斜陽館:太宰治記念館 国指定重要文化財
ここ金木や五所川原は、冬に来ることが多かったのです。
吹雪体験ツアーやストーブ列車など聞いたことがございませんか?
どちらも冬じゃないと体験できないものです。
ストーブ列車は、五所川原駅にお客さんを降ろし、電車に負けないように金木駅に回送します。車両は観光客用と一般のお客様に分かれていて、車内のダルマストーブでは、スルメも焼いていますね。
こんな光景がまだ残る五所川原です。
この地の出身者と言えば、東京でベゴを飼うと歌っていた、吉幾三さんや、お城のような自宅に住み数々の選挙で落選した三浦さんなどが、一時ブームになり、よく行ったものです。
さて、太宰治・・・誰もが知っている作家ですが、最近は生誕百年を迎え、話題の人物でもあります。
最近では、映画「パンドラの匣」でも太宰ブームが高まっています。
宮城県では、今月26日から先行上映されるようです。
私の世代では、国語の教科書に「走れメロス」がありました。
「人間失格」「斜陽」なども読まなくても知っているタイトルではないでしょうか。
それでは、斜陽館の中に入ってみましょう。
興味のある方はどうぞ!
すらすらわかる太宰治の基礎知識
太宰治(だざいおさむ)【1909~1948】
本名は津島修治、生まれは青森県北津軽郡金木町・・つまりここです。
11人兄弟の10番目で父親は貴族院議員でした。
文学に目覚めたのは県立青森中学時代ですが、共産主義運動が広まるなか新聞雑誌委員という立場から参加するようになる。
二十歳の時芥川龍之介の自殺にショックを受け、最初の自殺未遂を起こした。
その後、井伏鱒二に永く師事するも、田部シメ子と薬物心中を図る。
東京帝国大学仏文科入学後も非合法の左翼運動に参加するが23歳で離脱。
この頃に太宰治の筆名を考案し、執筆活動に入るが薬物中毒などで入院生活を余儀なくされる。
30歳で石原美知子と結婚し、「惜別」「お伽草子」などを発表。
「斜陽」のモデルとなる大田静子と逢い、娘:大田治子が生まれる。
1948年「人間失格」を発表して、その後6月13日山崎富栄と玉川上水で入水自殺。
「走れメロス」や「富嶽百景」のように人間の信頼を描いた作品もありますが、晩年は自己崩壊的な作品が多くなったと言われる。
僕の家
僕の家は町の中央に位して南には雄大な岩木山がひかえ、東北には縣下一といはれて居る芦野競馬場があり、西南には清く大きい岩木川がある。
僕はこれらの物に守られて居る僕の家でオギャーと生まれたのである。
明治高等小学校時代の作文から・・・
玄関を入ると土間になっており入って左側の階段から二階に洋室があり、下には金融執務室(銀行?)があった。
仏間には煌びやかな仏壇が光輝いている。右側の写真は板間ですが天井は高くまた、竈はレンガを使用していた、床下の収納もレンガで囲われていました。
中庭と母屋と繋がる蔵ですが、この中の展示品は撮影禁止です。
この蔵の階段を見て欲しい。
太宰5歳頃の写真だが、幼い頃から母が病弱であったため叔母のきゑに育てられ、叔母の家族や子守のタケと過すことが多かった。
太宰はご飯の時、この庫の石段の下で食べるのが一番好きだったという。
二階に行きます。
手すりも洒落てますね。寄木細工ですかね。
斜陽館は、戦後津島家が手放し、昭和25年から旅館として町の観光名所となり、全国から多くのファンが訪れた。
平成8年に金木町が買い取り、旅館「斜陽館」は46年の歴史に幕を閉じた。
あらあら、外を見たら団体客です。8:30の開館と同時に入ったので、客も少なくじっくり見れたが、団体さんが来たので早々に退却しようと下はへ・・
これが、金融執務室です。
ボロボロの椅子ですが、手を触れないで下さいと書いてあります。
すごい豪邸でした。階下11室二階8室です。
駐車場の横には、津軽三味線会館があります。そうです発祥の地ですね。
ここ金木や五所川原は、冬に来ることが多かったのです。
吹雪体験ツアーやストーブ列車など聞いたことがございませんか?
どちらも冬じゃないと体験できないものです。
ストーブ列車は、五所川原駅にお客さんを降ろし、電車に負けないように金木駅に回送します。車両は観光客用と一般のお客様に分かれていて、車内のダルマストーブでは、スルメも焼いていますね。
こんな光景がまだ残る五所川原です。
この地の出身者と言えば、東京でベゴを飼うと歌っていた、吉幾三さんや、お城のような自宅に住み数々の選挙で落選した三浦さんなどが、一時ブームになり、よく行ったものです。
さて、太宰治・・・誰もが知っている作家ですが、最近は生誕百年を迎え、話題の人物でもあります。
最近では、映画「パンドラの匣」でも太宰ブームが高まっています。
宮城県では、今月26日から先行上映されるようです。
私の世代では、国語の教科書に「走れメロス」がありました。
「人間失格」「斜陽」なども読まなくても知っているタイトルではないでしょうか。
それでは、斜陽館の中に入ってみましょう。
興味のある方はどうぞ!
すらすらわかる太宰治の基礎知識
太宰治(だざいおさむ)【1909~1948】
本名は津島修治、生まれは青森県北津軽郡金木町・・つまりここです。
11人兄弟の10番目で父親は貴族院議員でした。
文学に目覚めたのは県立青森中学時代ですが、共産主義運動が広まるなか新聞雑誌委員という立場から参加するようになる。
二十歳の時芥川龍之介の自殺にショックを受け、最初の自殺未遂を起こした。
その後、井伏鱒二に永く師事するも、田部シメ子と薬物心中を図る。
東京帝国大学仏文科入学後も非合法の左翼運動に参加するが23歳で離脱。
この頃に太宰治の筆名を考案し、執筆活動に入るが薬物中毒などで入院生活を余儀なくされる。
30歳で石原美知子と結婚し、「惜別」「お伽草子」などを発表。
「斜陽」のモデルとなる大田静子と逢い、娘:大田治子が生まれる。
1948年「人間失格」を発表して、その後6月13日山崎富栄と玉川上水で入水自殺。
「走れメロス」や「富嶽百景」のように人間の信頼を描いた作品もありますが、晩年は自己崩壊的な作品が多くなったと言われる。
僕の家
僕の家は町の中央に位して南には雄大な岩木山がひかえ、東北には縣下一といはれて居る芦野競馬場があり、西南には清く大きい岩木川がある。
僕はこれらの物に守られて居る僕の家でオギャーと生まれたのである。
明治高等小学校時代の作文から・・・
玄関を入ると土間になっており入って左側の階段から二階に洋室があり、下には金融執務室(銀行?)があった。
仏間には煌びやかな仏壇が光輝いている。右側の写真は板間ですが天井は高くまた、竈はレンガを使用していた、床下の収納もレンガで囲われていました。
中庭と母屋と繋がる蔵ですが、この中の展示品は撮影禁止です。
この蔵の階段を見て欲しい。
太宰5歳頃の写真だが、幼い頃から母が病弱であったため叔母のきゑに育てられ、叔母の家族や子守のタケと過すことが多かった。
太宰はご飯の時、この庫の石段の下で食べるのが一番好きだったという。
二階に行きます。
手すりも洒落てますね。寄木細工ですかね。
斜陽館は、戦後津島家が手放し、昭和25年から旅館として町の観光名所となり、全国から多くのファンが訪れた。
平成8年に金木町が買い取り、旅館「斜陽館」は46年の歴史に幕を閉じた。
あらあら、外を見たら団体客です。8:30の開館と同時に入ったので、客も少なくじっくり見れたが、団体さんが来たので早々に退却しようと下はへ・・
これが、金融執務室です。
ボロボロの椅子ですが、手を触れないで下さいと書いてあります。
すごい豪邸でした。階下11室二階8室です。
駐車場の横には、津軽三味線会館があります。そうです発祥の地ですね。
中を見せていただいたのは初めて
ひーさんのお蔭です
ありがとうございます
で・・
薬物中毒って
色んなのがあるけど・・
何の薬物なのかしら・・・
立派な家に生まれても尚且つ自殺願望が強かったみたいですね
人って・・分かんない
旅館になっていたんですか、そういえば、そういう風に見えます。
外観も中も素晴らしい。一度、見に行きたいものです。
何回見てもいいですよwww
戦後はヒロポンなんていうのもあったようですが? 具体的には分かりません。
鎮痛剤とかハルシオンとか?
それとも、麻薬ですかね。
明治の建物らしく、和洋折衷ですね。
土間も広かったです。
お坊ちゃまだったんですね
なるほど
あるいみ~納得ですね (^_-)~☆
屋内も和洋折衷の近代和風に蔵座敷、明治の地方名家の屋敷はまぼいねぇーーー ♪
ところで、気になるのは「太宰治生誕百年」のポスターの掲示元…金木町観光物産館の「マディニー」って何か方言のアナグラムだべか?
仙台弁だごって「までぃに」つったら「丁寧に」のこったべなぁ~~~
津軽弁だらなじょなんだべが???
津島家は当時青森県内では5~6番目辺りの大地主でした。
なにしろ自宅の周りに津島家自ら公共建築物を建て、町の中心地を作り上げたほどですから。
基本的には農民一揆が恐ろしく役場や警察の保護が欲しかったのですがね。
要は「いやらしい大富豪」であったわけです。
納税金額で選ばれる貴族院議員はもちろん、太宰の兄は県知事も勤めていましたね。
某没落政党の派閥の領袖が総選挙前に引退しましたが、彼は津島家にとっては養子でした。
旧制高校時代の太宰のペンネームを見ると、精神的な圧迫感が理解できます。
今で言えば「熊吉」みたいな(該当する方がいたら失礼!)、いわゆる下層階級的な名前をとっかえひっかえ名乗っておりました。
ポスターの太宰の写真は三鷹時代のものではないでしょうか?
人気作家としての地歩を確保し始め、私生活でも安定していた三鷹の太宰。
私と同じように、井の頭公園を散歩する日々でした。
三鷹駅の車庫の上を貫く長い陸橋が残っています。地元では「太宰の陸橋」と呼ばれています。
私もあの陸橋から夕日を眺めている太宰の写真が一番です。
私が斜陽館に行ったのは、かなり前なので
懐かしく館内の写真を見ています。
小説の中では斜陽が好きでした。
娘の作家・太田治子さんに太宰の面影を
見る事が出来ますね。