ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

東日本大震災を振り返る

2021年03月10日 21時14分24秒 | 東日本大震災
   2011年(平成23年)3月11日(金)14時48分18秒
  その時、大地は大きく揺れた。  ドンと下から突き上げられたかと思うとぐらぐらと大きく揺れた。
  それは、1978年の宮城県沖地震(M7.4)を遥かに越えるものだった。
  その揺れは長かったせいか恐怖で固まった。
  「俺はここで死ぬ運命だったのか!」と心の中で死を覚悟していた。
  それは高いビルに居たことで倒壊するだろうと思ったからだった。
  長い揺れの中で、子供・妻・両親・・・色々な事が頭の中を巡った。
  これを世間では「走馬灯のように」と表現するのだろう。

これは、以前のホームページの記事の出だしでした。
10年ということでTVでは、どのチャンネルも震災のことばかりですね。多分明日もでしょう。
色々思うことはありますが、当時の写真から振り返ってみました。

野蒜駅の時計も入院していた病室の時計もあの時の時間で止まっていました。




あの時外は雪が降っていました。あの寒さで屋上や山や流れる水の中で耐えた人々は地獄だっただろう。



東北石油はずうっと燃えていた。
































駅名の看板まで水が上がっている



病院のベットは満室。患者さんが次々と入ってくる。医師や救急車も他県から応援が来ていた。

リハビリ用の広い部屋は仮設のベットでいっぱい。 次々と救急車が入ってくる。




松本の救急車まで・・・

ゆがんだ家も解体しました。



地鎮祭をし





餅をまき







出来上がりました。




もうあまり思い出したくないですね。

電気も水もない生活がどんなにたいへんか?



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4 コメント

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Unknown (ひー)
2021-04-13 09:36:05
綱永井寵生さんへ
年老いた母親の面倒は大変ですね。確かに会話が無くなると痴呆になりやすいとも聞いたことがあります。
親戚を見ると確かに独り身は大変ですね。
まだ兄弟が多ければ相談のしようもありますが居なければ全部自分で背負う事になってしまいます。
行政の力を借りる事になりますが、色々と条件があったり自分も勉強しないと役所は何も教えてくれません。要介護などの審査は済んでいますか? 等級が上がらないと中々大変ですし、施設にはお金も掛かります。
自分で抱え込まないで役所も利用しましょう。
申してるかも知れませんが、大変なお気持ちは察します。
返信する
強いですね。 (綱永井寵生)
2021-04-12 01:03:07
ひーさんは立派に震災から立ち直って強いですね。自宅が被害を受けた。それは自分自身の崩壊だと思います。本当に強い。

私は何を頼りに生きてよいのか。未だに震災から立ち直っていません。独り者で守る者がいないからでしょうか。

今回のコロナ禍で母親の認知症が進み、今、面食らっている状態です。医師の話だと老人会に出られず家に閉じ籠っていたのが原因みたいです。

仙台は国内トップクラスの感染率になっていますが、命が助かっても心が無くなるのは辛いもんです。
返信する
Unknown (ひー)
2021-03-25 19:13:22
クロンシュタットさんへ

本当に余震なのかと思うほど、2回の地震は強かった、
多少のことでは大丈夫と思っては居ましたか、今度倒壊したらもう新築は無理だと思いましたが、東日本大震災の後のいえですからタンスには突っ張り棒をし食器棚は揺れてオートロックがかかり食器は無事でした。
地下鉄は、いずれも営業中止になりました。さんざんでしたよ。
最近は感染者が増えていますが、チョット前は最終近くになるとマスクもしない酔っぱらいが増えて居ました。
大丈夫です。宮城の人間はきっと乗り越えますよ。
だから、10万給付しておくれ!
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遠い地から (クロンシュタット)
2021-03-25 05:01:23
最近だけでも宮城の地は、これでもかと痛めつけられています。
余震とされる大きな地震が続きました。
コロナの感染者数は人口当たり国内で最悪です。
岩沼でのタイヤの大火災がこの瞬間も全国ニュースで流れています。
のうのうと東京で暮らしていると、心が苦しいです。

震災の時は、健在だった父親と弟への連絡がつかず、ケア付き老人ホームの母親もどうなっているのか。
住んでいた場所、友人や知り合いのいた場所、行ったことがある場所、よく見知っている場所、みんな崩れていきました。
偽善的と罵られるでしょうが、東京の地の私は、苦しくて情けなくて自分を責めてばかりでした。

父親に続き母親も亡くし、あまり孝行できないまま、自分もなんだか年取ってしまいました。
痛め続けられる故郷を、黙って見つめ続けるしかないのでしょうか。
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