友人から聞いた話ですが、
まだ、本(高木彬光著)は読んで無いのですが、簡単に説明すると……
『成吉思汗の秘密』と言う本があるそうです。
義経北行伝説ですね、北海道に渡りそこから中国大陸に渡って『チンギス・ハ-ン』になったと云う話しです。
成吉思汗という名前は義経から静御前へのメッセージだと云うのです。
『吉成りて、汗を思う』となり、これを二人の関係に置き換えると
、『吉野山の約束成りて、水干しを思う』と解釈されます。
水干=女性の着物の一種=静御前
義経は『成吉思汗』と名乗ることで、静御前にメッセージ送っていたのですね。
まだ、調べてないのですが、静御前の歌に
『しずやしず しずのおだまき くりかえし むかしを今に なすよしもがな (成吉思汗)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて入りにし人の あとぞ恋しき 』
と云う歌があり、静御前はジンギスカンが義経だと知っていたと云う記述もあるそうです。
この歌は、鎌倉の頼朝と北条政子の前で鶴ヶ岡八幡宮の舞台で踊らされた時に詠んだ歌で
意味は、「おだまきを繰り返すように、時間も逆戻しして、深雪の吉野山へ入っていった愛しい義経と一緒だったころに戻りたい」となるそうだ。
ただ時期的な検証はしていません。
でもジンギスカン(チンギス・ハーン)の顔と義経の顔は全然ちがいますよね。
実は、ジンギスカンは弁慶が表に出て裏で義経が操っていたと云う話もあります。
歴史では、平泉の衣川で沢山の矢を受け立ち往生して亡くなった事になってますが、そうではなかったと云う説もあります。
「衣川の戦い」は実は偽戦で、義経の身代わりになったのは、杉目太郎行信だったという話です。
その影武者のお墓が、確か金成(かんなり)町にあったと思います。
義経は、宮古・岩泉・田野畑・普代・久慈・八戸と北上し
最後に十三湊から三厩そして風待ちをして後、竜飛から蝦夷へ渡ったという。
三厩町にある義経の伝説です。
「竜馬山観世音縁起」
義経は、日頃身につけていた観音像を波打ちぎわの岩の上に置き、海上平安の祈願を込めた。こうして三日三晩一心に普門品経を唱え続けると、暁の頃、長い杖を手にした白衣白髪の老人が姿を現し義経に告げた。
「汝の願いを聞き届け、三頭の神通力を備えし竜馬をつかわそう。これに乗り海を渡るべし」
これぞ観世音のお告げと義経は感涙し、感謝の祈りを捧げた。
やがて岩から降り、近くの岩窟の近くへ来ると馬のいななきが聞こえた。
中を覗くとそこには見事な駿馬が三頭つながれていた。ふり返って海を眺めると、あの荒れくるっていた海がいつのまにか嘘のように静かになっていた。
こうして義経一行はこの駿馬にまたがり、無事に海峡を渡ることが出来たと…。
この岩窟は、馬一頭が十分入れる大きさであり、丁度三つ並んでいる。三厩の地名の由来と云う。
三陸沿岸にかなりの義経にかかわる伝説があります。
宮古・田野畑村のホームページにも紹介してあります。
それから耳にしたのは、チンギス・ハーンの刀は、モンゴル独特の形ではなく、日本刀に近かったとか・・・・・・
勿論、逆説を唱える人もいます。
それは、義経の墓守をしてきた人達です。
宮城県の栗原市にそのお墓はあります。(栗駒小学校の裏山です。)
皆さんはどう思いますか
もう一つ読みたい本があります。
『古代天皇の秘密』です。
まぁ、なんとも・・・私はコメントできません。
まだ、本(高木彬光著)は読んで無いのですが、簡単に説明すると……
『成吉思汗の秘密』と言う本があるそうです。
義経北行伝説ですね、北海道に渡りそこから中国大陸に渡って『チンギス・ハ-ン』になったと云う話しです。
成吉思汗という名前は義経から静御前へのメッセージだと云うのです。
『吉成りて、汗を思う』となり、これを二人の関係に置き換えると
、『吉野山の約束成りて、水干しを思う』と解釈されます。
水干=女性の着物の一種=静御前
義経は『成吉思汗』と名乗ることで、静御前にメッセージ送っていたのですね。
まだ、調べてないのですが、静御前の歌に
『しずやしず しずのおだまき くりかえし むかしを今に なすよしもがな (成吉思汗)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて入りにし人の あとぞ恋しき 』
と云う歌があり、静御前はジンギスカンが義経だと知っていたと云う記述もあるそうです。
この歌は、鎌倉の頼朝と北条政子の前で鶴ヶ岡八幡宮の舞台で踊らされた時に詠んだ歌で
意味は、「おだまきを繰り返すように、時間も逆戻しして、深雪の吉野山へ入っていった愛しい義経と一緒だったころに戻りたい」となるそうだ。
ただ時期的な検証はしていません。
でもジンギスカン(チンギス・ハーン)の顔と義経の顔は全然ちがいますよね。
実は、ジンギスカンは弁慶が表に出て裏で義経が操っていたと云う話もあります。
歴史では、平泉の衣川で沢山の矢を受け立ち往生して亡くなった事になってますが、そうではなかったと云う説もあります。
「衣川の戦い」は実は偽戦で、義経の身代わりになったのは、杉目太郎行信だったという話です。
その影武者のお墓が、確か金成(かんなり)町にあったと思います。
義経は、宮古・岩泉・田野畑・普代・久慈・八戸と北上し
最後に十三湊から三厩そして風待ちをして後、竜飛から蝦夷へ渡ったという。
三厩町にある義経の伝説です。
「竜馬山観世音縁起」
義経は、日頃身につけていた観音像を波打ちぎわの岩の上に置き、海上平安の祈願を込めた。こうして三日三晩一心に普門品経を唱え続けると、暁の頃、長い杖を手にした白衣白髪の老人が姿を現し義経に告げた。
「汝の願いを聞き届け、三頭の神通力を備えし竜馬をつかわそう。これに乗り海を渡るべし」
これぞ観世音のお告げと義経は感涙し、感謝の祈りを捧げた。
やがて岩から降り、近くの岩窟の近くへ来ると馬のいななきが聞こえた。
中を覗くとそこには見事な駿馬が三頭つながれていた。ふり返って海を眺めると、あの荒れくるっていた海がいつのまにか嘘のように静かになっていた。
こうして義経一行はこの駿馬にまたがり、無事に海峡を渡ることが出来たと…。
この岩窟は、馬一頭が十分入れる大きさであり、丁度三つ並んでいる。三厩の地名の由来と云う。
三陸沿岸にかなりの義経にかかわる伝説があります。
宮古・田野畑村のホームページにも紹介してあります。
それから耳にしたのは、チンギス・ハーンの刀は、モンゴル独特の形ではなく、日本刀に近かったとか・・・・・・
勿論、逆説を唱える人もいます。
それは、義経の墓守をしてきた人達です。
宮城県の栗原市にそのお墓はあります。(栗駒小学校の裏山です。)
皆さんはどう思いますか
もう一つ読みたい本があります。
『古代天皇の秘密』です。
まぁ、なんとも・・・私はコメントできません。
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