宮城県の小学校の修学旅行と言えば、やはり福島・会津若松が定番ですね。
宿は芦の牧温泉か東山温泉と決まっていたものです。 磐梯高原もありますかね?
ところが、今回の原発で会津地方は大打撃です。
もっと書きたいのですが、本題と掛け離れますのでこの辺で・・・ どうか会津に行きたいと思っている方は是非足を延ばして見てください。
この歴史に満ち溢れた街は、歴史愛好家には必見だと思います。
この鶴ヶ城ひとつとっても芦名家・伊達家・蒲生家・上杉家・保科家・松平家と歴代の城主がいます。
そうそう、鶴ヶ城とタイトルに書きましたが、一般的な呼称です。
呼び名は。見る人によるのかも?
国の史跡としては若松城跡で、ちょっと正式に呼ばれるときは若松城または会津若松城ですかね。
歴史が好きな方または、歴史的文献の中では、最初の名前、黒川城などと呼ばれていますね。
はじまりは、至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として築きました。後に黒川城です。
蒲生氏郷は七層の天守閣を築きます。
加藤の時代に現在のような五層の天守閣になります。
伊達家も葦名氏を倒し城主となりますが、説明は割愛します。
戊辰戦争では約一ヶ月の激しい攻防戦に耐え、難攻不落の名城として知られます。
当時の写真がありますが、傾きながらも建っていましたね。
あの城の回りに火を点け、城は落ちたかのように見せかけたのですが、その光景は、白虎隊の十九士にも戦いは終わったかのように見えたのでしょう。
城下が炎に包まれたと勘違いした少年は共に刺し違え自決したのです。
一命を取り止め生き延びた少年がいます。彼の話は長いので割愛しますが、彼が命を救われたお陰で白虎隊の全容を知ることができました。
その話はいずれ・・・それを知って飯盛山に行けば感動が違うはずです。
今回は、二の丸・三の丸のあった、東側から入りました。
あら、見たことのある女性が・・・・
外堀もなかなかのもの
この通り、台風の影響で真っ白な空で、小雨が降っており傘を差しながらの撮影でした。
残念ながら、この通り空は真っ白です。
次回は青空の下で、取りたいですね。
以前、ブロ友の歴史小説家「桃源児」さんが工事中に訪れたお城がこの赤瓦の鶴ヶ城でした。
築城当時は黒瓦が使われていました。 しかし、黒瓦は耐久性が弱く、後に水野二代長兵衛が開発した凍み割れない「赤瓦」に葺き替えられ、幕末に開城を迎えました。
その為、今回幕末の姿とと同じにしようとプロジェクトができ完成となったのですね。
会津藩 武士の心得 「什の掟」
一、年長者のいふことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふことはなりませぬ
四、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。
そして、最後に締めくくりとして
ならぬことはならぬものです。 とあります。
簡単に言えば、例外は無く、掟は守るもの・・・ということでしょうか?
この「什」ですが、会津藩士の子弟を教育する組織のことをいいます。
会津藩校日新館が復元されて観光地になっていますが、ここでは学問だけでは無く弓道・剣道などの武術 や水泳・馬術・砲術や天文まで教えていたようです。
因みに教科書は、孟子・大学・中庸・孝経・詩経・中国の古典などを用いていたようです。
大したものですね~
ですから、会津藩の出身者は明治になっても活躍します。
松平容保公は別格ですが、晩年は日光東照宮の宮司をしておりました。
他には、東京帝大総長・陸軍大将・海軍大将・第五高等学校教授・白虎隊の生き残り飯沼貞吉はは逓信省電気技師などなどです。
長くなりました、今日はこの辺で・・・・・
宿は芦の牧温泉か東山温泉と決まっていたものです。 磐梯高原もありますかね?
ところが、今回の原発で会津地方は大打撃です。
もっと書きたいのですが、本題と掛け離れますのでこの辺で・・・ どうか会津に行きたいと思っている方は是非足を延ばして見てください。
この歴史に満ち溢れた街は、歴史愛好家には必見だと思います。
この鶴ヶ城ひとつとっても芦名家・伊達家・蒲生家・上杉家・保科家・松平家と歴代の城主がいます。
そうそう、鶴ヶ城とタイトルに書きましたが、一般的な呼称です。
呼び名は。見る人によるのかも?
国の史跡としては若松城跡で、ちょっと正式に呼ばれるときは若松城または会津若松城ですかね。
歴史が好きな方または、歴史的文献の中では、最初の名前、黒川城などと呼ばれていますね。
はじまりは、至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として築きました。後に黒川城です。
蒲生氏郷は七層の天守閣を築きます。
加藤の時代に現在のような五層の天守閣になります。
伊達家も葦名氏を倒し城主となりますが、説明は割愛します。
戊辰戦争では約一ヶ月の激しい攻防戦に耐え、難攻不落の名城として知られます。
当時の写真がありますが、傾きながらも建っていましたね。
あの城の回りに火を点け、城は落ちたかのように見せかけたのですが、その光景は、白虎隊の十九士にも戦いは終わったかのように見えたのでしょう。
城下が炎に包まれたと勘違いした少年は共に刺し違え自決したのです。
一命を取り止め生き延びた少年がいます。彼の話は長いので割愛しますが、彼が命を救われたお陰で白虎隊の全容を知ることができました。
その話はいずれ・・・それを知って飯盛山に行けば感動が違うはずです。
今回は、二の丸・三の丸のあった、東側から入りました。
あら、見たことのある女性が・・・・
外堀もなかなかのもの
この通り、台風の影響で真っ白な空で、小雨が降っており傘を差しながらの撮影でした。
残念ながら、この通り空は真っ白です。
次回は青空の下で、取りたいですね。
以前、ブロ友の歴史小説家「桃源児」さんが工事中に訪れたお城がこの赤瓦の鶴ヶ城でした。
築城当時は黒瓦が使われていました。 しかし、黒瓦は耐久性が弱く、後に水野二代長兵衛が開発した凍み割れない「赤瓦」に葺き替えられ、幕末に開城を迎えました。
その為、今回幕末の姿とと同じにしようとプロジェクトができ完成となったのですね。
会津藩 武士の心得 「什の掟」
一、年長者のいふことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふことはなりませぬ
四、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。
そして、最後に締めくくりとして
ならぬことはならぬものです。 とあります。
簡単に言えば、例外は無く、掟は守るもの・・・ということでしょうか?
この「什」ですが、会津藩士の子弟を教育する組織のことをいいます。
会津藩校日新館が復元されて観光地になっていますが、ここでは学問だけでは無く弓道・剣道などの武術 や水泳・馬術・砲術や天文まで教えていたようです。
因みに教科書は、孟子・大学・中庸・孝経・詩経・中国の古典などを用いていたようです。
大したものですね~
ですから、会津藩の出身者は明治になっても活躍します。
松平容保公は別格ですが、晩年は日光東照宮の宮司をしておりました。
他には、東京帝大総長・陸軍大将・海軍大将・第五高等学校教授・白虎隊の生き残り飯沼貞吉はは逓信省電気技師などなどです。
長くなりました、今日はこの辺で・・・・・
石州瓦 加茂 (^^♪
心得の 7番~
どうしましょう??! (^_-)~☆
赤瓦 また観に行かなくっちゃ ♪
駄目なものは駄目なんですよ。
戸外でご婦人と話すのはだめです。ww
でも2年前でしたっけ三春の滝桜や穴原に来たのは?
3年前ですかね。?
会津若松城は、私の母方のご先祖様が戦っていたと聞いています。勿論、会津藩でです。因みに姓は「山川」です(笑)。
修学旅行で城を訪れた時、城に飾ってあった鞘がポコポコしている刀が妙に思い出されます。今でもずっーとです。何なのでしょ?
今年の5月に例の山水氏と西会津に渓流釣りに行きましたが、会津の人の情の深さには何時もながら驚かされます。何であんなに純粋でいられるのか。あやかりたいものですね。
ではでは。
生憎、記憶にありませんでした。
今回は登らずに次回晴天の時と考えています。
いつも時間が無くてバタバタと天守閣に登ってしまってました。
これからは、個人の旅なのでのんびり見たいと思います。次回行きましたらチェックしてみます。
会津藩士の血筋でいらっしゃいましたか。
素晴らしい。山川とはこれは凄い因果なのでは・・
見れば家老職まで昇り詰めた「山川浩」が居る様ですが、親戚ですかね?
次回、笠神の仁和多利神社をUPします。
何もわからないので少し時間を下さい。
赤瓦は5月の連休に帰省したときに見ましたが、黒よりも味があってなかなか良かったのですが、なにせ原発の影響で観光客が激減しておりましたので、連休に合わせてキャンペーンを打っていたらしく、いつもは引く手あまたの「甲冑をきた武士」も観光客に囲まれて写真を撮られるわけでもなく、手持無沙汰のようでした。
天守の中も赤瓦のお披露目にあわせて、展示物をかなり変更してあり、資料館としては楽しめると思います。是非、次は桜のころにあわせてゆっくりとしていってください。
ちなみにお勧めは、木は若いのですが、お城のほど近くの博物館にあるコヒガンザクラで、保科氏の出身「高遠」から運んだそうです。ソメイヨシノより若干早く開花し、色も鮮やかです。
話変わって、「記紀解体」ですが、疑問だらけで前に進まないため、まんがで読む日本書紀と古事記を読みました・・・。読まないよりは理解度が高まるかと思って・・・。ま、気長にやります。笑
桜の名所ですよね。
実は、博物館は見たことが無いので行きたいと思っているところです。
古代史は自分もまだまだです。と言うか一生掛かっても無理かも、この年になると頭に入らなくなりました。
それに、聞きなれない名前が沢山出てきて、それが複雑に繋がっていますからね。
自分も簡単で分かりやすい記紀の本を買いました。
神様のできる様子は一部グロテスクと言いますか、汚いといいますか、ちょっとふざけてるんじゃないの? と思いますよね。
取り合えずは、簡単に流して読めばいいと思います。気になるところは付箋をしておくといいですね。
会津は後2箇所神社を見てきました。
是非、また行きたいものです。
近い内にまた・・・