鎌倉末期の歌人、卜部兼好(吉田兼好)は後二条天皇に左兵衛佐として仕えていましたが、天皇崩御の後、出家し遁世しました。兼好は歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一人とされました。
兼好は晩年、自らの墓を京の西方にある仁和寺のほとり雙の岡に定め、歌を詠んでいます。
雙の岡に無常所まうけてかたはしに桜を植ゑさすとて
契りをく花と雙びの岡のへに あはれ幾世の春をすぐさむ
『兼好法師集』
本居宣長もこれに倣いました。自ら松坂の西方にある山室山に墓をこしらえ、そこへ山桜を植えるように計画し、歌を詠んだのです。
山室の山の上に墓ところをさためてかねてしるしをたておくとて
山むろにちとせの春の宿しめて 風にしられぬ花をこそ見め
今よりははかなき身とはなげかじよ 千代のすみかをもとめえつれば *1
宣長懐紙 一幅、寛政十二年(1800年)九月十七日、山室山妙楽寺
兼好と宣長、彼らの歌の文句は異なりますが、その句の底にある意識、そこはまったく同じです。彼らは死を恐怖や不安なく受け入れ、自らの死後も、時は無常に移り過ぎゆくことを悟っています。春や桜の花は生の象徴であり、彼らは死の中にも生を見ているのです。
山室山の宣長の墓:横にあるのが山桜
宣長の遺言書、寛政十二年七月執筆
このような意識は彼らだけのものではありません。例えば日本の医学流派「多賀法印流」の医書には「生死に始め無く終わり無し」とあります。*2 もしかしたら日本人の心の奥底にはある種の共在意識のようなものが脈々と流れ続けているのかもしれません。
さて、兼好法師は『徒然草』の作者としても知られています。この有名な随筆には医療に関するものが結構でてきます。なぜなら彼は人の身に必須なものとして、「食う物」、「着る物」、「居る所」と並び、「医療を忘るべからず」と言い、「薬」を挙げているからです。 *3
先日、当ブログでお灸について述べましたが(「024-お灸・漢意・もののあはれ-本居宣長と江戸時代の医学」)、『徒然草』では「灸」という言葉は2回使われてます。「薬」は8回。「医」は11回。「病」は25回です。
そして「死」は38回でてきますが、「生」は61回、約二倍です。これから、つれづれなるままに徒然草の中の医療の世界を見て行きましょう。
つづく
(ムガク)
*1:『鈴屋集』八之巻
*2:『印流医術書類』「本無生死論」
*3:『徒然草』「百二十三段」
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