国鉄仙石線(現JR東日本)の前身は宮城電気鉄道です。
宮城電気鉄道は、大正14年(1925年)6月に仙台~西塩釜間で開業し、昭和3年(1928年)11月に仙台~石巻間が全通しました。
昭和15年(1944年)5月に国有化され国鉄になったのです。
仙石線駅舎昭和40年代
仙石線仙台駅ホーム
仙石線踏切 昭和22年 リン・ジョンソン氏撮影 「なつかし仙台2」より
仙石線 旧線仙台駅ホーム 最終日
宮城電気鉄道は、大正14年(1925年)6月に仙台~西塩釜間で開業し、昭和3年(1928年)11月に仙台~石巻間が全通しました。
昭和15年(1944年)5月に国有化され国鉄になったのです。
仙石線駅舎昭和40年代
仙石線仙台駅ホーム
仙石線踏切 昭和22年 リン・ジョンソン氏撮影 「なつかし仙台2」より
仙石線 旧線仙台駅ホーム 最終日
多賀城駅は念願の高架になりました。
確か、「多賀城の散歩道」のカテゴリーに入れていたと思います。
懐かしい光景ですよね。
私も愛着のある風景です。
いやー懐かしいです。
高校・予備校・大学と多賀城~仙台まで通学に使っていました。
仙台駅のホームで帰宅時に
大好きだったあの子を待ち伏せしたり。
地下通路も懐かしいです。
終電発車時に必死で階段駆け上がってきた人が
間に合わなくて、悲しそうな目で見送っていたのを思い出しました。
なんだか見ているうちにいろいろなことを思い出し
ウルッときてしまいました。
貴重な動画ありがとうございました。
コンクリートのジメっとしたトイレでしたね。
それだけ大変な思い出では、一生忘れませんね。
男子トイレも小便はコンクリートの溝を流れるタイプでした。
仙石線は長年の足でしたからね。
東口の改札のところにおトイレがありましたよね。
小6の時、その当時は流行っていた(?)オーバーオールをはいて塩釜から仙台までお友だちとでかけました。
電車を降りた際、トイレへ行こう、と友だちと。
オーバーオールは肩ひもをとらないと用が足せません。
カチッととり、前の部分がタラっと垂れたとたん、胸ポケットに入れていた財布が落下。。。
あ”っ!!! どうしようっ!と慌てましたが、よく見れば、トイレはぽっちゃん式ではなく、コンクリートの管を半分に割ったものでしたので、これなら届くって思って袖をまくって手をのばそうとしたら、、、、
私の前のトイレに入っていた友人がさっさと用をすませて、ジャーっと流したのが、私のところへ。
財布が流されました。
それでも彼女のトイレットペーパーに引っかかってまだ手の届くところにかろうじてあったので、泣く泣く目をつぶって拾おうとしたら、、、
友人の先に入っていた女性のジャーッという音
それまで躊躇していたのですが、便器に脇がつくほどかかんで、一気に拾いました。
楽しいはずの買い物は、お札(確か500円礼)はダメになり、コインだけになり、お気に入りのカンバス布の財布もさよなら、さんざんな一日となりました。
昭和52年ごろの話です。まだそんなトイレだったんです。
久しぶりに里帰りしたら新しい仙石線になっていて、最後にあのプラットホームを利用したのがいつだったか思い出せないくらいでしたので、この映像見せていただいて本当に嬉しかったです。
長々とお邪魔しました
あっ! こりゃ失礼!仙石線沿線の街の人はそれぞれ思い入れがあることでしょう。
多賀城駅の高架工事が始まっています。駅前というか横の通りの店はもう全部移転しました。
その前に写真を撮っておくべきでした。取り敢えず、現状の写真は撮りましたので近い内にアップしましょう。
酔漢さん曰く「青春の仙石線」。まったくその通りです。
塩竃多賀城を始め、沿線に住んで少年から青年時代を送った人間にとっては、単なる「鉄道」以上の思い入れがあります。
東口の「国電のりば」。東京以北では唯一の「国電」でした。少なからず誇らしく思ったものです(今では毎日地獄の中央線通いですが)。
西口の改札口。二女へ向かう彼女とは毎朝のお別れの場所でした。
地下道のイラスト。高校生当時は別のもっと素朴な絵が描かれていました。
ホームへ続く階段は、乗降客に比べあまりに狭く、ギュウギュウでした。
階段下で発車ベルが鳴り始めても、降りてくる人並みがいれば階段を登れないため、1本見送ることになりました。
ホームの立ち食いそばは、酔漢さんがゴックン!の時にズルズルやっていたのは私です。
「鉄」のイベントパワーすごいでしょ?今は東京駅ホームで最後の寝台列車に終結しています。
そうなんですよ…それ程昔じゃないのに…もう見られないからそう思うのでしょうね
覚えてます、つーかそんなに大昔の
ことじゃなですよね。ここから石巻
・女川まで仕事で随分いきました^^
最近ローカルの記事ばかりで、まぁ、いつもですが・・・出かけてないんですよ。
仙石線は東北線や仙山線もさることながら、かなり高い乗降率だと思います。
あの映像は、貴重かつ懐かしい映像です。
替わり行く歴史の中で、心の底にある郷土愛が滲み出てきます。
動画を見ていると、懐かしいですね。
仙台も大きく変わってきましたね。
榴ヶ岡駅も今は地下を走っていますし、
余り、電車は利用しない私でも動画を見ていると、郷愁があって良いですね。
なるほどいいところに着目・・・
江ノ電は一度しか乗ったことはありません。
鎌倉の町の中を、いや住宅の横を・・・
何とも言えない魅力ですね。
存在しているうちは、当たり前なのですが・・・きっと、両親も同じかも知れませんね。
あの、仙石線の各駅のイラストが飾られ明るくなったのを覚えています。
発車のベルやチャイムがあの地下道に響くとダッシュしましたね~
それだな!
あの通路は、線路だったか!?
なるほど、繋がってきました。
後で探してこの記事にTBしておきます。
勿論読むためではないのですが・・・・
私の街の遺跡の中にある家は、勝手に改築もできず、市内は下水設備が普及しているのに、そこだけは、許可が落ちないのです。
いまだに、汲み取りです。
あれは、迷惑でしょうねぇ
あの古いホームにはたくさん思い出がありました。
たまに昔の仙台駅のホームを夢で見たりしますよ
動画を見てたらちょっぴりうるっときました
専門学校に通ってた頃はまだこのホームで、時間ギリギリの時はよく地下通路をダッシュしましたよ
だからオラたちの知ってる地下の改札通路は昔の線路のあとだった・・・
国有化した祭に隧道が狭くて国鉄の標準車両が入らない・・・
それで東八番丁駅を東口に移転させて地上化したらしいよ
駅前がすごく広かったんですね。
ジメッとしたトイレ、昔の駅にはよくありましたね。
今でも、田舎の方は汲み取り式で、湿った感がある場所も。
自分はさっぱり記憶にございません。
あまり気にもしていなかったのかも。
ダメですね。反省!
いましたね~でっかいカゴを持ったばぁちゃん達・・・あれは行商ですよね?
魚とか?・・
いずれその様子の写真もアップします。
あれは、仙山線の写真だったかも?
当時のホームは非常に懐かしいです。
多賀城駅も高架になりますから工事中の写真撮って置きました。
完成したら、比べたいと思います。
伝染病院の近くということは、それに携わる関係かも、結核とかチフスとか??
雪が降りますと、一番ホームに近いポイントはカンデラで凍結防止をしてました。
遅い時間に帰る頃、立ち食いそばの匂いをさけるように電車を待ってました。
つつじがおかの駅では、某女子高の人達が大勢乗ってきて、宮城野原でも某男子校(いづれも当時)の生徒が乗ってきて、小学生の行き場がなくなるのでした。
かつぎやのおばちゃん達も大勢乗っておりました。酔漢の青春は仙石線と一緒にあったのでした。(少し大げさ?でも本当)
仙石線の所に並ぶ人も凄いです。
駐車されてるクラシックな車も素敵!
あと、地図で市立消毒所ってありましたが
今の何にあたるのですか?病院?