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志波姫町は、堀口・八樟・沼崎・刈敷・伊豆野・南郷・北郷の七ヶ村に分かれていた。
明治維新の改革によって、明治九年、堀口・八樟・と姫郷村に沼崎・刈敷・伊豆野を白幡村に南郷・北郷を梅崎村に合併し三ヶ村ができた。
明治二十四年四月、町村制により三ヶ村を合併し、村社志波姫神社(延喜式内社、栗原七社の中の一明神大)の社名に因んで志波姫村と称し、昭和四十年一月一日現在の志波姫町となった。
宗教
古代人は不可思議なものの働きを神とした。
天の運行、日・月・星・山川・沼沢・祖先などいずれも神であって、その他最も恐れ怪しむものを皆神聖視し、その
災いを避けるために祈り、もし荒れて災いをなせば祭って和ますことをした。
これが祭りであった。
「出雲風土記」の「それぞれのに一族の神が祀られ」ていたのも同じ思想から出たものであろう。
「社」とは国土を祭ることをいう。
清められた地所が社となった。
社は森であり、石であり、注連縄が張られ所は神のいますところであり神社と呼ばれた。
山も川もそのものが神であった。
多賀城・伊治城・牡鹿柵・桃生城・胆沢城に式内社が多い、これは戦勝祈願と蝦夷服属のために官社された多いと見られる。
栗原郡にも沿岸で名神大社はとしては志波姫神社だけである。 即ち一宮である。
石碑などによく見られる文字ですが、このような意味があります。
庚申(支那伝来神で元の時代より流行した神)
雲南(宇奈根、うな路の神、即ち水路、溝の水行の神である)
二渡(三渡、水渡の神で二渡となり、にはとりともされた)
幕末に到っては、復古思想と相俟って「古事記」神代の巻に出てくる神々を古来の祭神したものが多い。
明治維新は、この傾向を一層強くしあらゆる神社に祭料を定めた。
不明なものは、多くスサノヲの命をあてた。
志波姫神社
祭神は明治以降、木花開耶姫命とされた。
徳川初期ここに移された。
この社はもともと延喜式神明帳栗原七座の内の唯一つの大社で人皇四十代聖武天皇の神亀天平年間に造られたと云われ又の名を伊豆権現とも称して築館村東浦玄光に鎮座していた。
延暦年間(796~801)には、坂上田村麻呂東征の際に武運長久、五穀豊穣を祈願したとの言い伝えもある。
正保の始め不詳にも祝融の災(火事の災難)にかかり社殿の社殿のすべてが鳥有に帰し(何もかもまったくなくなってしまうこと。)当時の規模等伺い知る由もない。
その後再建する人もなく只、伊豆権現の石宮とその側に八坂神社の石宮が立ちその跡を祀っていたのであったという。
忠宗の時、慶安三年(1650)「この由緒正しき神殿を再建すべし」との御掟を受けた時の領主、古内主膳広重がその中心地に当たる八樟村の聖域に社地を移して社殿を整えた。
境内には愛宕神社があって、軻遇突智命が祀られている。
又、八坂神社、樟神社、白山神社、八幡神社、運難神社、熊野神社、五十瀬神社、駒形神社等の石宮がある。
大日本地名辞書 吉田東伍著から引用
八樟(ヤツクヌギ)
今、志波姫(シバヒメ)村と改む、築館の東北一里、一迫川の右辺の平郊に居る。封内記云、八樟邑、伊豆野権現、此社、旧在築館邑、明暦三年、移于本邑笹森、樟明神、祭樟樹、邑名本之、堀口邑古塁、号西館、伝曰、大庭彦七郎所居。
○樟は、古訓クスなれば、之をクヌに仮借せるは誤れり、されど、余州にもこの例あり。
志波姫(シバヒメ)神社
今、八樟の伊豆野(イヅノ)権現擬せらるれど、明証なし。按、延喜式、栗原郡志波姫神社は、名神大と注せられたり、之を、高清水駅、又桜目村は擬定する者あれど、共に力石峠の南なれば、古の栗原郡の地にあらず。封内記に「一迫八樟邑、伊豆野権現、是亦曰志波姫神社、土人伝言、往時在築館邑、其地為墾田、故移之八樟邑」云々、之に従ふべきか。今、此間に志波姫の村名を建てしも、之に因れるなり。○再按、栗原郡旧地考に、八樟の伊豆権現を、志波姫神に擬するは、しひごとなり、もしくは、城生野(ジヤウノ)の大仏山などに此神おはしけん、(大槻氏云、大仏(ダイブツ)山は、今、草堂の中に、石仏地蔵菩薩を安置するのみ)云々。さて、此志波姫とは、八衢比売にあたり、やがて道祖神に同じ。中世以来、道路衢神と呼ばれし岐神も、これに外ならずといふ。論は、宮城郡志波彦神社址の下に詳にしたり。本朝世紀に、天慶元年、東西両京、大小路衢、刻木作神、凡厥躰像、髣髴男女、起居不同、臍下腰底、刻絵陰陽、構几案、拝礼慇勤、号曰岐神、又称御霊、未知何祥、時人奇之、
と載せられしに拠れば、後世其路辺に立つが故に、之を六道地蔵尊に混淆したりし所以も推断せらる。且、道路衢と六道は、語音相渉れり。城生野の石仏地蔵尊、最究明を要す。岐神を、第六(ダイロク)天にも、庚申(カウシン)尊にも謬れる例証あり、牡鹿郡第六天山に合考すべし。
たのむぞよあすはの宮にさすしばのしばしがほども見ねば恋しき、〔新千載集〕 法印定為
類聚名義考云、阿須波神は、古事記に、大年神の子、庭津日神、阿須波神とあるそれか、越前国足羽郡に足羽神社あり、摂津国難波(大坂)の坐摩(イガスリ)五座の中にも、阿須波神、波比岐神ませり。
○又按、阿須波神は、旧伝に大年神の子と云へば、岐神と相異なるが如し。されど、神祇には、同功を一躰として之を祭ること、古よりの風なり。猿田彦を、岐神と同功一躰とするが如き、是なり。足羽神と岐神、亦此例なり。(この他に、道返(チカヘシ)神、道守(チモリ)神、道股神の類皆同じ)庭津日は庭辺(ニハツヘ)なり、足羽は足庭(アシハ)なり、古事記に、分ちて二神とすれど、万葉集に「庭中の足羽の神に小柴さし」とよみ、一神とす。奥州の方俗、今も庭渡(ニハタリ)の権現とて祭る者、即是なり。(坐摩の足羽、波比岐も、同功一躰なり、古事記は、波比岐神をも、大年神の子とす)
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