追記:実は不明だった祖父の巻物が見つかりました。
本家の仏壇にありました。
その内容について後ほど写真にて追記したいと思います。 これで祖父がいつごろから始まり免許皆伝までの道筋が見えてきました。
これは10年前に書いたものですが、再度UPします。
実は、私の祖父は真極流柔術の師範でした。
父も習ったようですが、祖父に危険なので途中で止めさせられたと聞いてます。
父は目録:初段巻(巻物)を1本持っています。
祖父は免許皆伝で巻物を10本程持っています。
詳しく聞きたかったのですが、もう亡くなっていますので悔やまれます。
なかなか、ネットでの検索は難しいようです。
鹿島台町誌の武芸師匠の項に真極流関連の人物が記載されています。
佐藤儀蔵
文政三年(1820)鹿島台船越に生まれる。
武家に生まれた儀蔵は武術を学び、特に「柔」は、真極流夢人斎から伝わる奥義を極めた程で、門人多数のうち「栗田梅三郎」に免許を皆伝した。
多くの弟子が居ても免許皆伝が難しいことがわかる
栗田梅三郎
明治十年(1877)同じ船越に生まれる。
柔を佐藤儀蔵について学び20歳で免許皆伝となる明治三十二年より道場を開き、昭和七年まで門弟220人に達した。
昭和十八年(1943)66歳で没した。
祖父:惣治
明治三十四年(1901)鹿島台xxに生まれる。
17歳で初段の巻物を栗田梅三郎から受領している。
免許皆伝は最後の巻物の年が大正十五年であるため25歳に栗田梅三郎から皆伝されたと思われます。
源流は巻物の中に記されていた「源流中華在拳捧跌解法・・・」とある。
武 道 学 研 究18-2(1985)
仙台藩における近世柔術の一大傾向について 小佐野淳(浅 山一伝流水月塾)
から一部抜粋。
仙台藩における一大流派となった真極流柔術では,腕流・違詰・朽木倒・梢倒・小手乱・面影の六ケ条を「化生段」と称して,これを六変化三十六種に分けて技法を学ぶ。
中国武術の影響
仙台藩の柔術に中国武術が介在して形を変え, その技法の発達に大きな影響を及ぼしたことはいくつかの事例により明白である。
大明人陳元替の門人中磯目次郎左衛門清次の子 次郎右衛門清定は真極流柔術を開創して元祖となり,真極夢仁斎と名乗って流派は仙台藩 に隆盛を極めた。
真極流の伝書に「基源流 中華在挙棒鉄解法六勢日上鰍胸下鰍腰勢日瀬摺衣勢日倒上橋勢日三人合手住解勢日泰山厘頂跣勢日金鶏鉄勢也」とある。 これは中国清朝の康煕年間(一六六二~一七二二)に刊行された万宝全書』中にある「要家臨危解法」をそのまま書写したものである。 これらの中国書が藩内に持ち込まれ,多くの柔術家の間で研究がなされたことが柔術の発展に多分に寄与していることは疑う余地がない。 現在見ることのできる柳生心眼流拳術 「素振二十一ケ条 」は明らかに中国武術の影響下 に発達した拳法の技術内容を色濃く残しているといえる当身技中心の珍しい古流拳法の一 つである。
技 の特徴
稽古の場が土間であり,また屋外稽古の多い仙台藩の柔術では現代柔道に見られるような体受身ができない。
しか も力加減をせずに技をかけることが必要なため受方は自ら地を蹴って大 きく空中転回をして立って受ける稽古をする。
また流儀により敵を真逆様に頭から落とす技が伝承されているが,こ れに対 して受方は両手(片 手)を地につけて体を支え自ら地上転回を行って逃 れ る稽古をする。柔 道で い うところの 巴投 げ も地 に背をつけずに敵を投げるのである。
また礼 法 にお いては柔術 に限らず正座 を行うことが少 ないことも一つの傾 向 となっている。
礼法には起倒流柔術 に代表される「鱒 踵の礼」を用いることにな ってい るが,こ の ことも屋 外稽古や土間稽古中心という風潮 に多分に起因するもの と考えられる。
かなり危険な技が多いことがわかりますね。祖父が父に危険だから辞めさせた理由がわかります。
仙台藩 にお ける柔 術の多 くは,各邑主の家臣たちに教授され,したがって農閑期を利 用して稽古が行われ た。
稲刈りが終わ ると一 門が集 まり 「ね むしろこ」(藁 縄を編んで作 る大型の麺)を 編 んで。
これを畳の代用 と して道場に敷 くのであ る。門人の少 ない流儀では 「お蔵」を道場代 わりにするので「ね こ」は多 くの流儀に流行していた。
「ね こ」は畳 と違 ってずれ たり隙間がで きたりする心配 もなく,敷 いたり取外 したりするにも手間をかけない非常 に便利 なものである。
さらに当身技の多い仙台藩の柔術は多くの流儀で竹胴を用いたが,こ れらの防具もすべて 自家製である。
父に聞いた話では、庭にむしろを敷いて練習したと言っていました。
父の目録を見ると昭和二十三年に祖父より巻物1本を受けている。父は17歳で祖父は47歳ということになる。
祖父が健在の頃、偽物の真極流免許皆伝と名乗る者が現れました。
新しい和紙に書かれていることから、偽物とわかりました。
真極流の免許皆伝者は多くないはずです。
今は絶えていることから、祖父が最後の師範だったのでしょう。
仙台藩と福島藩で藩校・郷校で教授されていた流派、または藩の主流を成した流派(指南役の出身流派)のようです。
下の写真は、父が持っている目録です。
技の名前が書いてあります。
門外不出の技も書いてあるようです。UPするか悩みましたが、今から免許皆伝者が出てくるはずも無く、公開しました。モザイクがありますが、下記に祖父の初段の巻物を公開しています。
1本でこれだけの技があります。習得不可欠の技でしょう。
惣治は私の祖父です。
最後の画面の左に父の名前がありますが入れませんでした。
親子でも、弟子に入る時は「血判を押した」と聞きました。
巻物の一部を紹介します。
肝要之巻
省略
教収巻
基源流 中華在挙棒鉄解法六勢日・・・・・
敬白起請前書
省略
月丞弾正神道 二文字目は不明
薬師如来の真言が書いてあります。
省略
五六傳法
これは非常に長かったです。 省略しましたが、前分のこの二枚の写真には、馬の扱い方が伝授されています。
祖父の一本目の巻物を今度はモザイクなしでUPします。
真極流柔傳
省略
省略
面影草
省略
實相位
省略
鉄砲や鎧武者切様や頭取様など気になる文も・・・
一部ですが紹介しました。
巻物の最初に押される真極流印や最後に押印する印も残されていました。
文面を見ると真極流を心極流とも記載しています。
祖父のお墓参りに行った時でした。
いつもお墓参りに行っても全く法名を気にしたことが無かったのですが、気になり覗いてみました。
すると祖父の戒名には、柔師範の文字が・・・
私が知ってるのは、拳の握り方(独特です)そして食事中に襲われた時に箸を使って目潰し(両眼を箸で突く)をする方法ですかね。
祖父の若い頃の写真です
どうやら剣道の大会で優勝をした時の写真のようです。
剣道もしていたとは・・・・・
最後におまけで私の写真です。 飛び蹴りをしているのが私です。
場所は、青森の米軍三沢基地で演舞をしたときのものです。 19歳の頃です。
この頃はピョンピョン飛んでました。
本家の仏壇にありました。
その内容について後ほど写真にて追記したいと思います。 これで祖父がいつごろから始まり免許皆伝までの道筋が見えてきました。
これは10年前に書いたものですが、再度UPします。
実は、私の祖父は真極流柔術の師範でした。
父も習ったようですが、祖父に危険なので途中で止めさせられたと聞いてます。
父は目録:初段巻(巻物)を1本持っています。
祖父は免許皆伝で巻物を10本程持っています。
詳しく聞きたかったのですが、もう亡くなっていますので悔やまれます。
なかなか、ネットでの検索は難しいようです。
鹿島台町誌の武芸師匠の項に真極流関連の人物が記載されています。
佐藤儀蔵
文政三年(1820)鹿島台船越に生まれる。
武家に生まれた儀蔵は武術を学び、特に「柔」は、真極流夢人斎から伝わる奥義を極めた程で、門人多数のうち「栗田梅三郎」に免許を皆伝した。
多くの弟子が居ても免許皆伝が難しいことがわかる
栗田梅三郎
明治十年(1877)同じ船越に生まれる。
柔を佐藤儀蔵について学び20歳で免許皆伝となる明治三十二年より道場を開き、昭和七年まで門弟220人に達した。
昭和十八年(1943)66歳で没した。
祖父:惣治
明治三十四年(1901)鹿島台xxに生まれる。
17歳で初段の巻物を栗田梅三郎から受領している。
免許皆伝は最後の巻物の年が大正十五年であるため25歳に栗田梅三郎から皆伝されたと思われます。
源流は巻物の中に記されていた「源流中華在拳捧跌解法・・・」とある。
武 道 学 研 究18-2(1985)
仙台藩における近世柔術の一大傾向について 小佐野淳(浅 山一伝流水月塾)
から一部抜粋。
仙台藩における一大流派となった真極流柔術では,腕流・違詰・朽木倒・梢倒・小手乱・面影の六ケ条を「化生段」と称して,これを六変化三十六種に分けて技法を学ぶ。
中国武術の影響
仙台藩の柔術に中国武術が介在して形を変え, その技法の発達に大きな影響を及ぼしたことはいくつかの事例により明白である。
大明人陳元替の門人中磯目次郎左衛門清次の子 次郎右衛門清定は真極流柔術を開創して元祖となり,真極夢仁斎と名乗って流派は仙台藩 に隆盛を極めた。
真極流の伝書に「基源流 中華在挙棒鉄解法六勢日上鰍胸下鰍腰勢日瀬摺衣勢日倒上橋勢日三人合手住解勢日泰山厘頂跣勢日金鶏鉄勢也」とある。 これは中国清朝の康煕年間(一六六二~一七二二)に刊行された万宝全書』中にある「要家臨危解法」をそのまま書写したものである。 これらの中国書が藩内に持ち込まれ,多くの柔術家の間で研究がなされたことが柔術の発展に多分に寄与していることは疑う余地がない。 現在見ることのできる柳生心眼流拳術 「素振二十一ケ条 」は明らかに中国武術の影響下 に発達した拳法の技術内容を色濃く残しているといえる当身技中心の珍しい古流拳法の一 つである。
技 の特徴
稽古の場が土間であり,また屋外稽古の多い仙台藩の柔術では現代柔道に見られるような体受身ができない。
しか も力加減をせずに技をかけることが必要なため受方は自ら地を蹴って大 きく空中転回をして立って受ける稽古をする。
また流儀により敵を真逆様に頭から落とす技が伝承されているが,こ れに対 して受方は両手(片 手)を地につけて体を支え自ら地上転回を行って逃 れ る稽古をする。柔 道で い うところの 巴投 げ も地 に背をつけずに敵を投げるのである。
また礼 法 にお いては柔術 に限らず正座 を行うことが少 ないことも一つの傾 向 となっている。
礼法には起倒流柔術 に代表される「鱒 踵の礼」を用いることにな ってい るが,こ の ことも屋 外稽古や土間稽古中心という風潮 に多分に起因するもの と考えられる。
かなり危険な技が多いことがわかりますね。祖父が父に危険だから辞めさせた理由がわかります。
仙台藩 にお ける柔 術の多 くは,各邑主の家臣たちに教授され,したがって農閑期を利 用して稽古が行われ た。
稲刈りが終わ ると一 門が集 まり 「ね むしろこ」(藁 縄を編んで作 る大型の麺)を 編 んで。
これを畳の代用 と して道場に敷 くのであ る。門人の少 ない流儀では 「お蔵」を道場代 わりにするので「ね こ」は多 くの流儀に流行していた。
「ね こ」は畳 と違 ってずれ たり隙間がで きたりする心配 もなく,敷 いたり取外 したりするにも手間をかけない非常 に便利 なものである。
さらに当身技の多い仙台藩の柔術は多くの流儀で竹胴を用いたが,こ れらの防具もすべて 自家製である。
父に聞いた話では、庭にむしろを敷いて練習したと言っていました。
父の目録を見ると昭和二十三年に祖父より巻物1本を受けている。父は17歳で祖父は47歳ということになる。
祖父が健在の頃、偽物の真極流免許皆伝と名乗る者が現れました。
新しい和紙に書かれていることから、偽物とわかりました。
真極流の免許皆伝者は多くないはずです。
今は絶えていることから、祖父が最後の師範だったのでしょう。
仙台藩と福島藩で藩校・郷校で教授されていた流派、または藩の主流を成した流派(指南役の出身流派)のようです。
下の写真は、父が持っている目録です。
技の名前が書いてあります。
門外不出の技も書いてあるようです。UPするか悩みましたが、今から免許皆伝者が出てくるはずも無く、公開しました。モザイクがありますが、下記に祖父の初段の巻物を公開しています。
1本でこれだけの技があります。習得不可欠の技でしょう。
惣治は私の祖父です。
最後の画面の左に父の名前がありますが入れませんでした。
親子でも、弟子に入る時は「血判を押した」と聞きました。
巻物の一部を紹介します。
肝要之巻
省略
教収巻
基源流 中華在挙棒鉄解法六勢日・・・・・
敬白起請前書
省略
月丞弾正神道 二文字目は不明
薬師如来の真言が書いてあります。
省略
五六傳法
これは非常に長かったです。 省略しましたが、前分のこの二枚の写真には、馬の扱い方が伝授されています。
祖父の一本目の巻物を今度はモザイクなしでUPします。
真極流柔傳
省略
省略
面影草
省略
實相位
省略
鉄砲や鎧武者切様や頭取様など気になる文も・・・
一部ですが紹介しました。
巻物の最初に押される真極流印や最後に押印する印も残されていました。
文面を見ると真極流を心極流とも記載しています。
祖父のお墓参りに行った時でした。
いつもお墓参りに行っても全く法名を気にしたことが無かったのですが、気になり覗いてみました。
すると祖父の戒名には、柔師範の文字が・・・
私が知ってるのは、拳の握り方(独特です)そして食事中に襲われた時に箸を使って目潰し(両眼を箸で突く)をする方法ですかね。
祖父の若い頃の写真です
どうやら剣道の大会で優勝をした時の写真のようです。
剣道もしていたとは・・・・・
最後におまけで私の写真です。 飛び蹴りをしているのが私です。
場所は、青森の米軍三沢基地で演舞をしたときのものです。 19歳の頃です。
この頃はピョンピョン飛んでました。
祖父の巻物が出てきてほっとしていたところです。 内容が少しわかりました。
かなり傷んでいて虫に喰われて居ました。
残念ながら祖父も父親も亡くなってしまいました。実家の伯父も巻物一本を貰っていたようですが先日亡くなり、90歳という年齢ででした。
自分も後悔しています。祖父は直接私に柔の事を話した事はありませんでした。
親父からチラホラ聞いたことはありますが、かなり実戦的な技だったように思います。
柳生新陰流を学び柳生心眼流が発祥し伝承の郷
と看板を伊豆沼の辺りで見かけました。宮城県の無形文化財(古武道)になっているようです!
真極流が途絶えたのは残念です。
あれだけの巻物を書くのも文武に優れないと伝承は難しいのかも知れませんね!
親父の目録は、当時紙がなく、障子紙に書かれたと話していました。
当時習われた方は、相当の年齢だと思います。
師範しか持てない印鑑を所持出来た事は何より嬉しかったです。祖父が師範だった証ですからね。
闇討ちに遭ったようです。川の土手で祖父は川を背にして数人の族を川へ投げたと云ってました。事実は不明ですがね。
国鉄からJRに変わる時は相当リストラがあり国鉄職員が駅ナカのレストランのスタッフになっていましたからね。国有鉄道時代の職員は恵まれていましたからね。組合も相当騒ぎましたね。
当時、日本交通公社にいました。今のJTBです。その頃共済旅行でカラオケ列車などの団体の添乗をしたりしましたよ。
大きく揺れた時代ですね。
叔父さんは気の毒でしたね。
私の家系で一振りで二人を切るとされる武将が居ます(115cmの刀を振るっていたとか)。神社に祀られているので神様でもあります。
その武将の顔の絵と私の叔父の顔がそっくりです。そして叔父も剣道三段。その腕を買われ父親が列車事故で亡くなったのに、国鉄に入社しました。
国鉄からJRに変わる時、叔父は首切り(リストラ)の仕事をしていたのですが、それで恨みを買われた様で、夜、公園を歩いてたら後ろから鉄パイプで殴られ、肩を骨折しています。
考えてみたら卑怯にも源義朝を風呂場で討った家系なのですが、叔父が反対に騙し討ちされた。そんな所も因果を感じます。
ひーさんの家宝の巻物を見ていて、そんな事を思い出しました。スイマセン。
おまけに鹿島にもというのも別のワークでも関連しそうですね。綱永井さんサッカー縁あるみたいですよ、ふふふ。素材研究の確度が上がります、ありがとうございます。
自分がサッカー好きで子供をドイツのドルトムントへと勝手に夢描いてます。空手やってから身体作って大きくして蹴り活かすっていうのもありですね。子供のサッカーを長い事見ているとセレクションでも親の身長とかも関係します。外見的な素材だけじゃない物もあるならば、まわり道でもいいですね。小さい頃やっていたのでそれなりに好きで自信はあるよう。けどこの年代ではキーパーにされちゃうので、将来のセンターバック狙います。今は攻撃よりもディフェンスの方が大事に思いますよね、見る人が見たらそっちのがチームとしても安定感ありますので。性格的にも攻撃じゃないのもあり、まず個人競技でコツコツやりその後自分の役割を果たしてなおかつチームプレーできたらと思います。
同じ親から生まれてもそれぞれの素材により縁の掴む時期もまた種類も方法も違いそうです。
自分のルーツに関わる事調べていると現在生きている時にもとても役立ちます。少なくても先祖が後押ししてくれるようなお仕事につけるよう知識と勘を親もいっぱい積み上げてチャレンジさせたいですね、自分で選ばせたいです。
子供って、その子が自信持てる適性があるとなんでも意欲持って出来るようになるでしょうね。
お相撲の縁もこの前台風で吹っ飛んでしまいましたので空手や柔道から相撲もあるようですのでまずは心も鍛えられる物で一人で対自分と戦えるようになるといいなあと前向きに思います。
ひーさんのご関係者もかげながら応援しております、今後のご活躍がまたこちらにも励みになります。まだ夢を描いている程度ですけど。5230
4963
枠の中で蹴りあい罵り合い。
TVでは音声が聴こえませんからね。よくユニホームを引っ張って相手のジャンプを抑えていますね。
甥っ子が鹿島アントラーズにいましたが怪我でレギュラーになれずしばらく契約はしていたのですがオーストラリアのチームからオファーがあり一度行ったのですが、今は同じ契約金だった国内のチームに移籍しました。
競技人口が多いサッカーはなかなか目標を達成できないし難しいですね。
空手の場合は身近な目標を設定できます。
それはやはり黒帯です。
私が習った流派では、黄色・緑・紫・茶色・黒です。上級の色帯が欲しくて頑張れるんですね。 まぁ個人差があるので様子を見て無理はさせない方がいいですね。辛くても楽しいと思えば休まず通うものです。 自分は試験だろうが何だろうが休まず通いましたね。
夢中になってました。 今は体が硬くなって・・・・
子供によっても適正が違うんで悩みますね。そううちもサッカーがやたら親戚とかにも縁があるみたいでひーさんもでびっくりですよ。本人もサッカーやりたいようなのですが、この年代はお母さんが大変なのでごめんねと伝えてます。それとチームプレーと個人競技とでもちろん両方出来るのを目指したいのですが、この年代の男の子は友情よりは自己主張、それが激しい子が伸びるのでおとなしい子は埋もれてしまう。相撲をやらせたかったのですけど、まず勝敗に執着はないし、指導者に今は不安もありで諦めました。コツコツ訓練するのは真面目なので出来そうですが、習慣的にちゃんとやっていないとこの先それが出来るとも思えずです。今はゲームで満足してしまいますので。
赤ちゃんの頃から凄い足の突っ張りで、身体の柔らかさもあり今でも足を使う事に関してはちょっと化けないかとキックボクシングとかそういう物も将来へ繋がらないかとは思っていました。けどひーさんのキックで思ったのですが、なんか空手でもカタがあるだろうし体幹やバランスも訓練で必要だろうからまずやらせてみようかと思い出しました。
兄弟に揉まれるので成長も早くそろそろ男性にきちんと育てて貰う必要も迫ってきたようです。ひーさんのおじいさんやお父さんがいたらお世話になりたかったです。
少し前は背筋も凄いので弓道かとも考えてましたけどまだそちらは時期が早いようです。
自己肯定感も少ないので何か一つ自分で自信を付けておかないと同世代に女の子は今超凄いのでやられてしまいそうですよ、笑えますよね。
ひーさんのコメントもとても参考になります。まずは機会があればまず楽しめるかどうか?また辛くてみ続けようと思える何かがあるか?そんな勉強をする機会にもなりますよね。
サッカーは私の方、空手はどうも主人の方かな?足は両方役立つかな?とも思いながらですがいずれ逆になってもさらに少し縁のある卓球と弓道あたりも視野にいれて空手体験させてみたいと思います。3月までは母の地域活動のお仕事の関係では難しいのですが貪欲にチャンス狙ってみます。
あと今思う事としては男の子は成長期もあり成長痛も起こります。そこでその子の身体にとって一番いい方法を探してくれるそんな指導者を探してみます。怪我や故障で一生という事もありますし、本人が我慢していても見抜いてくれてゆっくり根っこから育ててくれるような人との縁を探してみますね。
あと正義感強すぎなので危険なのもあり自分への自信といざという時の護身の為に必要みたいです。ひーさんみたいになれるようにうまく誘導してみます。
そうそう、今サッカーは少し安全になってきましたよ。ちょっと前もう負けだから削れって言ってたのでゾーっとしました。けどこの前も高校サッカーの東京予選の朝鮮学校と帝京戦でも足攣った選手を相手の選手がフォローしてましたよ。夏の大会では5、6人足が攣った子がいましたがお互い治しあっていました。なんかスポーツっていいですね。仲間とかライバルとかもいい経験の大事な要素ですよね。
ひーさんのあの写真は、本当凄い!今の体型では無理でしょうけど高校生くらいで出来るくらいになっていてくれるといいなあと思ってます。77639922
忍耐という言葉がありますが、一人ではできないことも皆と行えば、心身共に耐えられるようになります。 辛くても楽しかったですよ。
練習すればするほど自信がついてきます。
そうすると心も強くなります。マイナスの要素はないと思います。
自分は、中学時代はサッカー部に入っていましたが、道場で柔道を習いました。
高校一年から空手を始めました。当時のツッパリは全然怖くありませんでした。友達がいじめられていると助けに行きました。 その反面仙台の中心部で募金活動をして地元の新聞社に届けたり。
私の習った空手には五条訓なるものがありました。
一、人格完成に努むること 。
二、誠の道を守ること。
三、努力の精神を養うこと。
四、礼儀を重んずること。
五、血気の勇を戒しむること。
まだ、自分は完成されていませんが一生の目標です。
かっこつけました(笑)
習い事は何でもいいと思います。
絶対プラスになると思います。
柔術は全く縁がないんですが、主人系の縁を考えるとそろそろ始めようか?と思っていたのが数年前、そして子供の習い事で出会う文字でとっても気になっていたのも数年前。
そして自分の方との縁を感じているひーさんがまさかこちらの縁を持っていたとは想像もしていませんでした。びっくりです。
で今年春に一度自分だけ見学し、秋から子供を体験させようと思っていました。お友達の紹介もありましたので。けどすっかり止まってました。相撲も気になってましたがこの不祥事でさすがにそれは。本人主導になったらおそらく手遅れと思うのもありここでひーさんの記事のタイミングを深読みしています。
さあどうしようかな?そろそろ身体を鍛える時期でそこを逃すと縁がなくなるようにも。
指導者との縁も大事です。ひーさんだったら安心でしたね。
何事も時が経ってから気付く事が多いです。それは私も父を亡くしてまさに実感しております。ただそこを後悔しないで前向きに、今理解して今どうするか?という事に目を向けて行けるようには今なってきましたよ。
目まぐるしく目の前に色々と惑わされる事が年末も控えてあります。ただタイミングを外してはいけない大事なことがそこに混ざっています。
そう思うと、ちょっと気になってきましたよ。
記事アップありがとうございます。
今ちょっとトライしてみようか?あの写真みて思いましたよ。
そうまず写真みせてみます。すでに場所は決まってますのであとはいい縁かどうか?やってみて後悔してもいいですね。2624
今は世代が違うので、当時の師範たちが違う場所でやっているというのですが、ついていけないと思って断念しています。
当時は、流行的な部分もあり東北選手権大会は、TVでも放送していました。
東北六県回って大会にもでていました。当時のトロフィーや賞状は物置にでもあるかも知れませんね。祖父に教授してもらえばと後悔しています。
しかし、今の武道と違い戦国時代の武術ですから、かなり危険なようでした。
食卓にて襲われた時は、箸を使って目つぶしをする方法など、直接攻撃するものもありました。 この危険な技を取り除いて武道として発展したのが柔道ですね。その一部は合気道にも通じますね。
今では思い出ですね。
家紋からして苗字はわかりましたが私の先祖も調べていたら紀州徳川家や柳生の兵法指南もしている一族みたいですね。○○流と今も有るそうです。
ちなみに、私はスタミナ不足で息子に稽古で投げられます・・・・(笑)
私も祖父のさりげない行動を見て驚いたことがありました。
自分が高校生の頃でした。昔、父の実家では養豚業をしていました。私の腰以上もある柵をその場でピョンとジャンプをし柵を飛び越えたのです。小柄の祖父がいとも簡単に飛び越えたのには驚きました。
色々武勇伝も父から聞いたことがあります。
土手の上で闇討ちにあって、川を背に6人を相手にすべて川に落としてやったとか・・・
刀傷が背中にあったり・・・
あのころもっと興味を抱いていればと後悔しています。
今から55.6年前のこと。柔道をともに励んでいた私と友人の訪問を受け、寝たきりだった祖父の血が騒いだのか、私たちの前で、自分の周りにゴザを回して、その中から、外に出たり入ったりして、柔術の技を披露しだしたのです。
驚きの頂点でした。
いままで立ち上がったこともなかったから。
ここの記事を見て、ルーツに感動しています。
杖道(神道夢想流杖術)は確か仙台にもあったような? 祖父が亡くなってから実家を探してもらったのですが見つかりませんでした。
巻物は10本あったと聞いているのですが?
本文中にリンクしていた「諸藩武術流派一覧表」のページは無くなっていましたね。
確かその記事にも弘前があったような気がします。 貴重な書物は値が上がるものです。
貴重な情報ありがとうございました。
http://goshanosho.ocnk.net/product-list/13/0/photo?num=20&img=160
http://blogs.yahoo.co.jp/marufujibunko2015/26400760.html
祖父が剣道範士だったのに、私は空手の道にはまってしまいました。先祖帰りで現在は杖道(神道夢想流杖術)をやっています。
私の手元になぜか本覚克己流の伝書がありますが、この柔術は真極流が元となって弘前藩に伝承されたようです。真極流との技法の類似点や相違点が業名からでも比較できたらと思います。
参考文献はあまりありませんが『津軽のやわら 本覚克己流を読む』(水星社新書)が参考になります。