なんか・・・お墓の写真で申し訳ございません。
この辺一帯は、平家の落人の末裔の方々が住んでおります。
写真は現在の墓地の一部です。
チョット見難いのですが、この4つはすべて平家のお墓です。
外にも沢山あるのですが、丁度並んでいましたので・・・
古いお墓は、山の中にひっそりとあり、子孫の人々にしかわからない場所にあります。
何時頃からあるのか、まだ調べていませんが、この地に逃れてきたのは、当然壇ノ浦の戦いに敗れてからのことになります。
以前の記事「定義如来:平貞能公」から抜粋です。
詳しくは定義如来としてホームページを作っております。ご覧下さい。
または、左のサイドバーに貼り付けております。
定義とは平貞能(さだよし)の字を変えて定義としたものです。名を隠す為でしょう。
今から約八百年前、平重盛公が平和祈願のため中国の欣山寺に黄金を寄進。
その際に送献されたのが、阿弥陀如来の宝軸でした。
平家が壇の浦の戦いに敗れた後は、平重盛公の重臣・肥後守平貞能公(たいらのさだよし)がこの宝軸を守り、
源氏の追討を逃れるため名も定義と改め、この地に隠れ住みました。
それが定義如来という呼び名の由縁でもあります。
とすれば、これ以降辺りからのお墓と思われます。
行事についてなのですが、ここに残る行事や仕来りがほんの1代前まで残っているのです。
それは、一般の家では行われない仕来りもあります。
今だったら、殿様や天皇家ぐらいじゃないの? と思われるものも・・・
もう少し、調べてみます。
家紋は丸に剣片喰紋を使用してますね。
京都・大阪に多い家紋のようです。
この辺一帯は、平家の落人の末裔の方々が住んでおります。
写真は現在の墓地の一部です。
チョット見難いのですが、この4つはすべて平家のお墓です。
外にも沢山あるのですが、丁度並んでいましたので・・・
古いお墓は、山の中にひっそりとあり、子孫の人々にしかわからない場所にあります。
何時頃からあるのか、まだ調べていませんが、この地に逃れてきたのは、当然壇ノ浦の戦いに敗れてからのことになります。
以前の記事「定義如来:平貞能公」から抜粋です。
詳しくは定義如来としてホームページを作っております。ご覧下さい。
または、左のサイドバーに貼り付けております。
定義とは平貞能(さだよし)の字を変えて定義としたものです。名を隠す為でしょう。
今から約八百年前、平重盛公が平和祈願のため中国の欣山寺に黄金を寄進。
その際に送献されたのが、阿弥陀如来の宝軸でした。
平家が壇の浦の戦いに敗れた後は、平重盛公の重臣・肥後守平貞能公(たいらのさだよし)がこの宝軸を守り、
源氏の追討を逃れるため名も定義と改め、この地に隠れ住みました。
それが定義如来という呼び名の由縁でもあります。
とすれば、これ以降辺りからのお墓と思われます。
行事についてなのですが、ここに残る行事や仕来りがほんの1代前まで残っているのです。
それは、一般の家では行われない仕来りもあります。
今だったら、殿様や天皇家ぐらいじゃないの? と思われるものも・・・
もう少し、調べてみます。
家紋は丸に剣片喰紋を使用してますね。
京都・大阪に多い家紋のようです。
凄い歴史のある墓だね
子孫はまだ生きてこの墓を守っているのかしら・・
写真に写っている墓は比較的新しいみたいだね
それでも子孫が要るって言うだけでも驚きだよ
絶滅していないんだねぇ~
紋も立派だね
以前、職場の女性から聞いた話では、
彼女が嫁入りした家が落人の家系で300年ほど前に近くの落人村から分村して現在地に移住したそうだけど
新村を開いたときに落人狩りに備えて一軒だけ村の入口近くに住まう役目の家があって、
その家は今でも「見張り」という屋号で呼ばれているそうです。
調べて本でも出すか?
文献はあまり無いのかもしれない。
おらいのお姫様(かぁちゃん)の話を聞くと、気になることもチョコチョコあって、調べてみようかと?
何か情報あったら教えて下さい。
そういえば、筆者の家紋、これでした。
平家の血筋とかいう話でしたから、繋がっているのかもしれません。
九州にも多い家紋だそうです。
桃源児さんも平家の血筋ですね。
しっかり書かれていますね~
「○○家の墓」が一般的ですもの
古いお墓も気になりますけれど
これは今も秘密なのでしょうね
懐かしい家紋と思いました~
丸に剣片喰 私の実家の男性の
紋です 女性は八重桔梗
繋がりがあるのでしょうね~
実家の菩提寺は清盛塚の隣りです
以前の記事も読ませて頂きました
続き 楽しみにしてま~す
平家の墓~ですね
どういうことでしょう~ね
平家一門の墓でしょ~うか?
”平家”に反応しました。
今日の拙記事は、ひーさんにも捧げていますよ
それでは、興味は尽きませんね。
次回は、いつになるかまだわかりません。
情報が溜まったらアップしようと思います。