仙台のお花見と言えば、東の榴ヶ岡公園と西の桜ヶ丘公園があります。
桜ヶ丘公園 と思った人の為に・・・・
現在の通称、西公園ですね。
江戸時代には仙台藩の家臣の屋敷があったところで、後の白石城主の片倉小十郎邸などのがあったところです。
明治に入り、桜ヶ岡公園として開園しましたが、後に仙台の東側に「榴岡公園」が作られこれを「東公園」といいました。
それに対し「桜ヶ岡公園」は「西公園」と呼ばれるようになったのですね。
榴岡から仙台市内に向かう二つの通り、それが「二十人町」と「鉄砲町」です。
藩政時代は、足軽の町で、禄高は低いが誇りは高く持ち
弓の稽古、鉄砲の稽古に精進する武士たちの張り詰めた空気の町だったそうです。
四代藩主、綱村公が母の供養に為に榴岡に釈迦堂を建て二つの町は、鐘の音が響く門前町となりました。
明治になり、榴岡に第四連隊やって来るのです。
若い兵隊さんが東北各地から集まり、馬も人も絶え間なく2つの通りを行き来し店は遅くまで賑わったのです。
これから、数話に渡り第四連隊と戦争と庶民の話をして見たいなと思います。
その前に、先日友人の「ぐずらさん」から地図をいただきました。
明治45年の仙台市内地図です。先日私が買いました地図は、昭和3年のものです。
こんな物も、仙台市名家及実業家一覧図
仙台市名家及実業家便覧
あとでじっくり見ようかと・・・
そうそう小さくですが、塩釜も掲載してましたが、字が良く見えません。
さて、二十人町に戻りましょう。
せっかくですから、この地図の二十人町と鉄砲町アップします。
現在は駅の東側は急ピッチで開発が進んでます。
もちろん知っていたのですが、写真を撮りに行くのが遅すぎました。
家無くなり、道の形は変わりもうそこには、二十人町も、鉄砲町も消えようとしています。
つづく
桜ヶ丘公園 と思った人の為に・・・・
現在の通称、西公園ですね。
江戸時代には仙台藩の家臣の屋敷があったところで、後の白石城主の片倉小十郎邸などのがあったところです。
明治に入り、桜ヶ岡公園として開園しましたが、後に仙台の東側に「榴岡公園」が作られこれを「東公園」といいました。
それに対し「桜ヶ岡公園」は「西公園」と呼ばれるようになったのですね。
榴岡から仙台市内に向かう二つの通り、それが「二十人町」と「鉄砲町」です。
藩政時代は、足軽の町で、禄高は低いが誇りは高く持ち
弓の稽古、鉄砲の稽古に精進する武士たちの張り詰めた空気の町だったそうです。
四代藩主、綱村公が母の供養に為に榴岡に釈迦堂を建て二つの町は、鐘の音が響く門前町となりました。
明治になり、榴岡に第四連隊やって来るのです。
若い兵隊さんが東北各地から集まり、馬も人も絶え間なく2つの通りを行き来し店は遅くまで賑わったのです。
これから、数話に渡り第四連隊と戦争と庶民の話をして見たいなと思います。
その前に、先日友人の「ぐずらさん」から地図をいただきました。
明治45年の仙台市内地図です。先日私が買いました地図は、昭和3年のものです。
こんな物も、仙台市名家及実業家一覧図
仙台市名家及実業家便覧
あとでじっくり見ようかと・・・
そうそう小さくですが、塩釜も掲載してましたが、字が良く見えません。
さて、二十人町に戻りましょう。
せっかくですから、この地図の二十人町と鉄砲町アップします。
現在は駅の東側は急ピッチで開発が進んでます。
もちろん知っていたのですが、写真を撮りに行くのが遅すぎました。
家無くなり、道の形は変わりもうそこには、二十人町も、鉄砲町も消えようとしています。
つづく
しっかり徘徊してください ww
昔を懐かしむモコも歳を取ったんだね
昭和って激動のあった時代だよね
第2次世界大戦もあったし・・
時代が急速に進歩の代表と言っていいよね
電話だって携帯に
テレビや電化製品は凄い進歩だよ
パソコンなんてモコの子供時代に無かったし
FAXもそうだよね
う~ん昔の子供の遊びも無くなったね
この町は母の実家があったところです。
先日ぐずらが持っていった二十人町の小冊子の古い写真の一部は、
母の実家から提供してもらったものです。
最後の写真の釈迦堂からの風景もそうなんですよ。
小学校の頃、週末はこの町で過ごしていました。
先日この通りを車で走りましたが、さらに開発が進んでいてびっくり
もうどこを走っているのかわからなくなるくらい…
仕方のないことだけど悲しかったです
それにしても、実業家便覧、すごい数の人が載ってますね。
自分で「片倉小十郎の子孫」と言っておりました。
そういえば、西公園ではよく出くわしていました。
昔の自分ちだったのですね。
あと、1学年上の山本君に、「どこから通ってるんですか?」と聞いたところ、
黙って西公園のそばの、知事公邸を指差しました。
山本壮一郎氏の時代です。
花見の季節の朝、高校への通学道の西公園は、ゴミの山でした。
よくもこれだけ汚せるものだと、あきれたことを憶えています。
仙台の歴史に触れる事が出来て嬉しいです。
今年の2月に孝勝寺を訪ね、お寺の方から
綱村公が母の為に立てた釈迦堂を見てきました。
二十人町と鉄砲町は、仙台に来て間もないころ
スケッチに行った場所でした。
続編を楽しみにしています
気になります (^_-)-☆
今は今しか撮れません。
町の開発が進んだ時、あの写真貴重ですよ。
文化祭のたんびにレンタルしました。わがままも聞いてくれましたし、何せ学生には「やさしかった」お店でした。
「加藤畜産」もまだお店を構えていらっしゃいますし、あの老舗果物屋さん本店も、まだございます。
ですが、再開発ですか。
「鉄砲町」「二十人町」「エックス橋」
死語になってしまうのでしょうか。
京都のようにできないのかなぁ。
近所の子と遊ぶことなんて無くなってしまったようです。
この地は、駅裏と言われてなかなか発展しなかったところですが、西側からの通路も増え、刻々と変わってます。