仙台から北に向かうと大崎平野と呼ばれる穀倉地帯があります。
元々は大崎氏の家臣の涌谷氏が所有していたが、豊臣秀吉の天下統一に伴い木村氏を経た後、伊達氏の家臣亘理氏の居城になる。
三代定宗はのちに伊達氏を名乗ることを許される。涌谷伊達氏となる。
四代伊達宗重(安芸)が伊達家の後継者問題などで原田宗輔と対立し、江戸の大老酒井雅楽頭屋敷の刀傷事件で原田甲斐に切られて無くなる。
これは前回の涌谷神社の記事と同じです。 伊達騒動(寛文事件)
大崎氏と聞くと葛西大崎一揆などを想起します。確かこの戦いで大崎市は滅亡しました。
伊達政宗との関わりをみると、大崎義隆と伊達政宗との大崎合戦では義隆は勝利している。
しかし、天正17年(1589年)に蘆名氏に勝利し政宗が名実共に奥州の覇者となり伊達氏に臣従した。
葛西大崎一揆で思い出しましたが、秀吉とのやばいやり取りがありました。それはこの記事です。
鶺鴒(セキレイ)の眼/伊達政宗公の花押
涌谷に戻りましょう。この地域で以前記事にしたのは、黄金山神社/遠田郡涌谷町ですが、ここが日本で最初に金が採れたところです。
さて涌谷城址ですが、別名涌谷要害です。
写真には天守がありますが、実在したものではありません。資料館として建てられました。
隅櫓(太鼓堂)はあったようです。
涌谷城は、平山城で中世大崎氏の支族涌谷氏の居城であった。現在、涌谷神社のあるところが本丸だった。
二の丸の西部に腰曲輪(こしくるわ)が張り出し、犬走りも残存している。
近世、天正19年に亘理重宗が入城し以後二百七十年、仙台藩一門二万二千六百余石の涌谷伊達(亘理)氏の要害屋敷として知られた。
天守閣は無く、二の丸が削平拡張されて邸宅風建築が並んだ。 伊達騒動で有名な伊達安芸の嫡子が宗元が日光廟修営奉行として出張中、元禄二年九月に失火により全焼し、復興に数年を要した。江戸時代の末期には建築二十一棟、土蔵三棟となり堀をめぐらしていた。
隅櫓(太鼓堂)
桜の写真は、毎年ここで行われる「輓馬競技大会」の時の写真です。
ん? 字母観音???と思って裏を見たら・・・
涌谷横町観音講の石碑でした。
観音講は昔、地域ごとにあった集まりで、観音講について以前こんな記事を書いています。
十八夜観世音堂/仙台市太白区長町
元々は大崎氏の家臣の涌谷氏が所有していたが、豊臣秀吉の天下統一に伴い木村氏を経た後、伊達氏の家臣亘理氏の居城になる。
三代定宗はのちに伊達氏を名乗ることを許される。涌谷伊達氏となる。
四代伊達宗重(安芸)が伊達家の後継者問題などで原田宗輔と対立し、江戸の大老酒井雅楽頭屋敷の刀傷事件で原田甲斐に切られて無くなる。
これは前回の涌谷神社の記事と同じです。 伊達騒動(寛文事件)
大崎氏と聞くと葛西大崎一揆などを想起します。確かこの戦いで大崎市は滅亡しました。
伊達政宗との関わりをみると、大崎義隆と伊達政宗との大崎合戦では義隆は勝利している。
しかし、天正17年(1589年)に蘆名氏に勝利し政宗が名実共に奥州の覇者となり伊達氏に臣従した。
葛西大崎一揆で思い出しましたが、秀吉とのやばいやり取りがありました。それはこの記事です。
鶺鴒(セキレイ)の眼/伊達政宗公の花押
涌谷に戻りましょう。この地域で以前記事にしたのは、黄金山神社/遠田郡涌谷町ですが、ここが日本で最初に金が採れたところです。
さて涌谷城址ですが、別名涌谷要害です。
写真には天守がありますが、実在したものではありません。資料館として建てられました。
隅櫓(太鼓堂)はあったようです。
涌谷城は、平山城で中世大崎氏の支族涌谷氏の居城であった。現在、涌谷神社のあるところが本丸だった。
二の丸の西部に腰曲輪(こしくるわ)が張り出し、犬走りも残存している。
近世、天正19年に亘理重宗が入城し以後二百七十年、仙台藩一門二万二千六百余石の涌谷伊達(亘理)氏の要害屋敷として知られた。
天守閣は無く、二の丸が削平拡張されて邸宅風建築が並んだ。 伊達騒動で有名な伊達安芸の嫡子が宗元が日光廟修営奉行として出張中、元禄二年九月に失火により全焼し、復興に数年を要した。江戸時代の末期には建築二十一棟、土蔵三棟となり堀をめぐらしていた。
隅櫓(太鼓堂)
桜の写真は、毎年ここで行われる「輓馬競技大会」の時の写真です。
ん? 字母観音???と思って裏を見たら・・・
涌谷横町観音講の石碑でした。
観音講は昔、地域ごとにあった集まりで、観音講について以前こんな記事を書いています。
十八夜観世音堂/仙台市太白区長町
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