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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 052 (修正版)

2016-02-20 22:56:56 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

呼吸は人の鼻よりつねに出入る息也。呼は出る息也。内気をはく也。吸は入る息なり。外気をすふ也。呼吸は人の生気也。呼吸なければ死す。人の腹の気は天地の気と同くして、内外相通ず。人の天地の気の中にあるは、魚の水中にあるが如し。魚の腹中の水も外の水と出入して、同じ。人の腹中にある気も天地の気と同じ。されども腹中の気は臓腑にありて、ふるくけがる。天地の気は新くして清し。時々鼻より外気を多く吸入べし。吸入ところの気、腹中に多くたまりたるとき、口中より少づつしづかに吐き出すべし。あらく早くはき出すべからず。是ふるくけがれたる気をはき出して、新しき清き気を吸入る也。新とふるきと、かゆる也。是を行なふ時、身を正しく仰ぎ、足をのべふし、目をふさぎ、手をにぎりかため、両足の間、去事五寸、両ひぢと体との間も、相去事おのおの五寸なるべし。一日一夜の間、一両度行ふべし。久してしるしを見るべし。気を安和にして行ふべし。

千金方に、常に鼻より清気を引入れ、口より濁気を吐出す。入る事多く出す事すくなくす。出す時は口をほそくひらきて少吐べし。

常の呼吸のいきは、ゆるやかにして、深く丹田に入べし。急なるべからず。

調息の法、呼吸をとゝのへ、しづかにすれば、息やうやく微也。弥久しければ、後は鼻中に全く気息なきが如し。只臍の上より微息往来する事をおぼゆ。かくの如くすれば神気定まる。是気を養ふ術なり。呼吸は一身の気の出入する道路也。あらくすべからず。

(解説)

 『荘子』刻意篇にこう記されています。

吹呴呼吸し、故を吐き新しきを納る。熊経鳥申、寿の為にするのみ。此れ導引の士、形を養うの人、彭祖寿考の者の好む所なり。

 息を吐いたり吸ったりする呼吸、熊や鳥まねの体操は長寿を願う人々、仙人に近づこうとする人々が行っていたことでした。例えば、秦を滅ぼし漢帝国を築いた劉邦の軍師、張良(子房)も導引術を行っていたことが知られています。張良は、「今、三寸の舌を以て帝なる者の師と為り、万戸に封ぜられ、列侯に位す。此は良足に於いて布衣の極。願くは人間の事を棄て、赤松子に従い游せんと欲するのみ」と言い、政治の世界から離れようとして赤松子という伝説の仙人にならい「辟穀(断食)、道引、軽身を学び」ました。(『史記』)留候世家)

 こんな例は他にもいろいろ有りますが、それはさておき、『荘子』にはこの続きがあります。

導引せずして寿く、忘れざる無きなり。有せざる無きなり。澹然無極にして衆美之れに従う。此れ天地の道、聖人の徳なり。 故に曰わく、夫れ恬淡寂莫、虚無無為、此れ天地の平にして道徳の質なり。 故に曰わく、聖人は休す。休すれば則ち平易なり。平易なれば則ち恬淡なり。平易恬淡なれば則ち憂患入る能わず。邪気襲う能わず。故に其の徳全うして神虧けず。

 と「導引せずして寿く」というような「恬淡寂莫、虚無無為」の境地、そして「憂患入る能わず。邪気襲う能わず・・・徳全うして神虧けず」という心身が平安である長寿を目的とすることなく、ただそれが結果としてあるという状態を理想とする思想もあったのです。ちょっと先の方まで進んでしまいましたが、古今東西、呼吸にはただ空気(酸素)を取り入れるという以外の特別な働きがあると信じられてきました。

 例えば、ラテン語のアニマ(anima)とか、ギリシャ語のプシュケー(psyche)、プネウマ(pneuma)などはもともと呼吸や気息の意味でしたが、だんだんと生命であるとか、魂や霊魂、心や精神といった意味を持つようになったのです。

 ホメロスの時代には、プシュケーなどは死者の口から抜け出て、生前の姿をして冥府へ行くと言われていたので、ちょうど気息と霊魂の二つの意味を重ね持っていたようですね。

 プラトンやソクラテスはそれに人間を人間たらしめる人格の座としての意味を持たせました。プラトンはイデア論を展開しましたが、ここに精神が肉体から分離しつつあった思想の流れを見ることができます。

 そしてキリストの生存していた頃にアニマという言葉が『マタイ福音書』8章35.36.37節に使われていますが、これは人間としての人間らしい生命という意味でしょうね。なぜなら自分の十字架を背負えるものがそのアニマを救うことができたからです。

 サンスクリット語にはプラーナ(purana)という言葉があり、これももともと呼吸や気息という意味を持っていました。この言葉も生命のような意味を持つようになりましたが、インドではもう少し歴史を遡ることができます。プラーナというのはヴァーユ(vayu)やヴァータ(vata)と呼ばれる、風や風神、運動の一種(ヴァータはより自然現象に近い意味を持つ)と捉えられていて、アーユルヴェーダでもプラーナ・ヴァーユという空気や食べ物の摂取をつかさどる原動力のようなものとしての言葉が残されています。またプラーナーヤーマ(pranayama)という呼吸法のような言葉もあります。このヴァータは紀元前1200年前後に作られたとされる『リグ・ヴェーダ賛歌』に歌われています。

ヴァータは医薬を吹きもたらせ、われらが心に幸福を与え、爽快を与うるところの。彼がわれらの寿命を延ばさんことを。

ヴァータよ、汝はわれらの父なり、また兄弟なり、また友人なり。かかる汝はわれらが生存しうるごとくなせ。

ヴァータよ、そこなる汝の家に、不死の宝庫として置かれたるもの、そこよりわれらに与えよ、生きんがために。

 (辻直四郎訳)

 というようにプラーナより上のヴァータに対して、生命を与える存在、病を治癒する存在としての親密な感情が見られますね。ちなみにこのヴァータは五大の空と風を構成元素とします。時代は下りますが中国にも似たようなものがありました。天地の間に満ちた気(浩然の気)、それが人間の心身に大きく影響をあたえるのです。『孟子』公孫丑章句上にはこう記されています。

夫れ志は気を帥いるものなり。気は体を充ぶるものなり。夫れ志至れば、気はこれに次ぐ。故に曰く、其の志を持りて、其の気を暴なうこと無かれと。・・・。志壱らなれば則ち気を動かし、気壱らなれば則ち志を動かせばなり。今夫れ趨りて蹶く者は、是れ気なり。而れども反って其の心を動かす。

 そして孟子は言ったのです。「その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害なうことなければ、則ち天地の間に塞つ」と。そして『荘子』大宗師篇は少し具体的な呼吸法にふれています。

古の真人は、其の寝ぬるや夢みず、其の覚むるや憂いなし。其の食らうや甘しとせず、其の息は深々たり。真人の息は踝を以てし、衆人の息は喉を以てす。

 このように荘子の言う真人の呼吸法とは自然で深い身体全体を使って行うものでした。

 と言うことで、ここで益軒が述べている呼吸法。それは昔の養生方にあるものですが、いま述べてきたことを知っていれば、それらはその技術的な表現がより細かくなっただけということに気付くかもしれません。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


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