢はくちざるが如し」というのは、『呂氏春秋』の一節、「解説 017」を参照のこと。
またある人は、君子は義を守るために、「身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す」のに、自分一人の命ばかり大切にし、わずかな髪膚が傷つくことを畏れていれば、義をうしなうのではないか、と言います。孟子は、「生も亦我が欲する所なり、義も亦我が欲する所なり。二つの者兼ぬることを得べからざれば、生を舎てて義を取らん」、と言いました。義を捨ててまで、養生するのはおかしいという主張です。
それに対して益軒が持ち出したのが、「常」と「変」でした。「常」とは平常時、普段の平和な日常のことであり、「変」とは変事、戦争や天災、クーデターなど、特別な異常事態が起きた時のことです。『易経』損彖に、「損益盈虚、時と偕に行なう」とあるように、ものごとにはそれを行なうべき時があるのです。養生は、変事ではなく、平常時に行なうべきものであり、もし養生せず健康を害し、あるいは命を失ってしまったのなら、変事に臨んで義のために働くことすら適わないのです。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
或人の曰、養生の術、隠居せし老人、又年わかくしても世をのがれて、安閑無事なる人は宜しかるべし。士として君父につかへて忠孝をつとめ、武芸をならひて身をはたらかし、農工商の夜昼家業をつとめていとまなく、身閑ならざる者は養生成りがたかるべし。かかる人、もし養生の術をもつぱら行はば、其身やはらかに、其わざゆるやかにして、事の用にたつべからずと云。是養生の術をしらざる人のうたがひ、むべなるかな。養生の術は、安閑無事なるを専とせず。心を静にし、身をうごかすをよしとす。身を安閑にするは、かへつて元気とどこほり、ふさがりて病を生ず。たとへば、流水はくさらず、戸枢はくちざるが如し。是うごく者は長久なり、うごかざる物はかへつて命みじかし。是を以、四民ともに事をよくつとむべし。安逸なるべからず。是すなわち養生の術なり。
或人うたがひて曰。養生をこのむ人は、ひとゑにわが身をおもんじて、命をたもつを専にす。されども君子は義をおもしとす。故に義にあたりては、身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す。もしわが身をひとへにおもんじて、少なる髪膚まで、そこなひやぶらざらんとせば、大節にのぞんで命をおしみ、義をうしなふべしと云。答て曰、およその事、常あり、変あり。常に居ては常を行なひ、変にのぞみては変を行なふ。其時にあたりて義にしたがふべし。無事の時、身をおもんじて命をたもつは、常に居るの道なり。大節にのぞんで、命をすててかへり見ざるは、変におるの義なり。常におるの道と、変に居るの義と、同じからざる事をわきまへば、此うたがひなかるべし。君子の道は時宜にかなひ、事変に随ふをよしとす。たとへば、夏はかたびらを着、冬はかさねぎするが如し。一時をつねとして、一偏にかかはるべからず。殊に常の時、身を養ひて、堅固にたもたずんば、大節にのぞんでつよく、戦ひをはげみて命をすつる事、身よはくしては成がたかるべし。故に常の時よく気を養なはば、変にのぞんで勇あるべし。
(解説)
ここで益軒は、養生することに疑いを持つ人々に反論を行ないます。ある人は、養生は安閑無事なる人には良いが、仕事を持った忙しい人にはできるものではない、と言います。それに対し、益軒は、そもそも養生のためには、安閑無事であってはならず、人がそれぞれの仕事によく務めることこそ養生であると言うのです。
「流水はくさらず、戸枢はくちざるが如し」というのは、『呂氏春秋』の一節、「解説 017」を参照のこと。
またある人は、君子は義を守るために、「身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す」のに、自分一人の命ばかり大切にし、わずかな髪膚が傷つくことを畏れていれば、義をうしなうのではないか、と言います。孟子は、「生も亦我が欲する所なり、義も亦我が欲する所なり。二つの者兼ぬることを得べからざれば、生を舎てて義を取らん」、と言いました。義を捨ててまで、養生するのはおかしいという主張です。
それに対して益軒が持ち出したのが、「常」と「変」でした。「常」とは平常時、普段の平和な日常のことであり、「変」とは変事、戦争や天災、クーデターなど、特別な異常事態が起きた時のことです。『易経』損彖に、「損益盈虚、時と偕に行なう」とあるように、ものごとにはそれを行なうべき時があるのです。養生は、変事ではなく、平常時に行なうべきものであり、もし養生せず健康を害し、あるいは命を失ってしまったのなら、変事に臨んで義のために働くことすら適わないのです。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
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