政宗公の最近の記事
伊達政宗誕生の秘密 その1
伊達政宗誕生の秘密 その2
誕生の伝説を書いてましたが、今回は政宗公の最後を記したいと思います。
政宗公の誕生は、永禄十年(1567)八月三日です。
寛永三年(1636)五月二十四日(太陽暦6月27日)卯の刻(午前6時)のことです。
公は、江戸桜田屋敷で生涯を閉じました。 享年六十八歳九ヶ月です。
政宗公の遺体は、その日の夜に江戸を立ち、六月三日に仙台に着いております。
遺言により、経ヶ峯に埋葬され、墓室の上には瑞鵬殿が建立されました。
桃山様式の豪華絢爛たる廟は、昭和6年(1931)12月14日廟建築物として国宝に指定されています。
ところが、仙台空襲(昭和20年7月10日)で焼失してしまうのです。
昭和49年に瑞鵬殿を再建する運びとなりました、それに先立ち墓室の発掘調査が行われたにです。
本日の記事は、人類科学、解剖、臨床、法医学の視点から科学していきたいと思います。
政宗の遺骨は防腐剤として棺内に詰められた石灰カルシウムの影響で保存状態は良好でした。
この石灰は貝殻の細片が混入していることから牡蠣灰であることが判明しています。
松島(三陸産)の牡蠣でしょうねぇ、名産となる牡蠣は政宗公の遺骨までも守ってくれたのですね。
遺骨の頭骨、四肢骨、脳幹骨、軟骨部には70歳相当の老年性変化が認められています。
1.肩甲骨 2.鎖 骨 3.上腕骨 4.橈 骨 5.尺 骨 6.骨 盤 7.大腿骨
8.腓 骨 9.脛 骨
政宗公の頭部を上から観察すると、前後に長い長頭形(頭蓋指数74.09)のタイプに属します。
この長頭型は、人類科学的分類から見ると鎌倉期から室町期に見られる頭骨の形で、中世の時代的な特徴が政宗公にも現れていることがわかります。
頭骨そのものは、庶民の平均よりも大きく額は広く豊かで頭脳明晰型の人物だと推定されます。
また面白い特徴がありました。
スペイン人どころか、関東地方以南からはまだ発見されていない
東北地方の古人骨に見ることができる特徴です。
それは、耳部分に「外耳骨腫」と言われる瘤が発見されました。
これは、地域性かつ時代性異常形質と指摘されていますが、一般に出現率の低いこの骨腫が認められたことは、政宗の体内に東北人としての血が濃く受け継がれていることを物語るものでしょう。
我が国で、外耳骨腫が最初に発見されたのは、宮城県細浦貝塚の古人骨であり、以来東北地方の貝塚人骨に多く認められているそうです。
しかし、関東地方以南の貝塚からは今日までのところ、事例はないとのことです。
(1996年時点)
さて、独眼竜と呼ばれた政宗の眼窩(がんか:眼球が入る部分)が気になるところです。
今まで、自分の記事でも俗説の片倉小十郎に斬られたとか、斬らせたとか・・
書いてはいましたが、実際の調査では左右の損傷は見られません。
これは、軟部の疾病によるものと推定されます。
「性山公治家記録」によれば、「疱瘡(天然痘)ヲ患ヒシ時(年月不知)余毒御目ニアツマリテ ソレヨリ 右ノ方 盲イタマシナリ」と記述されています。
なお幼児期の疱瘡による失明でありながら右眼窩の発達に影響が見られないことから。
右目の状態は生前の姿と伝えられています。
伊達政宗甲冑像のように両眼備わった状態で視力のみを失い、眼球内部異常で硝子体が白く濁っていたと考えられます。
眼窩指数は、著しく「高眼窩型」に属し、当時の庶民が「中眼窩型」であることから、政宗の左目は、大きく見開いていたのでしょう。
政宗公の(A)眼窩高は39mm (B)眼窩幅43mm
ちなみに、現代人の(A)は34,3mmですから、大きいことがわかります。
手足の骨は太く筋肉付着部分が発達していることから、鍛錬された体で戦国武将として頑強な政宗を想像させます。
遺骨のX線検査の際、左足の外くるぶしに変形したまま治癒した骨折痕が認められています。
「貞山公治家記録」によると、天正十七年(1589)二月二十六日、米沢城下にて落馬し足を痛めたとあり、また「成実記」にも「御脚ヲ折給フ、御治療ヲ似テ骨ハ付キタリ」と記述されていることから、この遺骨は政宗本人であることが立証されたわけです。
政宗が亡くなる一ヶ月程前の四月十八日・・・・・・
政宗は、ホトトギスの初音を求め経ヶ峯を訪れ、死後ここを墓所とせよと遺言されました。
政宗は死期を察していたのでしょう・・・
「貞山公治家記録」「御名語集」の中から・・・・
寛永十一年頃より軽い嚥下困難が現れ、死亡約五ヶ月前から食欲不振と全身倦怠感を訴えるようになり、五月二日から二十二日の記述には絶食状態ながら腹部周囲は三尺八寸五分(117センチ)くらいに膨張していたとあります。
これは、胃部腫瘤と腹水の貯留と考えられ、しかも臨終まで意識障害が見られなかった等の所見を基に検討すると、死因は、食道噴門癌とそれに伴う癌性腹膜炎だったのではないかと考えられます。
病状の記録を覗いてみよう。
史料「貞山公治家記録」
寛永十三年
四月 十九日「御顔色衰ヘサセラレ、御膳モ進ミ玉ハス」
五月 二日「半井驢庵見廻」
五月 三日「三日より驢庵薬服用」
五月 八日「八日より武田道庵僚治仕候」
五月 十三日「御気色同篇二付而(中略)江戸中之医者者共被仰付、相談可申上意候」
五月 十六日「今大路道三法印ノ薬ヲ服用シ玉フ、少験シアリ、再度御食召上ラル」
五月 十七日「御気色又悪シ」
五月二十二日「上意ヲ似て、御針医ヲ差違サル」
五月二十四日「卯刻、公御薨去、御年七十。」
史料 「御名語集」
正月 十九日「みな人最後の時辞世とて歌をよみ詩をつくる、げにも我等年かたのごとくなれば、死期も近からんと思ひ、辞世ともならんとつらねたり、」
四月 十三日「日夜御薬師衆に御脈など御見せ御薬などめしあがられ候、」
四月二十二日「御病気似ての外あやしくなり、御薬の外、朝の御膳もめし上げられず、晩方少しあげられ候へば、」
五月 二日 「日にしたがひて衰え給ひ、少しづつ御腹張り出申し候よしにて。」
五月 十八日「御腹を押し申し候に、指立ちかね。かなたこなたへ滑るばかりに張り出し候、肩より上御腰より下は御肉おち衰へさせ給ひ、」
五月二十二日「御腹の張りしかと張りつめ申し候時御乳の少し下を紙縒にて廻し御覧なされ候へば、三尺八寸五分廻り申し候、御食とては少しもならせられず、御薬さへ葭の髄にてあげられ候へば、何につけても頼み少なく、いまはの時を待つばかり、せん方なき有様なり」
五月二十四日「かねての西は此の方かと仰せられ、両の手を御候の下に御合わせ、御仆れなされ候(中略)、御目を見ひらき、たかだかと「やっ」と一声仰がさられ、やがて御息絶えぬ」
伊達政宗甲冑姿木像
何度かこのブログでもアップしてますが、瑞厳寺にあるものです。
この像は、政宗の17回忌に、夫人の陽徳院が京の仏師に彫らせたもので「文禄の役」(つまり、秀吉の朝鮮出兵ですね)出兵の際の勇姿といわれ、右眼失明の政宗を忠実に再現したものと伝えられる。
ということは、政宗26歳の頃でしょう。
陽徳院
人類学的は、政宗の顔立ちは、ノーブル(貴族的)タイプと分類されるそうです。
これは、遺伝的に選択された貴族や大名家系の人々に共通するものです。
伊達家としては、元をたどれば、鎌倉初期に始まり、それ以前は藤原鎌足も先祖になります。
そこで、遺伝的に貴族の形質が現れたものと思われます。
そういえば、身長を言ってませんでしたね。
大腿骨の長さから計算した結果、159.4センチと推定されます。
室町時代から江戸時代の成人男性の平均的身長のようです。
DNA鑑定による親子関係
まず、血液型は、初代・政宗B型 二代・忠宗A型 三代・綱宗A型 ひーさんはA型ですww
DNA(デオキシリポ核酸)鑑定には、政宗は毛髪・毛幹部 忠宗は肺組織・軟部組織 綱宗は体毛 を利用している。
鑑定の結果、白血球の血液型を決定する共通の遺伝子DQA1*301型とDPB1*0402型を三藩主が持っていたことが判明し、血縁関係に問題が無いことが確認されたようです。
HLA遺伝子は、省略します。
最後に・・・・・政宗は、後世自分の像を造る場合は、「左モアラバ両眼を共ヘテ置くベシ片目生し付キニテハナシ」と命じています。
つまり、生まれつき無かったわけでは無いので両眼を入れて置くように!ですね
しかし、この調査で、隻眼・・つまり独眼であったことの立証はできなかったようです。
資料には、細かく各骨の数値が並んでいます。
政宗のデータと徳川将軍の平均値・江戸時代の人・現代日本人とを比べています。
この辺で終了します。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
伊達政宗誕生の秘密 その1
伊達政宗誕生の秘密 その2
誕生の伝説を書いてましたが、今回は政宗公の最後を記したいと思います。
政宗公の誕生は、永禄十年(1567)八月三日です。
寛永三年(1636)五月二十四日(太陽暦6月27日)卯の刻(午前6時)のことです。
公は、江戸桜田屋敷で生涯を閉じました。 享年六十八歳九ヶ月です。
政宗公の遺体は、その日の夜に江戸を立ち、六月三日に仙台に着いております。
遺言により、経ヶ峯に埋葬され、墓室の上には瑞鵬殿が建立されました。
桃山様式の豪華絢爛たる廟は、昭和6年(1931)12月14日廟建築物として国宝に指定されています。
ところが、仙台空襲(昭和20年7月10日)で焼失してしまうのです。
昭和49年に瑞鵬殿を再建する運びとなりました、それに先立ち墓室の発掘調査が行われたにです。
本日の記事は、人類科学、解剖、臨床、法医学の視点から科学していきたいと思います。
政宗の遺骨は防腐剤として棺内に詰められた石灰カルシウムの影響で保存状態は良好でした。
この石灰は貝殻の細片が混入していることから牡蠣灰であることが判明しています。
松島(三陸産)の牡蠣でしょうねぇ、名産となる牡蠣は政宗公の遺骨までも守ってくれたのですね。
遺骨の頭骨、四肢骨、脳幹骨、軟骨部には70歳相当の老年性変化が認められています。
1.肩甲骨 2.鎖 骨 3.上腕骨 4.橈 骨 5.尺 骨 6.骨 盤 7.大腿骨
8.腓 骨 9.脛 骨
政宗公の頭部を上から観察すると、前後に長い長頭形(頭蓋指数74.09)のタイプに属します。
この長頭型は、人類科学的分類から見ると鎌倉期から室町期に見られる頭骨の形で、中世の時代的な特徴が政宗公にも現れていることがわかります。
頭骨そのものは、庶民の平均よりも大きく額は広く豊かで頭脳明晰型の人物だと推定されます。
また面白い特徴がありました。
スペイン人どころか、関東地方以南からはまだ発見されていない
東北地方の古人骨に見ることができる特徴です。
それは、耳部分に「外耳骨腫」と言われる瘤が発見されました。
これは、地域性かつ時代性異常形質と指摘されていますが、一般に出現率の低いこの骨腫が認められたことは、政宗の体内に東北人としての血が濃く受け継がれていることを物語るものでしょう。
我が国で、外耳骨腫が最初に発見されたのは、宮城県細浦貝塚の古人骨であり、以来東北地方の貝塚人骨に多く認められているそうです。
しかし、関東地方以南の貝塚からは今日までのところ、事例はないとのことです。
(1996年時点)
さて、独眼竜と呼ばれた政宗の眼窩(がんか:眼球が入る部分)が気になるところです。
今まで、自分の記事でも俗説の片倉小十郎に斬られたとか、斬らせたとか・・
書いてはいましたが、実際の調査では左右の損傷は見られません。
これは、軟部の疾病によるものと推定されます。
「性山公治家記録」によれば、「疱瘡(天然痘)ヲ患ヒシ時(年月不知)余毒御目ニアツマリテ ソレヨリ 右ノ方 盲イタマシナリ」と記述されています。
なお幼児期の疱瘡による失明でありながら右眼窩の発達に影響が見られないことから。
右目の状態は生前の姿と伝えられています。
伊達政宗甲冑像のように両眼備わった状態で視力のみを失い、眼球内部異常で硝子体が白く濁っていたと考えられます。
眼窩指数は、著しく「高眼窩型」に属し、当時の庶民が「中眼窩型」であることから、政宗の左目は、大きく見開いていたのでしょう。
政宗公の(A)眼窩高は39mm (B)眼窩幅43mm
ちなみに、現代人の(A)は34,3mmですから、大きいことがわかります。
手足の骨は太く筋肉付着部分が発達していることから、鍛錬された体で戦国武将として頑強な政宗を想像させます。
遺骨のX線検査の際、左足の外くるぶしに変形したまま治癒した骨折痕が認められています。
「貞山公治家記録」によると、天正十七年(1589)二月二十六日、米沢城下にて落馬し足を痛めたとあり、また「成実記」にも「御脚ヲ折給フ、御治療ヲ似テ骨ハ付キタリ」と記述されていることから、この遺骨は政宗本人であることが立証されたわけです。
政宗が亡くなる一ヶ月程前の四月十八日・・・・・・
政宗は、ホトトギスの初音を求め経ヶ峯を訪れ、死後ここを墓所とせよと遺言されました。
政宗は死期を察していたのでしょう・・・
「貞山公治家記録」「御名語集」の中から・・・・
寛永十一年頃より軽い嚥下困難が現れ、死亡約五ヶ月前から食欲不振と全身倦怠感を訴えるようになり、五月二日から二十二日の記述には絶食状態ながら腹部周囲は三尺八寸五分(117センチ)くらいに膨張していたとあります。
これは、胃部腫瘤と腹水の貯留と考えられ、しかも臨終まで意識障害が見られなかった等の所見を基に検討すると、死因は、食道噴門癌とそれに伴う癌性腹膜炎だったのではないかと考えられます。
病状の記録を覗いてみよう。
史料「貞山公治家記録」
寛永十三年
四月 十九日「御顔色衰ヘサセラレ、御膳モ進ミ玉ハス」
五月 二日「半井驢庵見廻」
五月 三日「三日より驢庵薬服用」
五月 八日「八日より武田道庵僚治仕候」
五月 十三日「御気色同篇二付而(中略)江戸中之医者者共被仰付、相談可申上意候」
五月 十六日「今大路道三法印ノ薬ヲ服用シ玉フ、少験シアリ、再度御食召上ラル」
五月 十七日「御気色又悪シ」
五月二十二日「上意ヲ似て、御針医ヲ差違サル」
五月二十四日「卯刻、公御薨去、御年七十。」
史料 「御名語集」
正月 十九日「みな人最後の時辞世とて歌をよみ詩をつくる、げにも我等年かたのごとくなれば、死期も近からんと思ひ、辞世ともならんとつらねたり、」
四月 十三日「日夜御薬師衆に御脈など御見せ御薬などめしあがられ候、」
四月二十二日「御病気似ての外あやしくなり、御薬の外、朝の御膳もめし上げられず、晩方少しあげられ候へば、」
五月 二日 「日にしたがひて衰え給ひ、少しづつ御腹張り出申し候よしにて。」
五月 十八日「御腹を押し申し候に、指立ちかね。かなたこなたへ滑るばかりに張り出し候、肩より上御腰より下は御肉おち衰へさせ給ひ、」
五月二十二日「御腹の張りしかと張りつめ申し候時御乳の少し下を紙縒にて廻し御覧なされ候へば、三尺八寸五分廻り申し候、御食とては少しもならせられず、御薬さへ葭の髄にてあげられ候へば、何につけても頼み少なく、いまはの時を待つばかり、せん方なき有様なり」
五月二十四日「かねての西は此の方かと仰せられ、両の手を御候の下に御合わせ、御仆れなされ候(中略)、御目を見ひらき、たかだかと「やっ」と一声仰がさられ、やがて御息絶えぬ」
伊達政宗甲冑姿木像
何度かこのブログでもアップしてますが、瑞厳寺にあるものです。
この像は、政宗の17回忌に、夫人の陽徳院が京の仏師に彫らせたもので「文禄の役」(つまり、秀吉の朝鮮出兵ですね)出兵の際の勇姿といわれ、右眼失明の政宗を忠実に再現したものと伝えられる。
ということは、政宗26歳の頃でしょう。
陽徳院
人類学的は、政宗の顔立ちは、ノーブル(貴族的)タイプと分類されるそうです。
これは、遺伝的に選択された貴族や大名家系の人々に共通するものです。
伊達家としては、元をたどれば、鎌倉初期に始まり、それ以前は藤原鎌足も先祖になります。
そこで、遺伝的に貴族の形質が現れたものと思われます。
そういえば、身長を言ってませんでしたね。
大腿骨の長さから計算した結果、159.4センチと推定されます。
室町時代から江戸時代の成人男性の平均的身長のようです。
DNA鑑定による親子関係
まず、血液型は、初代・政宗B型 二代・忠宗A型 三代・綱宗A型 ひーさんはA型ですww
DNA(デオキシリポ核酸)鑑定には、政宗は毛髪・毛幹部 忠宗は肺組織・軟部組織 綱宗は体毛 を利用している。
鑑定の結果、白血球の血液型を決定する共通の遺伝子DQA1*301型とDPB1*0402型を三藩主が持っていたことが判明し、血縁関係に問題が無いことが確認されたようです。
HLA遺伝子は、省略します。
最後に・・・・・政宗は、後世自分の像を造る場合は、「左モアラバ両眼を共ヘテ置くベシ片目生し付キニテハナシ」と命じています。
つまり、生まれつき無かったわけでは無いので両眼を入れて置くように!ですね
しかし、この調査で、隻眼・・つまり独眼であったことの立証はできなかったようです。
資料には、細かく各骨の数値が並んでいます。
政宗のデータと徳川将軍の平均値・江戸時代の人・現代日本人とを比べています。
この辺で終了します。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
政宗の遺骨の写真・・・。ここから色んな事
分かってきますよね。
牡蠣の貝殻に感謝ですね~。
何か、この頭蓋骨見てたら
ゴリ君の父親を思い出しちゃいました(汗)
顔が似てるんだも~~ん。
ゴリ君のお父さん…目が大きいですね。ウフ
この記事書くのに、下書き丸一日、パソコンの前に16時間座ってました。
焼酎を割らないで、コップで2杯と日本酒2杯減りましたよwww
凄いですねー
遺骨の写真を見てただけでも、何かを語りかけてる様で、鳥肌が立ちました。
思わず、手を合わせてしまいました。
正宗の身長は私と同じですね。
もっと大きな方を想像してました。
骨折痕や切り傷痕などは、四百年の時が過ぎても残ってるものなのですね。
科学が進んでくると、語り継がれた歴史も新たに塗り替えられるのでしょうね。
まずまずたいしたべんきょうさせでけらっちゃたねー
ありがとう!!
政宗の誕生の伝説とこの最後の記事は書いて置きたいと思ってましたので。
DNAなんかは、1億年前でも調べられるようですよ。
オズさんの身長。
思っていたより背が低くかったです。ww
独眼もぱっちりと開いていたんですね。
ここまで骨が残っているとは、牡蠣に感謝せねばなりませんね。
現代の科学を素晴らしいと言うか、夢が無いと言うか、考えてしまいますね~
私は、ロマンチックなA型なりぃ~❤
ロマンチックかどうかは~別にして
それにしても~
科学の進歩 恐るべしですね (^_-)~☆
残躯天の赦す所
楽しまずんば是如何
戦国武将伊達政宗・・・年少より戦に明け暮れ戦陣にて体躯を養う
実母に毒殺されかけ
弟を切り
父もろ共敵を討ち
伯父と争い
天下人を欺き
世界帝国と手を組もうとした・・・
武人として政治家として
体力と知力のかぎりを尽くし
粋と侠気を備える者の代名詞として
その名を日本の歴史と文化に残し
今なお本人の全身骨格をもって
自らの王国に不滅の存在を顕現し続けている・・・
いやぁ~
かっこいいっちゃねぇ~
参りました・・・
帚木蓬生サンの医学小説を読んでるみたい♪
たいしたものです、ひーさん ♪