追記:実は不明だった祖父の巻物が見つかりました。
本家の仏壇にありました。
その内容について後ほど写真にて追記したいと思います。 これで祖父がいつごろから始まり免許皆伝までの道筋が見えてきました。
これは10年前に書いたものですが、再度UPします。
実は、私の祖父は真極流柔術の師範でした。
父も習ったようですが、祖父に危険なので途中で止めさせられたと聞いてます。
父は目録:初段巻(巻物)を1本持っています。
祖父は免許皆伝で巻物を10本程持っています。
詳しく聞きたかったのですが、もう亡くなっていますので悔やまれます。
なかなか、ネットでの検索は難しいようです。
鹿島台町誌の武芸師匠の項に真極流関連の人物が記載されています。
佐藤儀蔵
文政三年(1820)鹿島台船越に生まれる。
武家に生まれた儀蔵は武術を学び、特に「柔」は、真極流夢人斎から伝わる奥義を極めた程で、門人多数のうち「栗田梅三郎」に免許を皆伝した。
多くの弟子が居ても免許皆伝が難しいことがわかる
栗田梅三郎
明治十年(1877)同じ船越に生まれる。
柔を佐藤儀蔵について学び20歳で免許皆伝となる明治三十二年より道場を開き、昭和七年まで門弟220人に達した。
昭和十八年(1943)66歳で没した。
祖父:惣治
明治三十四年(1901)鹿島台xxに生まれる。
17歳で初段の巻物を栗田梅三郎から受領している。
免許皆伝は最後の巻物の年が大正十五年であるため25歳に栗田梅三郎から皆伝されたと思われます。
源流は巻物の中に記されていた「源流中華在拳捧跌解法・・・」とある。
武 道 学 研 究18-2(1985)
仙台藩における近世柔術の一大傾向について 小佐野淳(浅 山一伝流水月塾)
から一部抜粋。
仙台藩における一大流派となった真極流柔術では,腕流・違詰・朽木倒・梢倒・小手乱・面影の六ケ条を「化生段」と称して,これを六変化三十六種に分けて技法を学ぶ。
中国武術の影響
仙台藩の柔術に中国武術が介在して形を変え, その技法の発達に大きな影響を及ぼしたことはいくつかの事例により明白である。
大明人陳元替の門人中磯目次郎左衛門清次の子 次郎右衛門清定は真極流柔術を開創して元祖となり,真極夢仁斎と名乗って流派は仙台藩 に隆盛を極めた。
真極流の伝書に「基源流 中華在挙棒鉄解法六勢日上鰍胸下鰍腰勢日瀬摺衣勢日倒上橋勢日三人合手住解勢日泰山厘頂跣勢日金鶏鉄勢也」とある。 これは中国清朝の康煕年間(一六六二~一七二二)に刊行された万宝全書』中にある「要家臨危解法」をそのまま書写したものである。 これらの中国書が藩内に持ち込まれ,多くの柔術家の間で研究がなされたことが柔術の発展に多分に寄与していることは疑う余地がない。 現在見ることのできる柳生心眼流拳術 「素振二十一ケ条 」は明らかに中国武術の影響下 に発達した拳法の技術内容を色濃く残しているといえる当身技中心の珍しい古流拳法の一 つである。
技 の特徴
稽古の場が土間であり,また屋外稽古の多い仙台藩の柔術では現代柔道に見られるような体受身ができない。
しか も力加減をせずに技をかけることが必要なため受方は自ら地を蹴って大 きく空中転回をして立って受ける稽古をする。
また流儀により敵を真逆様に頭から落とす技が伝承されているが,こ れに対 して受方は両手(片 手)を地につけて体を支え自ら地上転回を行って逃 れ る稽古をする。柔 道で い うところの 巴投 げ も地 に背をつけずに敵を投げるのである。
また礼 法 にお いては柔術 に限らず正座 を行うことが少 ないことも一つの傾 向 となっている。
礼法には起倒流柔術 に代表される「鱒 踵の礼」を用いることにな ってい るが,こ の ことも屋 外稽古や土間稽古中心という風潮 に多分に起因するもの と考えられる。
かなり危険な技が多いことがわかりますね。祖父が父に危険だから辞めさせた理由がわかります。
仙台藩 にお ける柔 術の多 くは,各邑主の家臣たちに教授され,したがって農閑期を利 用して稽古が行われ た。
稲刈りが終わ ると一 門が集 まり 「ね むしろこ」(藁 縄を編んで作 る大型の麺)を 編 んで。
これを畳の代用 と して道場に敷 くのであ る。門人の少 ない流儀では 「お蔵」を道場代 わりにするので「ね こ」は多 くの流儀に流行していた。
「ね こ」は畳 と違 ってずれ たり隙間がで きたりする心配 もなく,敷 いたり取外 したりするにも手間をかけない非常 に便利 なものである。
さらに当身技の多い仙台藩の柔術は多くの流儀で竹胴を用いたが,こ れらの防具もすべて 自家製である。
父に聞いた話では、庭にむしろを敷いて練習したと言っていました。
父の目録を見ると昭和二十三年に祖父より巻物1本を受けている。父は17歳で祖父は47歳ということになる。
祖父が健在の頃、偽物の真極流免許皆伝と名乗る者が現れました。
新しい和紙に書かれていることから、偽物とわかりました。
真極流の免許皆伝者は多くないはずです。
今は絶えていることから、祖父が最後の師範だったのでしょう。
仙台藩と福島藩で藩校・郷校で教授されていた流派、または藩の主流を成した流派(指南役の出身流派)のようです。
下の写真は、父が持っている目録です。
技の名前が書いてあります。
門外不出の技も書いてあるようです。UPするか悩みましたが、今から免許皆伝者が出てくるはずも無く、公開しました。モザイクがありますが、下記に祖父の初段の巻物を公開しています。
1本でこれだけの技があります。習得不可欠の技でしょう。
惣治は私の祖父です。
最後の画面の左に父の名前がありますが入れませんでした。
親子でも、弟子に入る時は「血判を押した」と聞きました。
巻物の一部を紹介します。
肝要之巻
省略
教収巻
基源流 中華在挙棒鉄解法六勢日・・・・・
敬白起請前書
省略
月丞弾正神道 二文字目は不明
薬師如来の真言が書いてあります。
省略
五六傳法
これは非常に長かったです。 省略しましたが、前分のこの二枚の写真には、馬の扱い方が伝授されています。
祖父の一本目の巻物を今度はモザイクなしでUPします。
真極流柔傳
省略
省略
面影草
省略
實相位
省略
鉄砲や鎧武者切様や頭取様など気になる文も・・・
一部ですが紹介しました。
巻物の最初に押される真極流印や最後に押印する印も残されていました。
文面を見ると真極流を心極流とも記載しています。
祖父のお墓参りに行った時でした。
いつもお墓参りに行っても全く法名を気にしたことが無かったのですが、気になり覗いてみました。
すると祖父の戒名には、柔師範の文字が・・・
私が知ってるのは、拳の握り方(独特です)そして食事中に襲われた時に箸を使って目潰し(両眼を箸で突く)をする方法ですかね。
祖父の若い頃の写真です
どうやら剣道の大会で優勝をした時の写真のようです。
剣道もしていたとは・・・・・
最後におまけで私の写真です。 飛び蹴りをしているのが私です。
場所は、青森の米軍三沢基地で演舞をしたときのものです。 19歳の頃です。
この頃はピョンピョン飛んでました。
本家の仏壇にありました。
その内容について後ほど写真にて追記したいと思います。 これで祖父がいつごろから始まり免許皆伝までの道筋が見えてきました。
これは10年前に書いたものですが、再度UPします。
実は、私の祖父は真極流柔術の師範でした。
父も習ったようですが、祖父に危険なので途中で止めさせられたと聞いてます。
父は目録:初段巻(巻物)を1本持っています。
祖父は免許皆伝で巻物を10本程持っています。
詳しく聞きたかったのですが、もう亡くなっていますので悔やまれます。
なかなか、ネットでの検索は難しいようです。
鹿島台町誌の武芸師匠の項に真極流関連の人物が記載されています。
佐藤儀蔵
文政三年(1820)鹿島台船越に生まれる。
武家に生まれた儀蔵は武術を学び、特に「柔」は、真極流夢人斎から伝わる奥義を極めた程で、門人多数のうち「栗田梅三郎」に免許を皆伝した。
多くの弟子が居ても免許皆伝が難しいことがわかる
栗田梅三郎
明治十年(1877)同じ船越に生まれる。
柔を佐藤儀蔵について学び20歳で免許皆伝となる明治三十二年より道場を開き、昭和七年まで門弟220人に達した。
昭和十八年(1943)66歳で没した。
祖父:惣治
明治三十四年(1901)鹿島台xxに生まれる。
17歳で初段の巻物を栗田梅三郎から受領している。
免許皆伝は最後の巻物の年が大正十五年であるため25歳に栗田梅三郎から皆伝されたと思われます。
源流は巻物の中に記されていた「源流中華在拳捧跌解法・・・」とある。
武 道 学 研 究18-2(1985)
仙台藩における近世柔術の一大傾向について 小佐野淳(浅 山一伝流水月塾)
から一部抜粋。
仙台藩における一大流派となった真極流柔術では,腕流・違詰・朽木倒・梢倒・小手乱・面影の六ケ条を「化生段」と称して,これを六変化三十六種に分けて技法を学ぶ。
中国武術の影響
仙台藩の柔術に中国武術が介在して形を変え, その技法の発達に大きな影響を及ぼしたことはいくつかの事例により明白である。
大明人陳元替の門人中磯目次郎左衛門清次の子 次郎右衛門清定は真極流柔術を開創して元祖となり,真極夢仁斎と名乗って流派は仙台藩 に隆盛を極めた。
真極流の伝書に「基源流 中華在挙棒鉄解法六勢日上鰍胸下鰍腰勢日瀬摺衣勢日倒上橋勢日三人合手住解勢日泰山厘頂跣勢日金鶏鉄勢也」とある。 これは中国清朝の康煕年間(一六六二~一七二二)に刊行された万宝全書』中にある「要家臨危解法」をそのまま書写したものである。 これらの中国書が藩内に持ち込まれ,多くの柔術家の間で研究がなされたことが柔術の発展に多分に寄与していることは疑う余地がない。 現在見ることのできる柳生心眼流拳術 「素振二十一ケ条 」は明らかに中国武術の影響下 に発達した拳法の技術内容を色濃く残しているといえる当身技中心の珍しい古流拳法の一 つである。
技 の特徴
稽古の場が土間であり,また屋外稽古の多い仙台藩の柔術では現代柔道に見られるような体受身ができない。
しか も力加減をせずに技をかけることが必要なため受方は自ら地を蹴って大 きく空中転回をして立って受ける稽古をする。
また流儀により敵を真逆様に頭から落とす技が伝承されているが,こ れに対 して受方は両手(片 手)を地につけて体を支え自ら地上転回を行って逃 れ る稽古をする。柔 道で い うところの 巴投 げ も地 に背をつけずに敵を投げるのである。
また礼 法 にお いては柔術 に限らず正座 を行うことが少 ないことも一つの傾 向 となっている。
礼法には起倒流柔術 に代表される「鱒 踵の礼」を用いることにな ってい るが,こ の ことも屋 外稽古や土間稽古中心という風潮 に多分に起因するもの と考えられる。
かなり危険な技が多いことがわかりますね。祖父が父に危険だから辞めさせた理由がわかります。
仙台藩 にお ける柔 術の多 くは,各邑主の家臣たちに教授され,したがって農閑期を利 用して稽古が行われ た。
稲刈りが終わ ると一 門が集 まり 「ね むしろこ」(藁 縄を編んで作 る大型の麺)を 編 んで。
これを畳の代用 と して道場に敷 くのであ る。門人の少 ない流儀では 「お蔵」を道場代 わりにするので「ね こ」は多 くの流儀に流行していた。
「ね こ」は畳 と違 ってずれ たり隙間がで きたりする心配 もなく,敷 いたり取外 したりするにも手間をかけない非常 に便利 なものである。
さらに当身技の多い仙台藩の柔術は多くの流儀で竹胴を用いたが,こ れらの防具もすべて 自家製である。
父に聞いた話では、庭にむしろを敷いて練習したと言っていました。
父の目録を見ると昭和二十三年に祖父より巻物1本を受けている。父は17歳で祖父は47歳ということになる。
祖父が健在の頃、偽物の真極流免許皆伝と名乗る者が現れました。
新しい和紙に書かれていることから、偽物とわかりました。
真極流の免許皆伝者は多くないはずです。
今は絶えていることから、祖父が最後の師範だったのでしょう。
仙台藩と福島藩で藩校・郷校で教授されていた流派、または藩の主流を成した流派(指南役の出身流派)のようです。
下の写真は、父が持っている目録です。
技の名前が書いてあります。
門外不出の技も書いてあるようです。UPするか悩みましたが、今から免許皆伝者が出てくるはずも無く、公開しました。モザイクがありますが、下記に祖父の初段の巻物を公開しています。
1本でこれだけの技があります。習得不可欠の技でしょう。
惣治は私の祖父です。
最後の画面の左に父の名前がありますが入れませんでした。
親子でも、弟子に入る時は「血判を押した」と聞きました。
巻物の一部を紹介します。
肝要之巻
省略
教収巻
基源流 中華在挙棒鉄解法六勢日・・・・・
敬白起請前書
省略
月丞弾正神道 二文字目は不明
薬師如来の真言が書いてあります。
省略
五六傳法
これは非常に長かったです。 省略しましたが、前分のこの二枚の写真には、馬の扱い方が伝授されています。
祖父の一本目の巻物を今度はモザイクなしでUPします。
真極流柔傳
省略
省略
面影草
省略
實相位
省略
鉄砲や鎧武者切様や頭取様など気になる文も・・・
一部ですが紹介しました。
巻物の最初に押される真極流印や最後に押印する印も残されていました。
文面を見ると真極流を心極流とも記載しています。
祖父のお墓参りに行った時でした。
いつもお墓参りに行っても全く法名を気にしたことが無かったのですが、気になり覗いてみました。
すると祖父の戒名には、柔師範の文字が・・・
私が知ってるのは、拳の握り方(独特です)そして食事中に襲われた時に箸を使って目潰し(両眼を箸で突く)をする方法ですかね。
祖父の若い頃の写真です
どうやら剣道の大会で優勝をした時の写真のようです。
剣道もしていたとは・・・・・
最後におまけで私の写真です。 飛び蹴りをしているのが私です。
場所は、青森の米軍三沢基地で演舞をしたときのものです。 19歳の頃です。
この頃はピョンピョン飛んでました。