そもそも志波姫神社が気になったのは、鹽竈神社に志波彦神社があり、それに対象する志波姫神社が何故この地にあるのか? それが最初だった。
しかし、結論はまだ見出していない。
実は、志波姫神社は〔栗原市築館志波姫八樟〕・〔高清水五輪〕・〔古川桜ノ目〕・〔高清水:皇大神社〕などがありました。 これは順次UPします。
町名にもなった志波姫神社ですが、どのような経緯があったのでしょう。
志波姫神社
式内社 陸奥國栗原郡 志波姫神社 名神大 (旧村社)
御祭神:木花開耶姫命
倉稻魂命・應神天皇・素盞嗚尊・菊理姫命・伊弉册命・大日靈命・軻遇突智命・倭姫命
ここでは、境内にある案内板も由緒をご紹介します。
由 緒
志波姫神社は、木花開耶姫命を祀る延喜式神明帳栗原七座の内の大社にして、人皇第四十五代聖武天皇の神亀天平年間の創建といわれ、延暦年間(796~801)に坂上田村麻呂東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられる。
社はもと伊豆野権現社と稱し、築館の町裏玄光に鎮座されていたが、正保年中に祝融の災に罹り、社殿のすべてが烏有に帰し、其の後再建されることなく伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。
寛永十六年(1639)伊達第二代藩主忠宗公は、※家臣古内主膳重廣に伊豆野原の野谷地を賜り、その開拓を命ぜられた。
伊豆野原を拝領した古内主膳は、伊達藩の土木技術者であった川村孫兵衛元吉に伊豆野原開拓工事の設計を依頼、正保元年(1644)工事に着手、三年の難工事の末、伊豆野堰の完成をみた。伊豆野堰開削によって、伊豆野原開拓に成功した領主古内主膳は、明暦三年(1658)に至って社殿を造営し、水下十五ヶ村の守護神として此の地に遷座した。
明治二十二年四月、市町村制の施行により、姫郷村、白幡村、梅崎村の三ヶ村を合併し、この由緒ある社名を唱えて志波姫村とした。 町名ゆかりの神社である。
平成四年十月二十七日、志波姫神社本殿(素木造・一間社流れ造り・目板葺)が江戸時代初期の建築様式を伝えるものとして、宮城県指定有形文化財に指定された。
※古内主膳
古内重広 ふるうち-しげひろ
1589-1658 江戸時代前期の武士。
天正(てんしょう)17年生まれ。国分盛重の子。陸奥(むつ)仙台藩士古内実綱(さねつな)の養子。藩主伊達忠宗(ただむね)の信任をえて奉行にすすみ,1万6000石を領した。明暦4年7月12日忠宗が死去すると,即日殉死した。70歳。通称は主膳。
志波姫神社についての補足説明は「資料編」にあります。http://sanpomichi114.blog119.fc2.com/blog-entry-1.html
資料編には、志波姫は岐神であり道祖神を表すこと。また、今も庭渡(ニハタリ)の権現とて祭る者、即是なり。とあり、古事記は、波比岐神をも、大年神の子とす。
そして、志波姫とは、八衢比売にあたり、やがて道祖神に同じ。中世以来、道路衢神と呼ばれし岐神も、これに外ならずといふ。論は、宮城郡志波彦神社址の下に詳にしたり。
やっと志波彦神社との関係を見つけました。
興味のある方はご覧下さい。
鳥居をくぐると杉並の参道が真っ直ぐあった。
第二の鳥居
拝殿にも立派な狛犬が・・・出雲型と言われるものですね。
昭和43年(1968)建立
舞殿でしょうか?
本殿は鞘殿に保護されている。
金田明神
この石宮は、元禄十二年九月十八日與兵衛、権内と山伏の室鏡院が無実の罪で磔の刑に処せられたが、その霊を鎮めるため建立したものである。八樟原にあったが、農村活性化住環境整備事業区域となったので平成十三年四月ここに遷座した。
台座に「文政九年丙戌九月十九日、願主、肝入彦十郎、善助」とある。
山神
下駄があるが意味は不明
しかし、結論はまだ見出していない。
実は、志波姫神社は〔栗原市築館志波姫八樟〕・〔高清水五輪〕・〔古川桜ノ目〕・〔高清水:皇大神社〕などがありました。 これは順次UPします。
町名にもなった志波姫神社ですが、どのような経緯があったのでしょう。
志波姫神社
式内社 陸奥國栗原郡 志波姫神社 名神大 (旧村社)
御祭神:木花開耶姫命
倉稻魂命・應神天皇・素盞嗚尊・菊理姫命・伊弉册命・大日靈命・軻遇突智命・倭姫命
ここでは、境内にある案内板も由緒をご紹介します。
由 緒
志波姫神社は、木花開耶姫命を祀る延喜式神明帳栗原七座の内の大社にして、人皇第四十五代聖武天皇の神亀天平年間の創建といわれ、延暦年間(796~801)に坂上田村麻呂東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられる。
社はもと伊豆野権現社と稱し、築館の町裏玄光に鎮座されていたが、正保年中に祝融の災に罹り、社殿のすべてが烏有に帰し、其の後再建されることなく伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。
寛永十六年(1639)伊達第二代藩主忠宗公は、※家臣古内主膳重廣に伊豆野原の野谷地を賜り、その開拓を命ぜられた。
伊豆野原を拝領した古内主膳は、伊達藩の土木技術者であった川村孫兵衛元吉に伊豆野原開拓工事の設計を依頼、正保元年(1644)工事に着手、三年の難工事の末、伊豆野堰の完成をみた。伊豆野堰開削によって、伊豆野原開拓に成功した領主古内主膳は、明暦三年(1658)に至って社殿を造営し、水下十五ヶ村の守護神として此の地に遷座した。
明治二十二年四月、市町村制の施行により、姫郷村、白幡村、梅崎村の三ヶ村を合併し、この由緒ある社名を唱えて志波姫村とした。 町名ゆかりの神社である。
平成四年十月二十七日、志波姫神社本殿(素木造・一間社流れ造り・目板葺)が江戸時代初期の建築様式を伝えるものとして、宮城県指定有形文化財に指定された。
※古内主膳
古内重広 ふるうち-しげひろ
1589-1658 江戸時代前期の武士。
天正(てんしょう)17年生まれ。国分盛重の子。陸奥(むつ)仙台藩士古内実綱(さねつな)の養子。藩主伊達忠宗(ただむね)の信任をえて奉行にすすみ,1万6000石を領した。明暦4年7月12日忠宗が死去すると,即日殉死した。70歳。通称は主膳。
志波姫神社についての補足説明は「資料編」にあります。http://sanpomichi114.blog119.fc2.com/blog-entry-1.html
資料編には、志波姫は岐神であり道祖神を表すこと。また、今も庭渡(ニハタリ)の権現とて祭る者、即是なり。とあり、古事記は、波比岐神をも、大年神の子とす。
そして、志波姫とは、八衢比売にあたり、やがて道祖神に同じ。中世以来、道路衢神と呼ばれし岐神も、これに外ならずといふ。論は、宮城郡志波彦神社址の下に詳にしたり。
やっと志波彦神社との関係を見つけました。
興味のある方はご覧下さい。
鳥居をくぐると杉並の参道が真っ直ぐあった。
第二の鳥居
拝殿にも立派な狛犬が・・・出雲型と言われるものですね。
昭和43年(1968)建立
舞殿でしょうか?
本殿は鞘殿に保護されている。
金田明神
この石宮は、元禄十二年九月十八日與兵衛、権内と山伏の室鏡院が無実の罪で磔の刑に処せられたが、その霊を鎮めるため建立したものである。八樟原にあったが、農村活性化住環境整備事業区域となったので平成十三年四月ここに遷座した。
台座に「文政九年丙戌九月十九日、願主、肝入彦十郎、善助」とある。
山神
下駄があるが意味は不明
立派にガードマンの責務を果たしているやうな ♪
ガードマンと言えば、ホイットニー 亡くなりましたねぇ
こういう理由だったのですね。
塩竈神社境内の志波彦神社の移設の経緯は、散歩道で詳しくしりましたが、延喜式であるわけです。この志波姫神社も延喜式だとばかり思ってました。ちゃんと勉強しないと・・。
出雲型が?!
北前船に乗ってやってきたのかな (=^・^=)
薬物の依存は簡単に治らないですね。
威嚇している狛犬はやる気満々ですね。49(0
どうも、シワという文字が岐神、道祖神を表すようです。
志波姫が終わったら鼻渕神社の編集をしなおします。
山陰出身のかたか?
そのうち書きますが、出雲神族が伝承したかも知れない製鉄と塩作りは、この地にものこっています。鉄を作る時のふいごは片足を使うため足が悪くなります。又、火を見つめるため目を悪くします。
三宝荒神やあらはばきは足の神様、鉄の神様、目の神様と言われます。
これは出雲と密接な関係を感じます。
山陰出身のかたか?
そのうち書きますが、出雲神族が伝承したかも知れない製鉄と塩作りは、この地にものこっています。鉄を作る時のふいごは片足を使うため足が悪くなります。又、火を見つめるため目を悪くします。
三宝荒神やあらはばきは足の神様、鉄の神様、目の神様と言われます。
これは出雲と密接な関係を感じます。
そして、志波姫とは、八衢比売にあたり、やがて道祖神に同じ。中世以来、道路衢神と呼ばれし岐神も、これに外ならずといふ。論は、宮城郡志波彦神社址の下に詳にしたり。
只今退院してきました。いゃー痛かった。
上記によると志波姫神社はやはり庭渡神社と呼ばれていた訳ですね。予想はしていましたがこれは発見です。有難う御座います。
阿須波神が志波彦命、波比岐神が志波姫と言うことが立証されましたね。
そこで、又問題になるのが志波彦命、志波姫命とも道祖神・岐神とされる事。つまり同神ではないかと言う事です。
そして、その解答はアマノウズメを祭る志波姫神社にあると思います。
つまり、猿田彦命と天照大神は入れ代わったたのではないかと私は考えています。
と思いました。
そうすると、鹽竈神社の神はいずれも系統が同じになります。左宮右宮は、綱宗の考えが入ったのでしょう。
退院おめでとうございます。これからは、不摂生にご注意を・・・我が身もですが
塩釜神社にもあって、変わった形だなって思ったんですよ。