一時期、夕日の絵を描き続けたことがありました。
何か物悲しかったのでしょう。
そして、波や水辺に魅かれ何枚も描きました。
二度と起きぬ波頭を表現したかった。
無情ではない無常です。
台風19号がもたらした被害は甚大であった。
我が家の庭に山からの水が溢れた。
水が止まらないので、道路脇の排水溝まで庭に溝を掘った。
山からの水は、山際の倉庫の脇を通り湧きだしている。
山肌を滑り落ちた水は、倉庫にも浸み込むように侵入していた。
通過したのは、3日前の未明であった。
未だに、水は途切れない。
今日のタイトルは、「高きから低きへ」です。
倉庫の下には、栗石と真砂土が入っているはずだ。
水が通りやすい通路となった。
ブナなどと違い、雑木や竹の根は浅い。ダムの役割は果たせなかったようだ。
今後共、我が家の倉庫下は、雨がふるごとに通路となるであろう。
水が引いたら、山際に側溝を入れなければなるまい。
突然の展開であるが、富も当然のごとく「高きから低き」へ流れるはずである。
知恵もそうでなければならない。
どこかに、ダムができているのである。
ダムのオーバーフローだけが、時々流れてくる。
今回のようなことになると、消化(貯水)できないから氾濫となる。
自然の摂理である「高きから低き」へあらゆるものが流れるはずである。
どこかに貯めているのが、透けて見える。
少しずつでもよいから、抜ける水路のようなものを造らなければならぬのであろう。
教育であり、情報共有ではないだろうか。
感心するのは、田んぼの役割である。
ここでも、小さな小川が氾濫した。氾濫した水は、田んぼに一時的に貯水された。
貯水する機能がない地下駐車場は、水没した。電気が止まれば排水ポンプも動かない。
指をくわえて見るしかない残念な光景である。
東京には、大きな地下貯水場がある。降水100mm/Hrまでは、耐えると聞いた。
今回も大いに役に立ったことだろう。
田んぼの面積をあるいは宅地を確保するために、川を狭くしたと地域の方から聞いた。
その川が溢れたのである。誰が指揮を執ったのかは知らない。
「高きから低きへ」、温かい動脈や静脈のような、ましてや毛細血管のような通路は出来ぬものか。
持っているものは、持たぬ者へ技術や知恵を回すことを考えることで、
あらゆるものは循環するのである。
都市から地方へ、地方から都市へ私たちにはできることがたくさんある。
どのようにすれば、それが可能になるのか黙っていては進まない。
得になることばかりしていると、激辛の場面には対応できない。
私は、溝を掘ったりして学んでいる。
一筋の 光がやがて 温もりに
2019年10月15日