こだわりメモ帳

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・ カーブボール

2008年08月03日 | ◆ こんな本

子梟

 立花隆の新刊書評は変化球も混じりいつもおもしろい。
開戦の大儀はテロ撲滅。アメリカは勇んでイラク戦争をはじめた。
根拠となった大量破壊兵器の製造保有がニセ情報であったことは知られているが、
カーブボールとは、情報発信者本人の諜報上の仮名である。
このレポート、『カーブボール』 は情報活動を取材した実話でこの間の動きを活写している。
読んでいて嫌になるほどの徹底取材で、これが事実なのだから驚く。
正直なところ、翻訳本はカタカナが多く言いまわしが不自然で好きになれない。
それにしても、この間違いはアメリカだからなのか、何処にでも有り得るのか。
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・ 暑いときの本読み

2008年07月24日 | ◆ こんな本

民俗学博物館 黒檀梟 retouch

 毎年、今年は暑いといいながら、夏をすごす。
出たい所もあるけれど、風通しをよくしてジッとしてるのがいい。
本読みしながら、時々昼寝が一番いい。
神仏習合の興味も一段落し、「空海の風景」を読みに入っていた。
古代神祇の力がうすれ、仏教が大きくなってくるのが空海を含む時代であるが、
司馬さんは、この小説に『神--仏』のことは入れていない。
面白かったのは、勉学修業の時代を経て自費(支援金)留学生で遣唐使に加わり、
密教皆伝を受けるまでで、後編後半の最澄とのかかわりに入ってからはそれ程でもなかった。
一行づつきちんと読まないと前にいけないこの本は他とは違う難物であった。
以下抜書き


■ ここで、余談として触れねばならない。 (例の余談ながら・・・である)
日本の律令制度は唐のまねであったとはいえ、重大な一点で唐の政治体制と異なっていたのは、
唐には日本のような太政官がないことであった。太政官は行政の最高機関であり、
八っつの省と諸寮司を統(す)べている。・・・・・
唐では、そうではなかった。太政官にあたる機能は専制者である皇帝自身であった。・・・・・
日本では・・・・・多分に君臨者であって実際的な政治上の決定と指揮は太政官が行っていた。

■ ---なんだ、あの男は。
と、空海は、自分の思想からみて、鬱懐(うつかい)がつのったはずである。
経を読んで知識として教義を知ることは真言密教では第二のことであった。真言密教は宇宙の気息の中に
自分を同一化する法である以上、まず宇宙の気息そのものの中にいる師につかねばならない。
師のもとで一定の修行法則をあたえられ、それに心身を没入することによってのみなま身の自分を
仏という宇宙に近づけうるのである。・・・・・それを最澄は筆授で得ようとするのか、と空海は思いつづけている。

(このあと、借経と筆写ばかりの最澄に、はじめはすべてを譲る決意でいた空海は変化していく。)
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・ 小栗往還記

2008年02月19日 | ◆ こんな本
深泥池 2005.10.1 一日めぐりより


 洛北・深泥池との縁は、一年半前になるいつもの一日めぐりの歩きであった。
何故か惹かれる小栗判官の話は、この池が大きく絡むが、
ミドロガイケとばかり思っていたこの池の名前が、正しくはミゾロガイケとこの時に知る。
ジュンサイがよく取れますよと池の前の家の人が言っていたが、
明るい感じの大きい池で、とても大蛇がいそうな不気味な空気はなかった。
立松和平「伊勢発見」の中で『小栗判官』を初めて読み日本の風景を感じたが、
このたびまた出合わす縁を得た。それはこのことで、
『小栗往還記』松本徹著は、新刊でありながら全文が歴史的仮名遣ひ且つ総ルビ付きと
現代の枠を超え、現実離れした中世の物語をよく表しているように思う。
歌舞伎能狂言、浄瑠璃ではどのように描かれているのだろうか。


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・ 忘れられた日本人

2008年02月15日 | ◆ こんな本

硝子梟 retouch 7

 古老が語る人々の生活はなんと痛快であることか。
著者宮元常一(M40,1907-1981)が、各地を聞き歩き明治半ば以降の
民間伝承を残したもので、昭和35年の初出を経て昭和59年に文庫出版されている。
100年くらい前の我国の普通の人の生活が垣間見ることができ、
「女の世間」や「土佐源氏」ででてくる女の強さ、男のたくましさや、
田んぼ仕事、漁師の生活、中でも、女の生活力の旺盛さに圧倒される。
活き活きと浮かんでくる庶民の生活は、今では想像もつかない。
おおらかで真面目な生き様に日本人の生活力を教えられる。
M41年生まれの我が親父に、誠に残念ながら昔話が聞けなかった。
18の年に親から離れ、盆暮れの里帰りで暇ぁーな時に聞いておけばよかった。
聞けてないのが情けない。
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・ 北のまほろば

2008年01月23日 | ◆ こんな本

庭から見る司馬さんの書斎


 今年は「北のまほろば」の地を訪ねる予定である。
年にいちど遠出をする古代史散策の仲間は、まだ行かぬこの地を考えている。
それもあり、勉強のためしばらくぶりで「街道をゆく」をよむ。
「北のまほろば」は、司馬さん亡くなる2年前の作品であるが、
連載した週刊誌は、一年間さぞよく売れたことであろう。それほど面白かった。
余談である。中高生のころであったか、
同じように連載の吉川英治「新平家物語」を毎号の週刊誌から切り離している父親を覚えている。
覚えているのは、その小説頁だけ紙質がよかったせいかも知れない。
古代史で訪ねるとき、三内丸山遺跡中心であろうが、街道もここに頁数をたくさん割いていて、
この一大集落から土器だけでもダンボール箱数万個出現、薬師寺三重塔に匹敵する望楼柱跡が出た。
縄文文化(4500年前)では、近畿に対して優位に立っていた、という。
津軽と南部のこと、太宰治や棟方志功、会津藩の下北移住などがことのほか読ませる。
旅行が待ち遠しくなってきた。
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・ 続 伊勢発見

2008年01月01日 | ◆ こんな本

2008.01.01 07:52   初日の出・東大阪


あけましておめでとうございます
この一年いい年であるようにとねがい
また今年いちねん元気で過ごせるようにと祈る



伝説   『小栗判官』---冥界とこの世を往来する話・・・・・立松和平著 「伊勢発見」 ヨリ

 熊野古道に伝わる伝説のことを考えると、まず思い浮かぶのが説経節の「小栗判官」である。
冥界とこの世を往来する小栗判官の物語は、中世の人の精神性をよく映しだしているといえる。
あの世とこの世とが混然としていながら、そこに人間らしいヒューマニズムの太い線がつらぬかれている。
浄瑠璃や歌舞伎にもなって、『小栗判官』のあら筋は次のようだ。

 三条高倉大納言兼家殿の嫡子の小栗判官正清は、鞍馬山に詣でた折に深泥池の大蛇に見初められ契りを結ぶ。異類婚をなし、人間と異類との両義な存在となった。そのため都に禍を起こすとみなされ、常陸へと流される。そこで、薬売りより武蔵相模の郡代横山の娘照手姫の美しさを聞き心動かされる。やがて照手姫を訪ねた小栗判官は姫と契るが、怒った郡代は小栗を毒殺、土葬にし姫は相模川に沈められる所を危うく逃れる。流転の果ての姫は美濃で遊女を強要されるが夫に貞節をつくし耐える。一方、毒殺された地獄の小栗判官は閻魔大王に引き出され、「がきやみ」つまりハンセン病者としてこの世に蘇生させられる。その後、その身を踊り念仏の時宗四代の藤沢の上人・呑海にまかせられる。藤沢の上人は、餓鬼阿弥陀仏となり自分で歩けない小栗を土車に乗せる。そして小栗は道ゆく熊野詣の善意に支えられ熊野古道の巡礼となる。当時、らい病者は家族に迷惑がかかるため、自身の差別に耐えながら巡礼に出ることが多かったが、帰らぬ旅に出た彼らを熊野は受けとめた。土車に乗せられた小栗判官は、東海道を人の手により少しずつ引かれ常陸小萩と名を変えた照手姫のいる美濃の青墓に着く。餓鬼阿弥車を見た照手姫は、何も知らぬまま死んだ夫の供養にと土車を大津まで引く。このようにしながら、とうとう湯の峰の湯壷に入った小栗判官の前に熊野権現が現れ介抱してくれる。湯につかって17日、耳が聞こえ目が見えるようになる。37日でもとの小栗判官に戻ることができ父兼家のもとにもどる。そして美濃の青墓の妻照手姫を救い出す。

このドラマティックな物語で熊野は救いの地として登場し、人々はまた熊野への巡礼に誘われる。

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・ 伊勢発見

2007年12月22日 | ◆ こんな本

硝子梟 retouch 6

 古里の伊勢には兄夫婦が暮らしている。
冬至の今日、内宮宇治橋の大鳥居に朝日が昇るが、生憎の雨で望めなかったろう。
大晦日の大篝火・おおかがりび を焚く年越し参りが懐かしい。
新刊 立松和平著 「伊勢発見」が面白い。
お正月のお参りの繰り出しは、今もすごい人出であるが、
過去最盛期の江戸時代には、当時の5人に1人、450万人がおかげ参りをしたそうである。
残されている会津の「道中日記」によれば、これがすごい旅行で、会津を出た9人組は、
まず日光参詣~江戸で歌舞伎見物~浅草観音~泉岳寺他~鎌倉で寺参り~
箱根~大井川渡し~熱田神宮参拝~お伊勢参拝~紀州路~熊野三山詣で~
高野山~大坂道頓堀芝居小屋見物~明日香めぐり~宇治~京都めぐり~丹波~姫路城~
丸亀~金毘羅参り~福知山~天橋立~琵琶湖~竹生島~関ヶ原古戦場~信州路~
善光寺参り~日本海を北上~新発田~飯豊川渓谷~赤谷~会津領帰着と大回遊。
正月5日に出て3月11日に帰っている。この間95日の大々旅行。
宿が整備され、荷物も先送り、送り返しができ今の宅配便があった。
路銀合計がでていないが、いったいいくらの旅行になったことか。
古事記、日本書紀、西行のはなしが面白い。
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・ 人間通

2007年10月18日 | ◆ こんな本


他人・ひとの気持ちを的確に理解できる人を人間通という・・・・・谷沢永一

ひとは何を欲しているか、それは世に理解されることであり認められることである。

ひとくちに物を考えるとはいっても・・・(小略)・・・思案するのに唯一の媒体である語彙を豊かにするしかない。

ある種の作家を感受性が鋭いと讃えるが、要は今までの表現様式にない新鮮な語法を提示したという意味。

リーダーは特技の人の必要はなく器量も凡人でよい、世に尽くす誠意と熱情があれば十分である。

我が国びとが、猛然と腹を立てる情景はなにか。それを私はまだ聞いていない、と怒り出す場面である。

人間の値打ちを定める決め手は評判である。人間の歴史は評判の積み重ねである。・・・・・谷沢永一・人間通より

pensionate・年金生活者となってからは、ハウツウ本、人生本等を読まなくなったが、
推薦本として新聞読書欄に出ていたこの分野の本を久しぶりに読み感心した。
1本は、せいぜい原稿用紙一枚半の人生本に読みふける。

2007-10-09 08:06:48 記事を書換え再掲
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・ この夏エアコンの下で

2007年09月07日 | ◆ こんな本

長浜黒壁スクエア梟


 暑くて出番の多かったエアコンの下で読んだ一冊の本は、司馬遼太郎「空海の風景」上・下
司馬記念館の書籍コーナーでこれを求め、ゆっくり読めるときが来るまで飾ってあった。
この間ずいぶん空いているのはさて置き、閑話休題
記念館で関連の企画展が行われ、その時気づいたタイトルのことである。
初出は中央公論73/1月号で、タイトルは 『空海』の風景 であった。単行本は 空海の風景 である。
何故かタイトルの表し方が変わっていて、このことについて今までどこかで話題になったのか、何も知らない。
また別のことになるが、単行本出版時のひとつの話題は、印刷所に精興社が指定されたことで、
詳しい訳は知らないものの、字体が独特にきれいな仕上がりとなったこの本は、他の司馬本と違っている。
古い漢字が多いことが何か関係しているのか、
その後の再版は別の印刷所で行われていて、今本屋で新刊を探しても精興社版はもうない。
本題については、いずれまた。
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・ 「空海」の向こう側へ

2007年08月07日 | ◆ こんな本

神戸梟 retouch



 この夏、クーラーをつけた日には「空海の風景」上・下(司馬遼太郎)を読もうとしている。
と言うのも、まだこれを最後まで読みきってないから。
それに先立ちあの本屋で目に入った、新書判山川健一著「『空海』の向こう側へ」を読む。
帯には、- ロック世代の旗手が辿った魂の旅の軌跡 -ともある。
空海は、唐の新しい仏教である密教を丸ごと日本に持ち帰った留学僧である。
その後中国大陸では、密教をはじめ仏教が衰退していったので、
空海が確立した密教は世界で唯一のものになった。
人はなぜ死ぬのか。
何のために生きるのか。
そもそも生命とは何か。
宇宙が存在するとはどういうことなのか。   (緒書き・あとがきより)
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