本日、夜勤明けにもかかわらず、祭りに向かいました。
中新田町は仙台より北へ1時間程向かいます。
仙台近郊の中では、かなり雪深い町です。
火伏せの虎舞の由来
言い伝えによると (明治35年4月30日の大火により文献による記録を消失)
今から約650年前「文和3年・1354年」この地を治めた大崎義隆公の始祖斯波家兼公(しばいえかね:足利一族)は、三河の国から奥州管領として赴任し、中新田城を築きました。
その時、城主は氏神として場内に八幡神社と稲荷明神を祀り、毎年初午の日に稲荷明神の祭礼を行いました。
この町は、西方に奥羽山脈が連なり早春より初夏にかけて西北の強風が吹き荒れ、昔から大火になることもしばしばでした。
城主は住民をこの災厄から守るため、易の文献にある「雲は龍に従い、風は虎に従う」の故事にならって、稲荷明神の初午祭に虎舞を奉納し、虎の威をかりて、風をしずめ火伏せを祈願したのがこの虎舞の始まりだと言われています。
誰だ~~笑ってるのは・・・・ これでも虎だぞう!!
この演技をしていたのは、この子達です。
地元の中学生です。
おっかね~・・・・・て言ってましたよ。
演技が終わると、振る舞い餅を巻きます。 餅、見えますか? 皆、手を伸ばしてます。
ここで行なわれます
虎にかまれた子供は、ギャーギャー泣いてました。
でも、無病息災・・・元気に育てよ!!
すみません、本日眠くてもう駄目です。
中新田の町並みと、火伏せの虎舞の発祥の地、多川稲荷大明神は明日UPします。
ついでに、伊達政宗と大崎氏の関わりをチョット・・・
中新田合戦
天正16年(1588)1月、大崎氏の内紛に乗じて伊達政宗は大崎領に侵攻します。
大崎氏はこれに抵抗することも出来ず、中新田城に籠城する。
2月になると伊達勢は中新田城を包囲するが、城の周囲の湿地に足を阻まれ、その上、大雪によって撤退を余儀なくされた。
これを好機と見た南条隆信は追撃を指示し、中新田城内の大崎勢は城から討って出て伊達勢は窮地に陥る事となります。
さらに追打ちをかけるように、これまで伊達氏に属していた大崎氏の一族黒川晴氏が伊達氏から離反し、桑折城にて伊達勢を打破った。
その際、敗走する伊達勢の大将の一人であり、晴氏の女婿であった留守政景を見逃している。
その2はこちらから
中新田町は仙台より北へ1時間程向かいます。
仙台近郊の中では、かなり雪深い町です。
火伏せの虎舞の由来
言い伝えによると (明治35年4月30日の大火により文献による記録を消失)
今から約650年前「文和3年・1354年」この地を治めた大崎義隆公の始祖斯波家兼公(しばいえかね:足利一族)は、三河の国から奥州管領として赴任し、中新田城を築きました。
その時、城主は氏神として場内に八幡神社と稲荷明神を祀り、毎年初午の日に稲荷明神の祭礼を行いました。
この町は、西方に奥羽山脈が連なり早春より初夏にかけて西北の強風が吹き荒れ、昔から大火になることもしばしばでした。
城主は住民をこの災厄から守るため、易の文献にある「雲は龍に従い、風は虎に従う」の故事にならって、稲荷明神の初午祭に虎舞を奉納し、虎の威をかりて、風をしずめ火伏せを祈願したのがこの虎舞の始まりだと言われています。
誰だ~~笑ってるのは・・・・ これでも虎だぞう!!
この演技をしていたのは、この子達です。
地元の中学生です。
おっかね~・・・・・て言ってましたよ。
演技が終わると、振る舞い餅を巻きます。 餅、見えますか? 皆、手を伸ばしてます。
ここで行なわれます
虎にかまれた子供は、ギャーギャー泣いてました。
でも、無病息災・・・元気に育てよ!!
すみません、本日眠くてもう駄目です。
中新田の町並みと、火伏せの虎舞の発祥の地、多川稲荷大明神は明日UPします。
ついでに、伊達政宗と大崎氏の関わりをチョット・・・
中新田合戦
天正16年(1588)1月、大崎氏の内紛に乗じて伊達政宗は大崎領に侵攻します。
大崎氏はこれに抵抗することも出来ず、中新田城に籠城する。
2月になると伊達勢は中新田城を包囲するが、城の周囲の湿地に足を阻まれ、その上、大雪によって撤退を余儀なくされた。
これを好機と見た南条隆信は追撃を指示し、中新田城内の大崎勢は城から討って出て伊達勢は窮地に陥る事となります。
さらに追打ちをかけるように、これまで伊達氏に属していた大崎氏の一族黒川晴氏が伊達氏から離反し、桑折城にて伊達勢を打破った。
その際、敗走する伊達勢の大将の一人であり、晴氏の女婿であった留守政景を見逃している。
その2はこちらから
虎舞ってTVでしか見たことねぇんで、いっぺんライブで見でみでーのっしゃ~
んでも、夜勤明けの遠出は危ねがら気ぃ付けさいよ!
拙は笑いませんぞっ ww (笑ってるぅ)
一昨日、海音寺潮五郎「伊達政宗」読了。
大崎氏チョコット出てきますね。
子孫は、どーなったんでしょう?
ところで虎ならぬ「豚インフルエンザ」。
夜勤明けの遠出とか無理は禁物ですよ。
休養と栄養が結局は最大の防御方法ですから。
ひーさん、あんましがんばらないで下さいね。
今しがたWHOが「フェーズ5」を宣言しました。
そろそろ我々の日常生活にも、現実的な影響が出そうです。
とりあえずはマスクと保存食品かな・・・
皆様、お気をつけて・・・何が起こるかわからないですからね・・・
なんだもない人でした。
来年のこの日に行って下さい。
駐車場の案内が道路にあるし・・・
午後からの方が空いてていいようです。
そこに立ってる直垂姿のお武家様が、ずっと気になってました。
あのお方、斯波家兼公だったんですね。
「誰だ~~」のキャプションの虎・・・照れ笑いをしてるみたいな表情で、思わず心がなごんでしまいます。
大崎氏は出羽の最上氏と同じく、奥州管領・斯波氏の分れです。
大崎氏には伊達家から養子が入ったりもしていますが、大崎義隆と最上義光は反伊達の共同戦線を張っていたのですね。
大崎合戦の一部始終は、紫桃正隆先生の『政宗に睨まれた二人の老将』(宝文堂)に詳しく書いてあります。
私が紫桃先生の著作にはまる馴れ初めになった本です。
そういえば、桃の写真を拝見した時に思ったのですが・・・
和歌には桃や梅よりも、桜が詠まれることが多いですね(ただ単に「花」といえば桜のことですから)。
ところが漢詩でよく読まれるのは、桃や李です。
中国の人は、香りのいい花が好きなんでしょうか。
面白い対比だと思います。
虎、どれも表情が違っていて、面白いです。
その後の義隆は豊臣秀吉から上杉景勝付を命ぜられ、会津で没したようです。その子息たちは南部氏、最上氏などに仕えたようですが、滅亡したと言ってもいいのではないでしょうか?
現在はご存知のように大崎市として地名としてその存在を歴史に残していますね。
元々は政宗と遠い親戚にあたるはずですが・・・
紫桃正隆先生の本は、図書館に色々あったようなので、借りてこようと思ってました。
桜はその頃から、日本を代表する花だったのですね。
中国では桃ですか~色も濃いしね。
地元の夕方のニュースは、どこもこの祭りの映像でした。
学生時代「国立花山少年自然の家」でボランティアをしておりましたが、「日本にいる留学生の交換会」なる事業がございまして、そのアトラクションに「火伏せの虎舞」を披露していただいた事がございます。
日本の伝統芸能がどのように受け入れられるかとの興味もありましたが、外国からの招待客からは大喝采を頂戴しました。
また演じている子供達もすばらしい演技を披露してくれました。
すばらしい伝統芸能だと思います。