炭焼藤太とは、義経を都から連れて、奥州・藤原秀衡(3代目)に逢わせた、金売吉次の父親です。
金売吉次は、NHK大河ドラマでも、吉次として登場していた。
義経絡みの話は、あまりにも多すぎて、話は日本全国に飛び火してしまう。
だからあまり触れないようにしよう。
金売吉次(橘次)の伝説は、日本に点在するようだが、金成町に言い伝えられる、その父の伝説を話したいと思います。
伝説そのものは、元金成町のホームページから引用したものです。
地元の小学校では、この伝説を子供達に教えているようです。
平安時代の末に金成で炭焼きをしている藤太のもとへ、京都の三条右大臣道高の娘おこやがやってきて来ました。
清水寺の観音様のお告げで炭焼藤太の嫁になるため、はるばる陸奥に下って来たというのです。
藤太はおこやの申し出を受け入れ二人は仲むつまじく暮らしはじめた。
ある日おこやは、親から譲ってもらった砂金を紙につつんで藤太に渡し、姉歯の市に行って米や味噌を買って来るようにと頼みました。
ところが藤太は、途中の沼に雁や鴨が群れているのを見つけると、鴨を捕らえようと砂金の包みを投げつけてしまったのです。
首尾よく鴨を捕らえた藤太は上機嫌で帰宅しました。
これを聞いて驚いたのは、おこやです。
おこやは 『投げつけてしまって沼に沈んだ砂金さえあれば、そのような鴨はいくらでも買えるのです』 と、金の値打ちを知らない藤太に言って聞かせました。
しかし藤太は慌てるようすもなく、『そんなものならいくらでもある』 と、おこやを外に連れ出しました。
そこには炭焼き窯のまわりには、砂金が山のように積まれていたのです。
やがて金の価値を知った藤太は金売となりました。
その砂金を持って京へ行き、幸せに暮らしたと伝えられています。
いつしか、藤太の村は 『金生』 と、そして藤太が炭を焼いた山は 『金山沢』、
藤太が黄金の鶏を山の上に埋めた山裾は「鶏坂」と呼ばれるようになりました。
「鶏坂」からは、ときどき暁の闇を破って鶏の鳴き声が聞こえてきたそうです。
実は、この金の鶏が道路工事の際、発見されたのです。
近くのドライブインに写真が飾ってあります。
私も見ましたが、金の塊で、鶏の形になってます。
地元では、大騒ぎ・・・伝説と言われていた話が事実であることが、証明されたのです。
私は、鶏一対と聞いてますので、まだ一体残っているかも知れませんね。
また、稲荷山はおこやが京都から藤太を尋ねて来る折、長途守護の稲荷大明神を氏神として祀った所だと言います。
金売で知られた吉次、吉内、吉六の三人兄弟は、この炭焼き藤太の子供たちであり、
その村の東館、南館、西館は、この兄弟が各々の住まいを構えた屋敷跡と言い伝えられています。
義経、平泉へ
牛若こと「義経」は、平安末期の平治元年(1159)京都で生まれた。父は源為義(みなもとためよし)の長男源義朝(みなもとよしとも)。母は常盤(ときわ)。
義朝、常盤との間に今若、乙若そして牛若の3人の男子をもうける。
常盤は、乳飲み子の牛若を懐に抱え、まだ幼い兄の
今若(いまわか)、乙若(おとわか)の三人を連れ、人目を避け山科を経て大和国(奈良県)
宇陀へ逃れた。
しかし、実母が平家に捕まり、厳しく常盤らの行方を問い詰めているとの噂が入る。
母を見捨てることは出来ないと、常盤は三人を連れ京へ戻る途中、伏見で平家に捕まり六波羅へ連れられる。
常盤は、子供の命、そして源氏の存続のため、夫義朝の敵である清盛の条件に涙で従っている。
今若と乙若は仏門へ、幼い牛若は常盤が育てることが許され、清盛と常盤の間には、妹・能子(よしこ)が生まれた。
しかしその後、常盤は牛若を連れて大蔵卿(おおくらきょう)藤原(一条)長成(ながなり)と再婚する。
清盛に命を助けられたときから 『大きくなったら、出家させろ』 と言われていたこともあり、
11歳(7歳とも)のとき、義朝の祈祷の師であった鞍馬寺の東光坊阿闍梨に預けられる。
阿闍梨に仕える稚児となり、勉学に励んでいた牛若の前に現われたのが金売り吉次という男。
吉次は、牛若に「貴方は源氏の棟梁義朝の嫡男」と告げる。
名を「遮那王(しゃなおう)」と変え、都へ出ては、平家の情報を集めことになる。
16歳になった遮那王は、平家打倒を胸に秘め金売り吉次と鞍馬山を抜け出し、奥州に向かった。
遮那王は、近江国「鏡の宿」で自ら元服し、「源九郎義経」(みなもとくろうよしつね)と名を改めた。
奥州では、領主の藤原秀衡(ふじわらひでひら)に歓待されたと伝えられている。
平泉の話をすると、蝦夷から話さなくてはならない、アテルイからはじまるとかなり長い・・![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/b_body_deject.gif)
ベテランガイドが、省略してペラペラ喋っても1時間はかかる。
観光バスのドライバーをしてた時期があり、東北の案内は、耳にタコがよるほど聞いた・・・
早く記事にしないと忘れてしまう。
さあ、長くなったのでこの辺で止めよう。
今回は写真は無しです。
金売吉次は、NHK大河ドラマでも、吉次として登場していた。
義経絡みの話は、あまりにも多すぎて、話は日本全国に飛び火してしまう。
だからあまり触れないようにしよう。
金売吉次(橘次)の伝説は、日本に点在するようだが、金成町に言い伝えられる、その父の伝説を話したいと思います。
伝説そのものは、元金成町のホームページから引用したものです。
地元の小学校では、この伝説を子供達に教えているようです。
平安時代の末に金成で炭焼きをしている藤太のもとへ、京都の三条右大臣道高の娘おこやがやってきて来ました。
清水寺の観音様のお告げで炭焼藤太の嫁になるため、はるばる陸奥に下って来たというのです。
藤太はおこやの申し出を受け入れ二人は仲むつまじく暮らしはじめた。
ある日おこやは、親から譲ってもらった砂金を紙につつんで藤太に渡し、姉歯の市に行って米や味噌を買って来るようにと頼みました。
ところが藤太は、途中の沼に雁や鴨が群れているのを見つけると、鴨を捕らえようと砂金の包みを投げつけてしまったのです。
首尾よく鴨を捕らえた藤太は上機嫌で帰宅しました。
これを聞いて驚いたのは、おこやです。
おこやは 『投げつけてしまって沼に沈んだ砂金さえあれば、そのような鴨はいくらでも買えるのです』 と、金の値打ちを知らない藤太に言って聞かせました。
しかし藤太は慌てるようすもなく、『そんなものならいくらでもある』 と、おこやを外に連れ出しました。
そこには炭焼き窯のまわりには、砂金が山のように積まれていたのです。
やがて金の価値を知った藤太は金売となりました。
その砂金を持って京へ行き、幸せに暮らしたと伝えられています。
いつしか、藤太の村は 『金生』 と、そして藤太が炭を焼いた山は 『金山沢』、
藤太が黄金の鶏を山の上に埋めた山裾は「鶏坂」と呼ばれるようになりました。
「鶏坂」からは、ときどき暁の闇を破って鶏の鳴き声が聞こえてきたそうです。
実は、この金の鶏が道路工事の際、発見されたのです。
近くのドライブインに写真が飾ってあります。
私も見ましたが、金の塊で、鶏の形になってます。
地元では、大騒ぎ・・・伝説と言われていた話が事実であることが、証明されたのです。
私は、鶏一対と聞いてますので、まだ一体残っているかも知れませんね。
また、稲荷山はおこやが京都から藤太を尋ねて来る折、長途守護の稲荷大明神を氏神として祀った所だと言います。
金売で知られた吉次、吉内、吉六の三人兄弟は、この炭焼き藤太の子供たちであり、
その村の東館、南館、西館は、この兄弟が各々の住まいを構えた屋敷跡と言い伝えられています。
義経、平泉へ
牛若こと「義経」は、平安末期の平治元年(1159)京都で生まれた。父は源為義(みなもとためよし)の長男源義朝(みなもとよしとも)。母は常盤(ときわ)。
義朝、常盤との間に今若、乙若そして牛若の3人の男子をもうける。
常盤は、乳飲み子の牛若を懐に抱え、まだ幼い兄の
今若(いまわか)、乙若(おとわか)の三人を連れ、人目を避け山科を経て大和国(奈良県)
宇陀へ逃れた。
しかし、実母が平家に捕まり、厳しく常盤らの行方を問い詰めているとの噂が入る。
母を見捨てることは出来ないと、常盤は三人を連れ京へ戻る途中、伏見で平家に捕まり六波羅へ連れられる。
常盤は、子供の命、そして源氏の存続のため、夫義朝の敵である清盛の条件に涙で従っている。
今若と乙若は仏門へ、幼い牛若は常盤が育てることが許され、清盛と常盤の間には、妹・能子(よしこ)が生まれた。
しかしその後、常盤は牛若を連れて大蔵卿(おおくらきょう)藤原(一条)長成(ながなり)と再婚する。
清盛に命を助けられたときから 『大きくなったら、出家させろ』 と言われていたこともあり、
11歳(7歳とも)のとき、義朝の祈祷の師であった鞍馬寺の東光坊阿闍梨に預けられる。
阿闍梨に仕える稚児となり、勉学に励んでいた牛若の前に現われたのが金売り吉次という男。
吉次は、牛若に「貴方は源氏の棟梁義朝の嫡男」と告げる。
名を「遮那王(しゃなおう)」と変え、都へ出ては、平家の情報を集めことになる。
16歳になった遮那王は、平家打倒を胸に秘め金売り吉次と鞍馬山を抜け出し、奥州に向かった。
遮那王は、近江国「鏡の宿」で自ら元服し、「源九郎義経」(みなもとくろうよしつね)と名を改めた。
奥州では、領主の藤原秀衡(ふじわらひでひら)に歓待されたと伝えられている。
平泉の話をすると、蝦夷から話さなくてはならない、アテルイからはじまるとかなり長い・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/b_body_deject.gif)
ベテランガイドが、省略してペラペラ喋っても1時間はかかる。
観光バスのドライバーをしてた時期があり、東北の案内は、耳にタコがよるほど聞いた・・・
早く記事にしないと忘れてしまう。
さあ、長くなったのでこの辺で止めよう。
今回は写真は無しです。
凄い!やっぱり藤太絡みですね。
綱永井さんの夢から平泉探ってます。
東北の情報はやはりこちらと思っていたら、やっぱり炭焼き絡みと金絡み、富士山あたりとかあちこちで出くわします。でまた気になったのが稲荷山と源九郎ですね。
やっぱり何かありそうです、個人的な縁ですね。
で今回探していたのが長者ヶ原廃寺についてなんですけど情報あれば教えてください。以前東北に行った際、太陽の日の出を大崎あたりで見てそのまま北上して行って平泉辺りは見晴らしが良い所もあり田んぼもあったあの辺が廃寺だとは思うんですよね。で帰りは確か長者というサービスエリアに寄ったのも覚えています。
とっても素敵な工藤さんにお会いして工藤氏ちょい好きになりましたね。ひーさんの周りにも工藤さんいませんか?それはいいとして。
今回の記事の藤太って長者と絡みますかね?
清水寺も懸け造りなので平泉にそういう建築ないですかね?中尊寺の辺りには峯薬師はあるようなのであとは聖天探しです。義経絡みで鞍馬には関係していますのでいるんだとは思うんですけどね。
で炭焼き藤太と義経のコンビはなかなか気になりますね。そこに常盤の木の系統もありですから。弁慶と藤太は違うんですかね?被るんですよね、人間ウォッチでは。そもそもお金の執着も全くない結構無知で豪快なイメージの怪力さん。けどお寺とか修行するとも思えずですね。〜坊って事は修行者ですから世代が違うのかな?
平泉の寺情報が記事にリンクでありましたのでそちらでも探ってみますね。
藤太伝説は他にもあるようですね。
記事にもありますが伝説と思われていた話しですが、純金の鶏一対が出てきたことから、まんざら嘘では無いようです。
毛越寺から西に行きますと達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)に清水寺をミニチュアのようにしたような造りがあります。勿論本家の清水寺どうよう製作者は坂上田村麻呂です。以前記事にしていました。
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/f971721758325f6782875910a8e1b5ad
長者原サービスエリアの下が化女沼ですね。
廃寺はわかりません。
工藤さんは今まで特にお付き合いはありませんが、近年新人の職員が仲間にいます。私よりかなり若いですが!
最近出掛けるチャンスがなく、籠もってばかりです。
藤太伝説は他にもあるようですね。
記事にもありますが伝説と思われていた話しですが、純金の鶏一対が出てきたことから、まんざら嘘では無いようです。
毛越寺から西に行きますと達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)に清水寺をミニチュアのようにしたような造りがあります。勿論本家の清水寺どうよう製作者は坂上田村麻呂です。以前記事にしていました。
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/f971721758325f6782875910a8e1b5ad
長者原サービスエリアの下が化女沼ですね。
廃寺はわかりません。
工藤さんは今まで特にお付き合いはありませんが、近年新人の職員が仲間にいます。私よりかなり若いですが!
最近出掛けるチャンスがなく、籠もってばかりです。