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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 037 (修正版)

2015-09-10 18:54:45 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

胃の気とは元気の別名なり。冲和の気也。病甚しくしても、胃の気ある人は生く。胃の気なきは死す。胃の気の脉とは、長からず、短からず、遅ならず、数ならず、大ならず、小ならず、年に応ずる事、中和にしてうるはし。此脉、名づけて言がたし。ひとり、心に得べし。元気衰へざる無病の人の脉かくの如し。是古人の説なり。養生の人、つねに此脉あらんことをねがふべし。養生なく気へりたる人は、わかくしても此脉ともし。是病人なり。病脉のみ有て、胃の気の脉なき人は死す。又、目に精神ある人は寿し。精神なき人は夭し。病人をみるにも此術を用ゆべし。

(解説)

 「胃の気」とは五臓六腑の胃という内臓の働きや力という意味と、人を生命たらしめる全体的な原動力という意味があります。「胃の気」の別名に「元気」とも「冲和の気」ともありますが、「元気」については「貝原益軒の養生訓―総論上―解説」で已に説明しました。「冲和の気」とは何でしょう。それは宇宙の創生を説明する概念の一つであり、『列子』に登場する言葉です。少し見てみましょう。

子列子曰く、昔聖人は陰陽に因りて以って天地を統ぶ。それ有形なるものは無形より生ぜば、則ち天地は安くよりか生ぜる。

故に曰く、太易あり、太初あり、太始あり、太素あり。太易は未だ気を現さざるなり。太初は気の始めなり、太始は形の始めなり、太素は質の始めなり。気、形、質、具わりて未だ相離れず、故に渾淪と曰う。渾淪とは萬物の相渾淪して未だ相離れざるを言うなり。之を視れども見えず、之を聴けども聞えず、之を循むれども得ず。故に易と曰うなり。易は形も埒もなし。

易変じて一となり、一変じて七となり、七変じて九となる。九は気を変ずるの究なり。乃ち復変じて一となる。一は形変ずるの始めなり。清みて軽きものは上りて天となり、濁りて重きものは下りて地となり、冲和の気は人となる。故に天地は精を含みて、萬物を化生す。

 とあるように、天を形成する「清みて軽きもの」と地を形成する「濁りて重きもの」が調和した気が「冲和の気」なのであり、それを『老子』四十二章では簡潔に、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず。萬物は陰を負いて陽を抱きて、沖気は以て和を為す」と言うのです。

 これが後者の広い意味での「胃の気」です。前者の「胃の気」というのは医学書を紐解くと明らかになります。まず『素問』平人気象論を見てみましょう。

平人の常気は胃に稟く。胃は平人の常気なり。人の胃気無きを逆と曰う。逆なるは死す。

人は水穀を以て本と為す。故に人は水穀を絶てば則ち死す。脉に胃気無きも亦た死す。所謂胃気無きは、但だ真臓の脉を得て、胃気を得ざるなり。

また『素問』玉機真蔵論には、

五臓は皆な胃に気を稟く。胃は五臓の本なり。臓気は、自ら手の太陰に致すことあたわず。必ず胃気に因りて、乃ち手の太陰に至るなり。

 とあり、人体の内臓と飲食物(水穀)が関っています。飲食物はもちろん太陽の光や雨、さまざまな天候、気候の恵みを受け、大地から誕生し育まれたものです。それを食し、消化し、人は活動するのですが、その原動力を内臓の胃と結びつけ、「胃の気」と呼びました。他の肝心脾肺腎も、それなしには働くことができず、その臓気も人体のすみずみまで(経絡を使い)行き渡ることができないのです。ただし、これら二つの「胃の気」は厳密に区別できるようなものではなく、意味の領域はとてもあいまいなものです。

 「胃の気の脉」とは何でしょう。最近では脈診はあまり行われていませんが、貝原益軒が生きていた当時は、医学を学んだまともな医師であればだれでも脈診を行っていました。脈診とは、いろいろ種類がありますが、当時主流であったのは手首にある橈骨動脈(寸口)の拍動を触診し病気や死活の診断を行うというものでした。脈を見れば、単純に言っても、その人の心臓の拍動の状態、血管の状態、血液の流れや量の状態など、ひいてはそれをつかさどる自律神経の働きの状態(それだけではありませんが)が推察できるのです。脈診はたいてい病人を診察する時に用いる診断法なので、脈の異常に注目するのですが、「胃の気」がある人は健康であるので脈も正常であり、「長からず、短からず、遅ならず、数ならず、大ならず、小ならず、年に応ずる事、中和にしてうるはし」という中庸の脈になると益軒は言うのです。

 とは言っても、「病脉のみ有て、胃の気の脉なき人は死す」とあるように、「病脉」と「胃の気の脉」は並在することがあり、「胃の気の脉」は上記のような単純な言葉で表現できるようなものではありません。それ故、益軒はまた「此脉、名づけて言がたし。ひとり、心に得べし」とも言いました。これはイマージュの一つであり、直観により認識するものの一つなのでしょう。

「目に精神ある人」の精神は目に見えない心の精神ではありませんね。今風に言えば、目に光がある人であり、生きる力が目に現われている人のことです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


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