多賀城市内の国府が築かれた辺りをウロウロしていると・・・・
新発見
何これ いつの間に空き地の隅に記念碑が・・・?
漏刻(水時計)
『日本書記』には、我が国では、斉明天皇6年(660年)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が初めて「漏刻」を造り、人々に時刻を知らせ、天智天皇10年(671年)4月25日(現行暦6月10日)に「漏刻」を新天文台に据え、鐘や鼓(つつみ)で時を知らせたと言う。
この「漏刻」は、奈良国立文化財研究所が昭和56年に奈良県明日香村の水落遺跡の発掘調査で発見された遺構から復元されたもので、天智天皇が初めて造ったとされる漏刻台の跡であると考えられているようです。
水落遺跡の「漏刻」は、中国唐の時代に考案された4段式の「漏刻」と考えられます。
上部の給水槽から最下段の受水槽まで、管によって順々に水を流し、受水槽には人形が一定間隔に時刻を刻んだ箭(や)を持ち、水面に浮かべた箭が浮上して人形が指差すところによって、時刻を計る仕掛けです。
何故、奈良県明日香村の遺跡がここに再現されているか
奈良時代の宝亀5年(774年)11
月10日(グレゴリオ暦774年12月21日)に「陸奥国に漏刻を置く」と『続日本書記』に記されており、陸奥国府とともに東北支配の中枢機関として設置された多賀城に「漏刻」が置かれていたものと考えられています。
※グレゴリオ暦については、「暦のはなし」藤原益栄著によります。
時を告げた人形はこんな感じですね
ホームページ「多賀城」
新発見
何これ いつの間に空き地の隅に記念碑が・・・?
漏刻(水時計)
『日本書記』には、我が国では、斉明天皇6年(660年)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が初めて「漏刻」を造り、人々に時刻を知らせ、天智天皇10年(671年)4月25日(現行暦6月10日)に「漏刻」を新天文台に据え、鐘や鼓(つつみ)で時を知らせたと言う。
この「漏刻」は、奈良国立文化財研究所が昭和56年に奈良県明日香村の水落遺跡の発掘調査で発見された遺構から復元されたもので、天智天皇が初めて造ったとされる漏刻台の跡であると考えられているようです。
水落遺跡の「漏刻」は、中国唐の時代に考案された4段式の「漏刻」と考えられます。
上部の給水槽から最下段の受水槽まで、管によって順々に水を流し、受水槽には人形が一定間隔に時刻を刻んだ箭(や)を持ち、水面に浮かべた箭が浮上して人形が指差すところによって、時刻を計る仕掛けです。
何故、奈良県明日香村の遺跡がここに再現されているか
奈良時代の宝亀5年(774年)11
月10日(グレゴリオ暦774年12月21日)に「陸奥国に漏刻を置く」と『続日本書記』に記されており、陸奥国府とともに東北支配の中枢機関として設置された多賀城に「漏刻」が置かれていたものと考えられています。
※グレゴリオ暦については、「暦のはなし」藤原益栄著によります。
時を告げた人形はこんな感じですね
ホームページ「多賀城」
今みたいにセカセカしていないのが羨ましいね
PCも無いし、自家用車も飛行機も無い・・
どちらがいいのかは、判断できませんが・・・住めば都と言いますが、住めばその時代とでも言いますでしょうかね。
なんだかストーンヘンジのような佇まいですね。
いつの間に出来てたんでしょ?
後ろのお宅もびっくりですね~
ぜひ~
中身~
みてみたいです~~
理系としては (^_-)-☆
時を管理する役人、結構、大変仕事のようですね。
って何に驚いたかって、あのあたりに、こんなに住宅が建っていたんですね。
昔の多賀城町は、仙台の取り巻きである塩竃の、さらに子分みたいな、ささやかな町でしたからねー。ずいぶんと人口が増えましたよ。
町長さんは病院の院長でして、私もよく通院してました。
で、江戸の「ドーン」の時報も、西洋の文物が入るまでは、確か水時計か何かのからくり時計を元にしていたような記憶があります。
中国の鼓楼も似たような具合だったのでしょうね。のんびりしていた時代を体験してみたかったです。
仙台の「荒城の月」のメロディーは、丸光の担当者が水時計を見て・・・
多賀城にある歴史博物館には何度か
行っていますが、水時計は知らなかったです。
図で時計の内部を見ていますが、昔は寒くて
水も凍った事でしょうね。
確かに地方でも国府なら漏刻が置かれても不思議ではありませんね。特に多賀城は大宰府と並んで「天皇(おおきみ)の遠の朝廷(みかど)」。数ある国府の中でも別格でしたから。
続日本紀にそのことが書いてあるとは知りませんでした。今度、図書館で調べます。
男前ですタイプかも!
多賀城方面行った事ないのでブラブラしてみたいな~。