大正の頃のお花見です。
榴岡のお花見は、仙台では有名ですね。
綱村公が釈迦堂を建てた時、正岡(三沢初子)「伊達騒動で有名ですね」の霊を弔う為に植えた桜のようです。
この公園の東側に、第四連隊兵舎が明治7年(1874)に造営されたのです。
宮城県内に現存する洋風建築では最古の物です。
瓦葺寄棟造り木造2階建で、漆喰塗りの大壁、建物角隅にはコーナーストーン、ガラス入り上下窓、出入口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻を有する階段等の特徴を持つ。終戦まで60年間に渡り旧陸軍の兵舎として使用され、終戦から昭和31年までは米軍が駐留、その後昭和50年まで東北管区警察学校等に使用されました。
他に、7棟の兵舎がありましたが榴岡公園整備の為昭和52年2月に取り壊された。
連隊長の女中さんだった人の話では、やはり脱走する兵隊もたくさんいたそうです。
二十歳になり、兵役検査、甲種合格!なんて言われて兵役でとられ、厳しい訓練が続けば、誰しも逃げたくなるものでしょう。
脱走してお茶箱の中に入っていた兵隊もいたようです。
戦地へ向かうとなれば、音楽隊を先頭に勇ましく足並み揃えて歩いて行ったそうです。
しかし、負けが続いて来ると、夜にばかりそっと出て行ったそうです。
仙台陸軍幼年学校(仙台陸幼)
かつてこの付近、現宮城野中の敷地に明治30年創設された筋金入りの陸軍正規将校を養成するため、国内に開設された6校の内の一つである。
旧制中学2年を終了した全国の秀才が集結したのです。
有名将校には、板垣征四郎、土肥賢二、石原莞爾(元第四連隊長)他、・・・
大正13年軍縮で廃校するも、昭和12年支那事変発生で西多賀に復校し、昭和20年終戦により廃校されました。
西南戦争を始め京城の変(朝鮮の変、壬午事件、京城事変等とも)日清戦争、日露戦争、尼港事件(にこうじけん)、満州支那事変、大東亜戦争など、くまなく参加したそうです。
連隊とは関係ないと思うのですが、皆、痩せててあばらが
仙台市歴史民俗資料館へ
榴岡のお花見は、仙台では有名ですね。
綱村公が釈迦堂を建てた時、正岡(三沢初子)「伊達騒動で有名ですね」の霊を弔う為に植えた桜のようです。
この公園の東側に、第四連隊兵舎が明治7年(1874)に造営されたのです。
宮城県内に現存する洋風建築では最古の物です。
瓦葺寄棟造り木造2階建で、漆喰塗りの大壁、建物角隅にはコーナーストーン、ガラス入り上下窓、出入口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻を有する階段等の特徴を持つ。終戦まで60年間に渡り旧陸軍の兵舎として使用され、終戦から昭和31年までは米軍が駐留、その後昭和50年まで東北管区警察学校等に使用されました。
他に、7棟の兵舎がありましたが榴岡公園整備の為昭和52年2月に取り壊された。
連隊長の女中さんだった人の話では、やはり脱走する兵隊もたくさんいたそうです。
二十歳になり、兵役検査、甲種合格!なんて言われて兵役でとられ、厳しい訓練が続けば、誰しも逃げたくなるものでしょう。
脱走してお茶箱の中に入っていた兵隊もいたようです。
戦地へ向かうとなれば、音楽隊を先頭に勇ましく足並み揃えて歩いて行ったそうです。
しかし、負けが続いて来ると、夜にばかりそっと出て行ったそうです。
仙台陸軍幼年学校(仙台陸幼)
かつてこの付近、現宮城野中の敷地に明治30年創設された筋金入りの陸軍正規将校を養成するため、国内に開設された6校の内の一つである。
旧制中学2年を終了した全国の秀才が集結したのです。
有名将校には、板垣征四郎、土肥賢二、石原莞爾(元第四連隊長)他、・・・
大正13年軍縮で廃校するも、昭和12年支那事変発生で西多賀に復校し、昭和20年終戦により廃校されました。
西南戦争を始め京城の変(朝鮮の変、壬午事件、京城事変等とも)日清戦争、日露戦争、尼港事件(にこうじけん)、満州支那事変、大東亜戦争など、くまなく参加したそうです。
連隊とは関係ないと思うのですが、皆、痩せててあばらが
仙台市歴史民俗資料館へ
明日、皆さんの所へ、奉公に上がります。www
後ほど県庁の写真もアップしたいと思いますが、県庁を取り壊した業者は、私のお客様でしたね~
ホラーな話しやはりありましたか…
小学校の頃は、よく多賀城の鶴ヶ谷にあった進駐軍の建物の廃墟を探検したものです。
今日は資料館の中の記事を書きたいと思います。
ミモザさんとかぶりますがご了承下さい。
今回初めて入ったのですが、先日の堤焼の記事に書いた、大町の江戸時代後期の絵図があり、改めて感動した次第です。
「県庁」「高等裁判所」そして写真にございあます「第二師団歩兵第四連隊兵舎」など。
勇壮な赤レンガが今あれば、仙台の町並みがもっと変わっていたのかと思うのです。歴史的価値が高いものばかりでしたので、「取り壊し反対運動」がなかったわけでもありません。
特に裁判所には「最古のスプリンクラー」があったとの噂がございました。解体作業中、調査が行われましたが、未確認のままでした。(それとなく、給水管と配水管が天井裏にはあったそうな・・)
中学校帰り道、榴ヶ岡駅で下車。あの建物の周辺を探検いたしました。
今は明るくなった公園ですが、(また始まりますが)いくつものほらーな話がございました。
「夜中に兵隊の声がする」とか・・
貴重な心霊スポットも取り壊されました。
残念!
あら~見た事のある、中に入った事のある
建物が緑の芝生の向こう側に見えました。
歩兵第4連隊の建物だったとは聞いていましたが、よく調べられていますね。
その当時の事を思うと、日本の為に戦った
若者に思いを馳せます。
大変な時代だったのですね
だってこんな時間にコメントですからねぇ
戦争についてあまりにも無知な自分に腹が立っているところです。
一度本気で調べてみたいと思っているのですが、時間が・・・
そこまで知ってましたか、もちろん僕はつっこみがあまくて……、やはり大将にもなれば戦犯で処刑ですか。
あの裁判自体の問題もありますが…
僕には、詳しくわかりませんけどね。
米国を知っていた山本五十六は元元負け戦になると知って止めたのですが、誰も聞く耳を持たなかったようですね。
まぁ、負けて良かったのかも?
石原以外は大将になりましたね
また石原以外は戦犯で刑死
「東条上等兵」などと暴言を吐いたのに
石原 生き残れました ww
皆さんあばら骨が見えますね
痩せていたんだね
食糧難だった事が分かるよ
今はそんな方滅多に居ないよね
その滅多のなかにモコが居ます
モコもこの写真と似たり寄ったりです
あそこまで教育と愛国心を入れさせられたのでしょうね。
中に入ってまた新たな発見がありました。
ガリガリがいいとは言いませんが、本当に見事にアバラが浮いてます。
すばらしい記事だと思います (^^♪
むかしと~全然 食生活がちがうんだから ガリガリは当然
でも~むかしのほうが体力はあったように思いますが
もちろん精神力も (^_-)-☆