庄内藩校致道館
文化2年(1805)酒井家九代目藩主・忠徳公が創設した藩校です。
徂徠学を教学とし、自主性を重んじた教育方針で、各自の天性に応じ長所を伸ばすことに主眼がおかれ、質実剛健な教育文化の風土を育む土壌となりました。
現在は、表御門、聖廟、講堂、御入間などが残っており、国指定史跡として一般に公開され、たくさんの人が訪れています。
この藩校建築は、現存するものとしては東北地方唯一のもので、歴史的、文化的にも価値が高いものとして知られています。
鶴岡市観光連盟HPより引用
徂徠学とは
徂徠学は、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が提唱したもので、「古文辞学」と称し、経書が書かれた中国古代の言語を学ぶことによって、経書の意を正しく解釈しようというものです。
天性
人は生まれつき、得手・不得手があるのだから、一人ひとりの優れている面を伸ばすようにしなさい。
庄内藩は「行きづまった財政をどうたてなおすか?」「暮らしに困っている農民たちをどう救うか」などの問題のほかに、その頃、藩士たちが はでな暮らしをし、武士らしくないふるまいをする者が増え、藩の将来を思う庄内藩主酒井家9代・酒井忠徳(さかい・ただあり)は心を痛めていました。
忠徳は藩の郡代である白井矢太夫(しらい・やだゆう)に相談し、「学校を作って立派な人間を育て、武士たちの心の乱れを正して藩政をたてなおそう」と決心します。
藩の財政が落ち着いてきた寛政12年(1800年)に、ようやく学校を建てる命令がだされ、文化2年(1805年)に校舎が完成しました。
致道館の名前は、論語にある「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」から名付けられたものです。
正面に鶴岡市役所が見えます。
早朝だったので、まだ致道館の門は閉鎖されてました。
文化2年(1805)酒井家九代目藩主・忠徳公が創設した藩校です。
徂徠学を教学とし、自主性を重んじた教育方針で、各自の天性に応じ長所を伸ばすことに主眼がおかれ、質実剛健な教育文化の風土を育む土壌となりました。
現在は、表御門、聖廟、講堂、御入間などが残っており、国指定史跡として一般に公開され、たくさんの人が訪れています。
この藩校建築は、現存するものとしては東北地方唯一のもので、歴史的、文化的にも価値が高いものとして知られています。
鶴岡市観光連盟HPより引用
徂徠学とは
徂徠学は、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が提唱したもので、「古文辞学」と称し、経書が書かれた中国古代の言語を学ぶことによって、経書の意を正しく解釈しようというものです。
天性
人は生まれつき、得手・不得手があるのだから、一人ひとりの優れている面を伸ばすようにしなさい。
庄内藩は「行きづまった財政をどうたてなおすか?」「暮らしに困っている農民たちをどう救うか」などの問題のほかに、その頃、藩士たちが はでな暮らしをし、武士らしくないふるまいをする者が増え、藩の将来を思う庄内藩主酒井家9代・酒井忠徳(さかい・ただあり)は心を痛めていました。
忠徳は藩の郡代である白井矢太夫(しらい・やだゆう)に相談し、「学校を作って立派な人間を育て、武士たちの心の乱れを正して藩政をたてなおそう」と決心します。
藩の財政が落ち着いてきた寛政12年(1800年)に、ようやく学校を建てる命令がだされ、文化2年(1805年)に校舎が完成しました。
致道館の名前は、論語にある「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」から名付けられたものです。
正面に鶴岡市役所が見えます。
早朝だったので、まだ致道館の門は閉鎖されてました。
物徂徠とも称して中国に入れ込んでたんですねぇ
基本ですよね (^^♪
マイルスがはじめて来日したつきなんですね (^_-)~☆
致道館出身の歴史上の人物は存じておりませぬ。
ご無礼の段、平にご容赦下され~
「教育」を礎に立て直そうというといった方針が出てこないものですかね?
庄内藩はお殿様がコロコロ変わった土地でしたよね。
地元に対し縁が薄かった酒井のお殿様であっても、地に足が着いた改革を進められたのですね。
平成の世の為政者は「お涙金バラ撒き」だもんなー・・・
今の教育といい、政治とい ガッカリですね。
素晴らしい建物と教育方針ですね。
天性を生かす!って聞きますが、正しく
その通りですね。
現代の画一的な学校教育とは一線を画しているようです。
綺麗に保存されているんですね。見に行ってみたいです。
私はほぼ毎日鉛筆を持つようになりましたが、今週は手を休める事にしました。ちょっと酷使しすぎてしまって右手がグッタリしてます。(笑) ナゼ酷使したかは来週月曜にUPする絵のせいです。(笑) タイタニックは明日かな~
この建物が素晴らしい