(原文)
いにしへの人、三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。飲食を節にし、色慾をつつしみ、睡をすくなくするは、皆慾をこらゆるなり。飲食色欲をつつしむ事は人しれり。只睡の慾をこらえて、いぬる事をすくなくするが養生の道なる事は人しらず。ねぶりをすくなくすれば、無病になるは、元気めぐりやすきが故也。ねぶり多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし、昼いぬるは尤、害あり。宵にはやくいぬれば、食気とゞこほりて害あり。ことに朝夕飲食のいまだ消化せず、其気いまだめぐらざるに、早くいぬれば、飲食とどこほりて、元気をそこなふ。古人、睡慾を以、飲食色慾にならべて三慾とする事、むべなるかな。おこたりて、ねぶりを好めば、くせになりて、睡多くして、こらえがたし。ねぶりこらえがたき事も、又、飲食色慾と同じ。初は、つよくこらえざれば、ふせぎがたし。つとめてねぶりをすくなくし、ならひてなれぬれば、おのづから、ねぶりすくなし。ならひて睡をすくなくすべし。
(解説)
益軒は、「睡をすくなくする」ことが養生の一つであると何度も唱えます。とりわけ、「昼いぬるは尤、害あり」と、昼寝に対して厳しい評価を与えています。世界の他の国では、シエスタのように昼寝が社会的に認められ、健康維持にも役に立つことが知られているのですが、どうしてなのでしょう。それには儒学的価値観が関係しているようです。『論語』に、こんな話があります。
孔子の弟子に弁説に巧みな宰予(宰我)という者がいました。ある時、宰予は孔子に尋ねました。「仁者は之に告げて、井に仁ありと曰うと雖ども、其れ之に従わんや」と(『論語』雍也)。仁者は仁を追い求める者ですが、もし井戸の中に仁があると言われれば、井戸に飛び込みますか、と質問したのです。それに対して、孔子はこう答えました。「何すれぞ其れ然らん。君子は逝かしむべきも、陥るべからざるなり。欺くべきも、罔うべからざるなり」、と。君子はそんなことをする訳がない。信義を大切にするので、人の言葉に耳を傾けて、それを信じ、行動に移すのが君子である。しかし道理に反することはなく、騙すことはできても、思考停止させることはできないのだ、と。
ある日、その宰予が昼寝をしました(『論語』公冶長)。それを見た孔子がこう言いました。「朽木は雕るべからず、糞土の牆は杇るべからず」と。朽ち果てて腐った木材に彫刻することはできないし、糞の土で垣根を上塗りして補強することはできない。孔子は、その材料を非難することはできないという理由で、宰予を叱りませんでした。このように儒教の世界では、昼寝をしただけで「朽木」や「糞土」に譬えられてしまいます。ちなみにこの経験以降、孔子は、人を言葉だけで信じることはなく、その行動も見てから信じるようになりました。
『詩経』にはこうあります。「昼をして夜と作さしむ。既に爾の止を愆る」と、周の霊王の悪政を非難して歌った詩です。天下万民のために自らを律し、国々の政治に携わる君主たちに儒学の教えを広め実践させようとする儒者は昼間から寝ている場合ではないのです。
また「古人、睡慾を以、飲食色慾にならべて三慾とする」と、今でも生物学的にも妥当な記載がありますが、これは儒学ではなく、仏教由来のようですね。『翻譯名義集三』世界第二十七にある三つの欲であり、人の生存に必要不可欠な要素です。しかし過ぎたるは何とやら、お腹も七分目、ひかえめが好ましいのであり、では睡眠時間はどのくらいが良いのでしょうか。それはまた後に出てきます。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
いにしへの人、三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。飲食を節にし、色慾をつつしみ、睡をすくなくするは、皆慾をこらゆるなり。飲食色欲をつつしむ事は人しれり。只睡の慾をこらえて、いぬる事をすくなくするが養生の道なる事は人しらず。ねぶりをすくなくすれば、無病になるは、元気めぐりやすきが故也。ねぶり多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし、昼いぬるは尤、害あり。宵にはやくいぬれば、食気とゞこほりて害あり。ことに朝夕飲食のいまだ消化せず、其気いまだめぐらざるに、早くいぬれば、飲食とどこほりて、元気をそこなふ。古人、睡慾を以、飲食色慾にならべて三慾とする事、むべなるかな。おこたりて、ねぶりを好めば、くせになりて、睡多くして、こらえがたし。ねぶりこらえがたき事も、又、飲食色慾と同じ。初は、つよくこらえざれば、ふせぎがたし。つとめてねぶりをすくなくし、ならひてなれぬれば、おのづから、ねぶりすくなし。ならひて睡をすくなくすべし。
(解説)
益軒は、「睡をすくなくする」ことが養生の一つであると何度も唱えます。とりわけ、「昼いぬるは尤、害あり」と、昼寝に対して厳しい評価を与えています。世界の他の国では、シエスタのように昼寝が社会的に認められ、健康維持にも役に立つことが知られているのですが、どうしてなのでしょう。それには儒学的価値観が関係しているようです。『論語』に、こんな話があります。
孔子の弟子に弁説に巧みな宰予(宰我)という者がいました。ある時、宰予は孔子に尋ねました。「仁者は之に告げて、井に仁ありと曰うと雖ども、其れ之に従わんや」と(『論語』雍也)。仁者は仁を追い求める者ですが、もし井戸の中に仁があると言われれば、井戸に飛び込みますか、と質問したのです。それに対して、孔子はこう答えました。「何すれぞ其れ然らん。君子は逝かしむべきも、陥るべからざるなり。欺くべきも、罔うべからざるなり」、と。君子はそんなことをする訳がない。信義を大切にするので、人の言葉に耳を傾けて、それを信じ、行動に移すのが君子である。しかし道理に反することはなく、騙すことはできても、思考停止させることはできないのだ、と。
ある日、その宰予が昼寝をしました(『論語』公冶長)。それを見た孔子がこう言いました。「朽木は雕るべからず、糞土の牆は杇るべからず」と。朽ち果てて腐った木材に彫刻することはできないし、糞の土で垣根を上塗りして補強することはできない。孔子は、その材料を非難することはできないという理由で、宰予を叱りませんでした。このように儒教の世界では、昼寝をしただけで「朽木」や「糞土」に譬えられてしまいます。ちなみにこの経験以降、孔子は、人を言葉だけで信じることはなく、その行動も見てから信じるようになりました。
『詩経』にはこうあります。「昼をして夜と作さしむ。既に爾の止を愆る」と、周の霊王の悪政を非難して歌った詩です。天下万民のために自らを律し、国々の政治に携わる君主たちに儒学の教えを広め実践させようとする儒者は昼間から寝ている場合ではないのです。
また「古人、睡慾を以、飲食色慾にならべて三慾とする」と、今でも生物学的にも妥当な記載がありますが、これは儒学ではなく、仏教由来のようですね。『翻譯名義集三』世界第二十七にある三つの欲であり、人の生存に必要不可欠な要素です。しかし過ぎたるは何とやら、お腹も七分目、ひかえめが好ましいのであり、では睡眠時間はどのくらいが良いのでしょうか。それはまた後に出てきます。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
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