
涌谷町天平ろまん館 2007年12月10日の記事を再編集しました。
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陸奥国小田郡=遠田郡涌谷町
ここに黄金山産金遺跡がある
陸奥の守である百済王敬福(くだらおうきょうふく)が小田郡から
日本で始めて産出した黄金九百両(約38キログラム)を献上したのです。
ちなみにこの敬福という人は、百済という朝鮮半島にあった国の王様の子孫です。
百済は、同じ朝鮮半島にあった新羅という国と中国の唐の連合軍によって660年に滅ぼされています。
百済の王族たちは、友好国であった日本に逃げてきていたのです。
律令国家は、百済の子孫を日本の貴族としたのです。
敬福は、この頃、陸奥国の長官である陸奥守に任命されて多賀城に赴任していたのです。
金の産地は、現在の宮城県遠田郡涌谷町黄金宮前にある黄金山神社の周辺です。
神社のすぐ下を流れる小川では、今でも少量の砂金を採集することができます。
ここで産出された金は、陸奥国の政庁である多賀城にまず運ばれ、
奈良の都に運ばれていって、大仏の表面に塗られることになったのです。
752年、大仏は完成し、大仏の眼をいれる開眼供養がおこなわれました。
そして、この黄金の産出は「律令国家」がさらに活発に東北地方に勢力を
伸ばしていくことの大きな動機付けになったのです。

すめきろの みよさかえんと あずまなる みちのくやまに くがねはなさく
《大伴家持》
日本でもっとも古い歌集 『万葉集』 に収められているものです。
律令国家の役人であった大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだものです。
「すめきろ」とは天皇のことです。
「みちのく」=陸奥国=東北地方
「くがね」=黄金
天皇の世が栄えるようにと、辺境の陸奥の国の山に、黄金の花が咲いたことだよ。
東北地方で砂金が発見されたのです。
当時の聖武天皇は、仏教の力によって世の中を収めようと、奈良の東大寺大仏の建立をしている最中でした。
ところが、大仏の完成間近になって、巨大な仏像に塗金するための黄金が不足していることがわかりました。
(大仏は銅で鋳造した後、鍍金(ときん)する金銅仏でした。)
遣唐使を派遣して調達することも検討されていたといいます。
朝廷がその対策に苦慮していたその矢先に、金の産出の報せが伝わったのです。
大伴家持はそのことを喜んで歌を詠んだのでした。

大伴家持(718年~785年)
奈良時代の政治家であり歌人でもあった。
安麻呂の孫、旅人(たびと)の子。
「万葉集」整理編纂に携わったと推定されています。
七八二年(天応二年)、陸奥按察使鎮守将軍(むつあぜちちんじゅしょうぐん)
に任命され、陸奥国府「多賀城」を治めた。
七八五年(延暦四年)八月二八日、多賀城にて没した。
当時はこんな風に砂金を採取したのでしょう。

現在はここで、砂金採取の体験が出来ます。




あら? 猿が振り向いた? あっ!!俺だ・・・・

次は、接続している黄金山神社です。
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陸奥国小田郡=遠田郡涌谷町
ここに黄金山産金遺跡がある
陸奥の守である百済王敬福(くだらおうきょうふく)が小田郡から
日本で始めて産出した黄金九百両(約38キログラム)を献上したのです。
ちなみにこの敬福という人は、百済という朝鮮半島にあった国の王様の子孫です。
百済は、同じ朝鮮半島にあった新羅という国と中国の唐の連合軍によって660年に滅ぼされています。
百済の王族たちは、友好国であった日本に逃げてきていたのです。
律令国家は、百済の子孫を日本の貴族としたのです。
敬福は、この頃、陸奥国の長官である陸奥守に任命されて多賀城に赴任していたのです。
金の産地は、現在の宮城県遠田郡涌谷町黄金宮前にある黄金山神社の周辺です。
神社のすぐ下を流れる小川では、今でも少量の砂金を採集することができます。
ここで産出された金は、陸奥国の政庁である多賀城にまず運ばれ、
奈良の都に運ばれていって、大仏の表面に塗られることになったのです。
752年、大仏は完成し、大仏の眼をいれる開眼供養がおこなわれました。
そして、この黄金の産出は「律令国家」がさらに活発に東北地方に勢力を
伸ばしていくことの大きな動機付けになったのです。

すめきろの みよさかえんと あずまなる みちのくやまに くがねはなさく
《大伴家持》
日本でもっとも古い歌集 『万葉集』 に収められているものです。
律令国家の役人であった大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだものです。
「すめきろ」とは天皇のことです。
「みちのく」=陸奥国=東北地方
「くがね」=黄金
天皇の世が栄えるようにと、辺境の陸奥の国の山に、黄金の花が咲いたことだよ。
東北地方で砂金が発見されたのです。
当時の聖武天皇は、仏教の力によって世の中を収めようと、奈良の東大寺大仏の建立をしている最中でした。
ところが、大仏の完成間近になって、巨大な仏像に塗金するための黄金が不足していることがわかりました。
(大仏は銅で鋳造した後、鍍金(ときん)する金銅仏でした。)
遣唐使を派遣して調達することも検討されていたといいます。
朝廷がその対策に苦慮していたその矢先に、金の産出の報せが伝わったのです。
大伴家持はそのことを喜んで歌を詠んだのでした。

大伴家持(718年~785年)
奈良時代の政治家であり歌人でもあった。
安麻呂の孫、旅人(たびと)の子。
「万葉集」整理編纂に携わったと推定されています。
七八二年(天応二年)、陸奥按察使鎮守将軍(むつあぜちちんじゅしょうぐん)
に任命され、陸奥国府「多賀城」を治めた。
七八五年(延暦四年)八月二八日、多賀城にて没した。
当時はこんな風に砂金を採取したのでしょう。

現在はここで、砂金採取の体験が出来ます。





あら? 猿が振り向いた? あっ!!俺だ・・・・

次は、接続している黄金山神社です。

痩せてないんですよ。
般若腹見た…です。
それにしても~
砂金集めて「金きん」にするの~ 大変そう・・・
(・_・)マンガちっくな大伴家持だね♪
金色じゃない大仏を見ると金との繋がりが想像できませんよね。
日本で初めての金が宮城県で採れたとは
嬉しい事ですね。
そういえば、テレビを見ていましたら
奈良の東大寺大仏の話しで金が不足して
調達するのが大変だった事を話していましたね。
なかなかいいでしょ。
また、背景もいいし・・・山形のいいところを良く探して映画にしたものだと感服しております。
写真に撮らなかったところもありましたが、山の中の民家もいい雰囲気のところですよ。
その時に
中国・朝鮮との交流について又、言葉についても聞いたら、我々が想像する以上にかなりの交流があったようです。
天皇家を調べても、朝鮮からの皇后が見られますかね。
今はアラハバキを解こうとしています。
記事と関係ない話で恐縮ですが、先日TVで映画「おくりびと」を見ました。ひーさんブログに出てきた風景が一杯・・ブログとリンクしながら見入ってしまいました。^^ 良い映画ですね。
陸奥の守百済王敬福、王の読みは「こにきし」だっちゃね。
なんだべと思って調べて見たげんとね、
古代の百済では、扶余=高句麗系の王は王号を「於羅瑕(オリコケ)」と称え、韓系の国民は王を称して「革建吉支(コンキシ)」と呼んだんだと。
んだがらって、日本さ逃て来た百済王族の姓(カバネ)として、この「革建吉支」に「王」の字ばあてて「コニキシ」と訓じたんだと。
んでは、もののついでに「百済」のことについても、
日本では「クダラ」と訓むけど、本当は「ベクチェ」or「ハクサイ」だいっちゃね。
「クダラ」は「クン(大)+ナラ(国)」の転訛で、「百済」=「本国」or「母国」の意味で「クダラ」と訓むようになったんだとか…
つうことは、「クダラ」っつう訓みが日本の標準になるぐらい奈良の朝廷に百済からの亡命官人が沢山居たってことだよなぁ~~~
奈良の大仏・・・・どこに金が?
誰でも不思議に思います。
川から採るには、かなりの労働量ですね。
大したものです。
金を取り出す技術も必要だし・・・
どの文明にも金は強さの象徴ですかね。
すぐ忘れてしまいますので。
大和の大王だったニギハヤヒ・・・
どうもオオモノヌシのことのようで・・
謎と嘘が多い日本書紀・古事記はややこしい。
なんちゃって。
平泉は、宮城の北部に金成という町があります。そちらの方が近いのでそこの金を使っていたのかと?
ここは、朝廷のものになったでしょうから、当時蝦夷と言われた一族は手が出せなかったかも?
イケメンですねぇ
拙は黄金色のシャツを探そうっと ww
現在の大仏は銅がむき出しですが、古代は輝いていたんでしょうね。
凄いね
今の値段にするとどの位の値段になるのか
少し想像がつかないよ
昔から人々って黄金の光に惹かれたんだね
つながって~ 古代史
本当に面白いですね~☆
いずも~いつかきっと~
つながりそう~(^_-)-☆
氷川神社のこと
知りたくなってきています (^^)
平泉の黄金都市との関連が
あるんでしょ~か? (^_-)~☆