
仙台東照宮の記事は
こちら
狛犬編なのですが、実は一対しかいないのでした。 東照宮にしては以外でしたね~。
しかし、他と違い意外な説明文が・・・・

神前に向かい右阿形、左吽形 葵の紋は重厚ですね~



平成四年の建立なのですが、・・・と言うことは? それ以前には狛犬がいなかったと言うことでしょうか? 現在不明です。

徳川家康公の生誕の地が三河国岡崎城
その岡崎産の花崗岩を使用して製作されたのが、この狛犬です。
嬉しいのは、獅子狛犬としっかり分けて書いてあるのが嬉しいですね。
また、神前に向かって右に獅子(口を開き耳垂れる)左に狛犬(口を閉じ耳を立てる)
としっかり説明をいれているのも珍しいのでは?
獅子

狛犬 胸元の鈴がドラえもんを思い出しました。




おまけ 境内図にはありませんが、古峯神社がありました。以前にも定義如来等で触れましたが、宮城には古峯講が意外と多いのです。いずれご紹介したいと思います。

神社の割には、普通の建物?

狛犬編なのですが、実は一対しかいないのでした。 東照宮にしては以外でしたね~。
しかし、他と違い意外な説明文が・・・・

神前に向かい右阿形、左吽形 葵の紋は重厚ですね~




平成四年の建立なのですが、・・・と言うことは? それ以前には狛犬がいなかったと言うことでしょうか? 現在不明です。

徳川家康公の生誕の地が三河国岡崎城
その岡崎産の花崗岩を使用して製作されたのが、この狛犬です。
嬉しいのは、獅子狛犬としっかり分けて書いてあるのが嬉しいですね。
また、神前に向かって右に獅子(口を開き耳垂れる)左に狛犬(口を閉じ耳を立てる)
としっかり説明をいれているのも珍しいのでは?
獅子

狛犬 胸元の鈴がドラえもんを思い出しました。




おまけ 境内図にはありませんが、古峯神社がありました。以前にも定義如来等で触れましたが、宮城には古峯講が意外と多いのです。いずれご紹介したいと思います。

神社の割には、普通の建物?

というところが すごいですね (^_-)~☆
ホントに以前は狛犬がいなかったのでしょうか?
家康公にちなんで岡崎産ってのがこだわってていいですねー
私の電波で「鉄」に興味を持ち始めて、で、私の方はひーさんの高周波でカメラ小僧の血が復活しそうです。
当時の松平家の岡崎城は「砦」レベルではなかったでしたっけ?
だいたい流浪の坊さんが始祖の家ですからね。極端な「成り上がり」ではあるのです。
たまたま尾張の隣国であったというのがラッキーでした。
鎌倉以来の伊達家にとっての想いも複雑でしたでしょうな。
先日笑っていいともに堺さんが出演して、定義さんの油揚げの話題で盛り上がっていましたよ。
このような団体や氏子がいるとゆうことは、いいことですね。
今ネットで鉄道模型を検索して読んでました。
もう少し先になると思いますが、どちらのメーカーから始めるか?検討中・・・
始める前に大きなテーブルから準備しようかな~ そのまま据え置きになるでしょうから。
それとドアップで見ると、狛犬さんが案外愛嬌のある表情なことに少々びっくりしました。
確かに伊達家は幕府から睨まれていました。
それだけに対徳川対策は重要だったと思います。
藩主には家臣とその家族を食わせてゆく責任がありましたから、
自分の野心のみで暴走する訳には参りません。
仙台城から見て、東照宮は基本的に艮の方角にあります。
正確には北東よりはやや南、東北東の方向でしょうか。
(青葉神社の東隣、東昌寺の庫裏の裏手に鬼門除けのマルミガヤの木が植えてあります)。
仙台城の鬼門を守るのが権現様を祀る神社・・・
幕府に向ってこれほど強烈な恭順のアピールはないでしょう。
(徳川除けのお札が権現様を祀る神社・・・些か逆説的ですが)。
四代以降の伊達家が長い冬眠状態に入るとのクロンシュタットさんのお話ですが・・・
他家で言えば百石取りクラスの家臣まで伊達家では地方知行。
いわば藩中藩をなす状態に、強固な身分制。
林子平が提出した改革案も「さして身分も高くない家臣の部屋住みが僭越である」として日の目を見ませんでした。
軍制も、それぞれの家臣が禄高に応じて部隊を編成するという戦国時代以来のもの。
薩長が三兵戦術(歩兵、砲兵、騎兵を有機的に運用する近代戦術)の採用に踏み切れたのは、薩英戦争や馬関戦争で近代陸海軍の威力を身を以て知ることができたからだと思います。
また伊達領は「仙台米が江戸の米相場を動かす」と言われたほどの米どころ(表高は「六十二万石」ですが、実高は百万石を超えていたそうですね)。
農民の余剰米を買い上げて江戸で売りさばいていました。
それだけに米の他には特産物と呼べるものがなく、飢饉になれば伊達家の経済はたちまちグロッキーでした。
しかも幕末の仙台領は飢饉続きで経済がガタガタだったそうです。
島津家や毛利家で断行したような経済改革(というよりは借金踏倒しに近いものがあったようですが)も行なわれずじまいでした。
軍制改革をやろうにも、経済的な裏づけがなかったということでしょうか。
また身分制が強固であれば、経済改革にせよ軍制改革にせよ、利害を侵される重臣層の反発も大きかったことでしょう。
(身分制といえば、島津家中や土佐の山内家中の身分制もエゲツナイものがありましたが)。
あの時期に藩の体質を近代化し、藩論を統一するには、
あまりにも悪条件が揃い過ぎていたということでしょうか。
寒風沢での洋式軍艦の建造、函館も含めて戊辰の役における細谷十太夫の衝撃隊や星恂太郎の額兵隊の活躍があっただけに、
それらが大局に影響を及ぼさなかったことが残念でなりません。
最近暇を見て、大河ドラマの独眼竜政宗を見てました。
後から、文庫も揃えてましたので読もうと思います。
幕末になるとやはり財政難にて、禄高の支払いが大変だったようですね。
二十人町では提燈を作り、堤町では焼物を作って足しにいたようですね。
時代の変化は仕方がありませんね。
アップになると、何となくユーモラスな顔です。
偉大であった徳川家なのか?
それとも地元の伊達様なのか?
最終的に地元の祭りは、この東照宮から出していた神輿を政宗を祀る青葉神社に変更しています。
この地は、家康公が葛西大崎一揆の視察の後に休憩した所のようです。