故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。
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障子に映るベランダのつるものです。
タイトルは、「遠い昔のような」です。
あんなに悩んだのにね。
今日のタイトルは、「ちょっとした間違い」です。
少しだけ入れる予定の出汁が、瓶ごと鍋の中に落ちちゃった。
スプーンを使えば、なんでもないことでした。
汁も出汁も使えません。落ちた瓶を洗っていて目に入った賞味期限は、とうに過ぎていた。
これなら越えられると跳んだ。意外にも膝が引っかかってもんどりうって頭から着地した。
運悪く、石があり傷口を20針も縫うことになった。
床のコードに足を取られる有様なのに、挑戦しすぎました。
おかげで、地回りも丁寧にあいさつをし道を譲ってくれます。
こっちを向いて、にこっとする美しき女性がいた。
変だと思いながらも、自分もにこっとする。
うら若き女性は、良い香りと共に私の後ろにいた男性に抱きついた。
大いなる勘違いです。きまりが悪いこと、この上ない。
何年か後に、子連れのお母さんを車で病院まで運んであげた。
あの時の香水だと思い出した。
香水に魅かれシングルマザーの女性と親しくなり、一緒になった。
香水は、その方の体臭であった。免疫力の強い子ができた。
ちょっとした間違いは、避けられない。
間違いは、幸運にも不幸にもなります。
多くの周りの人は、間違いが禍の元になると心配する。
間違いのあとも時間は経過する。
時計の針を止めようとすることだけは、してはならない。
間違いに気づいた自分を責めてもいけない。
静かに受け取ることです。
人間万事塞翁が馬。
という故事がある。
間違いから多くのことを学び、間違いを活かすことだってできる。
アンラッキーだったから、今がある。
同じように間違いを犯した人にも優しくなれる。
考え方次第で無限の可能性が広がります。
悪ガキに 一つの握り 話し出す
2020年3月7日
「人間万事塞翁が馬」の意味は、
人間万事塞翁が馬とは、人生における幸不幸は予測しがたいということ。
幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、
安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。
(故事ことわざ辞典より)
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タイトルは、「ぴょんぴょん」です。
わずか数百グラムのナイキの運動靴です。
履いただけで、心も軽くなったような気がしました。
ある女性が、この絵を気に入ってくれました。
励ましになったらよい。
今日のタイトルは、「なんかなあ(Part2)」です。
2019年7月2日投稿記事「なんかなあ」では、
私は、妻と二人の生活である。
困ったときの代打はいない。
まとめて仕事をこなせないし、まとまった金も入ってこない。
こつこつと、できることをやるだけである。
やるから、ますます健康になる。
身体も頭も、まだはっきりしている。
(中略)
なんかなあ 生きてる限り 答えなし
(記事より抜粋)
最近、よく使う言葉は、「生きる」である。
すべての人の関心事であろう。
特に、未来に限りがあると感じる年代ほど、切実である。
毎朝書くタイトルが決まらないように、欲が深いのである。
身の丈にあった生活とはいうものの、何かが起こったりするとバランスはすぐに崩れてしまう。
だから、身の丈の生活なんてありえない。今日が、明日も続くとは限らない。
断捨離のための毎日も考えられない。不要な何かが、毎日残っていく。
死んだら、誰かに任せるしかない。
捨てなきゃと考えることが重荷になる。
「なんかなあ」と毎日を生きる。
生きてる限り、答えなど見つからない。
答えが見つかってもするりと逃げていく。
だから、真実も追う必要がない。
のんべんだらりと生きていくことではない。
毎日もがいている。
煩悩と葛藤している。
いつまでも楽をしたいと願っている。
だけど、一生涯追われる生活である。
それを知ることで充分ではないか。
不安は尽きない。
やっておかなければならぬこともある。
予期せぬことだって起こるだろう。
だけど、「なんかなあ」と考えることを続け、
流されないで、見つからない真実を日々探したい。
多くの真実はいらない。
一つだけで良い。
生きる意味とは。
答えとは 日々もがいても なんかなあ
2020年3月6日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/32/aacbe092f2d5df7fa0c1a1c4668109c7.jpg)
数多の恋をした。
タイトルは、「森の中、旅立ち」です。
挑戦し敗れていった。
何度も旅立った。
多くの時間を要して書き始めました。
気になることがたくさんあります。
どれも、おいそれとはできぬものばかりです。
それでもやらなければと、一つずつやることになります。
やり始めれば、案外できる。
やらないから、段々と億劫になる。
負のスパイラルです。
今日のタイトルは、「なんで、あんなこと言ったのか、やったのか」です。
このタイトルは、苦しい。
なぜなら、正直に書くことをためらうからです。
それほどのことなら、初めからしなければよかった。
潔くない。
言ったんだったら、やったんだったら、それはなぜか一度考え直した方がよい。
相手を不快にさせた。それは、まだ挽回できる。
無二の親友を怒らせてしまった。これは、取り返しができません。
相手の立場や状況を考えずにとった行動が招いた結果です。
永年築いた信用も一言で終わりです。
唯一の救いは、親友が「怒った」ことです。無視されたわけではない。
関係は終わったけど、気づかせてくれた。
言ったこともやったことも事実です。生きた証です。
どう向き合うかで、その後の展開が変わる。
どうにも晴れない心の負担が、償いです。
相手の幸せを祈って、終わりにすることです。
他の女性にしたことを、私にもするの。
若い時に付き合っていた女性から言われた一言です。
結果は同じでした。平手打ちをくらい、水をぶっかけられました。
失敗の積み重ねは勲章です。
失敗に蓋をしない。傷口に塩を摺りこむくらいでちょうどよい。
勲章を笑い話に昇華したい。
酸っぱいと 甘いが混じり 隠し味
2020年3月5日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/11/894afcd655536eef852869e3fda11d2b.jpg)
絵のタイトルは、「このままここで」です。
誰しも願うのは、安住の地です。
ユートピアなんてどこにもない。
いつまでと願わず、今を生きる。
「男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く」と言われる。
妻は故郷の母に会いに、私は横浜の子どもに会いに別行動の休暇をとった。
それぞれの友人たちや家族と過ごす。これは贅沢の極みである。
今日のタイトルは、「それぞれの休暇」です。
庭木の剪定は、まず庭に穴を掘る。
捨て場を作って、伐った木を細かくきざみ埋めていく。
子供には、剪定した木の後始末が苦痛であった。
都会では、剪定した木を燃やすこともできず、ひもでしばり燃えるごみの日に出す。
持参した切れる鋸を持った息子は、喜々と働いた。
娘は荒れた花壇を片づけた。あとは一緒に飲み話した。
父としてできることは、あまりない。やり方を教えるだけである。
妻は、年老いた母と共に大根をスライスし一緒に干した。
合間に友人たちと会った。母は、次いつ帰るかと聞いた。
帰ってきた妻の話は尽きなかった。
妻と暮らす日々は、朝ごはんを作るのも楽しい。
一人では、コンビニ弁当になってしまう。
連れ合いに先立たれた奥さんは、悲しみもそこそこの感で、その後も強い。
心配事が一つ減った。
「それぞれの休暇」。
一緒の生活はゆたかであると、私は再認識した。
妻は、開放感を楽しんだ。
そしてまた喧嘩の日々を過ごす。
遠い地に 出かけて帰り ここが家(うち)
2020年3月4日
(あとがき)
長い間、書きませんでした。
霜柱に立つ麦は踏まれてこそ伸びる。
そーなんだなと、改めて思いました。
また、お付き合いください。
(筆者)