数年前から気になっていた社に行ってきました。
利府街道つまり石巻街道(仙台松島線:県道8号線)を走っていると鳥居
と奥のほうに小さなお堂の様な社が見えるのです。
松島の裏側といいますか、北西の辺りで、松島チサンカントリーのあたりです。
何の神社かと思って楽しみにして行きましたら、馬櫪神を祀る馬櫪神社でした。
どうも、平安時代、京都から勧請したもののようです。
石碑はいつものように、湯殿山、月山などのよく目にするものでしたが、天皇の文字が見えどうも軍馬として使われた馬も供養されたのかも知れません。
神社よりも気になったのは、この道路です。
青い点線は、明治23年に東北本線が敷設された跡です。
東北本線は以前「山線」と呼ばれこちらの道に旅客線としての軌道がありました。
しかし昭和31年に「海線」側に旅客列車が走ることになり、電化及び複線化などを「海線」
が担うことになったのです。
その為「山線」は岩切~品井沼間を昭和37年に廃線。
しかし、地元の力で岩切~利府間が支線として残されたのです。
そこで、利府の旧、東北本線「山線」の一部に静態保存されている
ED91&C58のSLはこちらにUPしました。クリックしてご覧下さい。
利府街道つまり石巻街道(仙台松島線:県道8号線)を走っていると鳥居
と奥のほうに小さなお堂の様な社が見えるのです。
松島の裏側といいますか、北西の辺りで、松島チサンカントリーのあたりです。
何の神社かと思って楽しみにして行きましたら、馬櫪神を祀る馬櫪神社でした。
どうも、平安時代、京都から勧請したもののようです。
石碑はいつものように、湯殿山、月山などのよく目にするものでしたが、天皇の文字が見えどうも軍馬として使われた馬も供養されたのかも知れません。
神社よりも気になったのは、この道路です。
青い点線は、明治23年に東北本線が敷設された跡です。
東北本線は以前「山線」と呼ばれこちらの道に旅客線としての軌道がありました。
しかし昭和31年に「海線」側に旅客列車が走ることになり、電化及び複線化などを「海線」
が担うことになったのです。
その為「山線」は岩切~品井沼間を昭和37年に廃線。
しかし、地元の力で岩切~利府間が支線として残されたのです。
そこで、利府の旧、東北本線「山線」の一部に静態保存されている
ED91&C58のSLはこちらにUPしました。クリックしてご覧下さい。
見に行きたくなりました。
本線で松島~愛宕あたりにも田圃の向こうに見える小さな鳥居があって、ちょっと気になってたんです。
見捨てられたようなお堂も捨てたもんじゃありませんね
蒸気機関車から飛んだ火の粉が飛んで神社が燃えたので、
現在地に引っ込んだんだとか~
車でないと行けないところでもありますが。
でも気になっていたものがひとつ解決しました。
有り得る話しですね。
寄贈した人の名前には地元の人の名前が彫られています。
こうして守られていることは良いことですね。
こうしたマイナーな神社からは利益がでませんからね。
単線だったんです~か?
ワタシも気になってたんですよ
春になるとキレイに桜が咲いていて、いいシチュエーションなんですよねぇ
あの中の道路は昔線路だったんだ
知らなかったー
以来、塩竈線の駅と区別するために「新駅」って呼ばれることに・・・
んでも、塩竈線も廃線から久しいし・・・いったい、いつまで「新駅」なんだべ?
なにげない、また平凡ですらある風景です。
でももう長い間こんな「ほっとできる場所」に佇んでいません。
廃線跡は、故宮脇俊三氏の一連のシリーズでずっぽりはまったことがあります。
「山側の迂回線」は軍部優先の時代にはあちこちで見かけられましたね。
艦砲射撃や上陸作戦をを想定しての敷設でした。
当時は東海道本線よりも中央本線を優先しようとしたことさえありました。
それと海側のギリギリの土地をトンネルとセットで建設していく技術も不足していたことも影響しています。
小田原~熱海間、そして丹那トンネルの歴史ですね・・・
話が長くなってしまいました。廃線跡を探訪していると、元来「道」として作られた道路と違い、「鉄道」跡の緩やかな曲がり具合とか、萌えてしまいます・・・
伸びて、俺たちが居なくなって10年ぐらいは持つかも?