hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

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一日の白山さん

2016-04-01 12:02:47 | 日記
今日は、一日。
白山さんに行ってきました。
野町電車の駅の手前、桜が咲き、1日のお花見。
金沢は、昨日開花宣言が出てました。

白山さんの参道

荒御魂神社

本殿

禊場

神馬

それぞれに挨拶して、今までの感謝を伝えてきました。

帰りに「おはぎ屋」で、「赤飯おはぎ」、「ほうれん草」、

「山下ミツ商店」で「あげのネギはさみ」、を買いました。

「揚げは、ビールのおつまみに最高です」
って、言われたので、

「ビールは好きなんですか?」
と聞くと、

「私は飲みません」って言われました。(^_^)

山岡鉄舟・富士の山

2016-04-01 08:03:28 | お話
🌸🌸山岡鉄舟・富士の山🌸🌸


そして、この件で西郷は鉄舟に全幅の信頼を置くようになり、

彼に明治天皇の教育を一任します。

平安朝以来、天皇は公家や女官たちに囲まれて生活してきましたが、

そこに骨のある男子を入れて宮中を改革し、

明治天皇に、新時代のリーダーとしてふさわしい強健な心と身体を身につけていただこうというのが、西郷の狙いでした。

ところが、旧幕臣である鉄舟の宮内省入りを非難する声は、

新政府内でも旧幕臣の間でも大きかったようです。

徳川から天皇へ…、

表面しか見えない人々にとっては、彼の忠義が変節したように感じられられたのでしょう。

私はこの時の鉄舟の気持ちを想像すると、とても切なくなるのです。

江戸城総攻撃をなんとか止めさせようと、敵軍をかき分け、命懸けで駿府に向かった鉄舟。

西郷との会談では、1歩も引かずに自分の役目を全うしました。

普通の人間なら、恐怖で足がすくむような状況も、官軍に追われて絶体絶命のピンチを迎えた時も、

西郷との一世一代の大勝負も、

「江戸の町と市民を戦火から守りたい」

という使命感に燃える鉄舟は、

それらを軽やかに乗り越えることができました。

けれども、鉄舟のように、義と誠を重んじて生きてきた人間にとって、

かつての仲間たちから裏切り者呼ばわりされることは、

身を切られるほどつらかったのではないでしょうか。

鉄舟は、自分を非難する人々に対して

一切の弁解や反論をしないかわりに、歌を詠みました。


「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」


直訳すれば、

「晴れていても曇っていても、富士の山は美しい。

富士山の元の姿に変わりはないのだから」

という意味です。

でも、おそらく鉄舟は、自分自身を富士の山に投影して、
この歌を読んだのではないかと思うのです。

富士山を眺める私たちが、お天気に一喜一憂し、晴れた日には富士山を愛で、
曇りや霧の日にはぼやくなど、富士山の評価を変える中で、

晴れた日も、曇った日も、変わることのなく

爽やかに気高く聳え立つ富士の姿は素晴らしい、と。

そして、

「人々からどんなに非難を浴びようが、

富士山のように超然としていよう」

と心に決め、
その思いを、歌に込めたのではないでしょうか。

その後の鉄舟は、まさに歌に出てくる富士山のように、

爽やかで気高く、超然としながら、自分の務めを全うしていきました。

西郷との約束を果たし、10年間にわたって教育係として明治天皇に忠誠を尽くすした鉄舟は、明治天皇から深く信頼され、

その人間形成に大きな影響を及ぼしたのです。

明治21年(1888年)7月19日の朝のことです。

鉄舟は、

「腹痛や 苦しき中に 明け烏(がらす)」

と歌いながら朝湯につかり、

上がると白装束に着替え、

左手に数珠、右手に団扇を持って、

ドカッと座りました。

やがて、見舞いに来た勝海舟としばらく世間話をしていましたが、

鉄舟は、おもむろに、

「只今、涅槃(ねはん)に入る」

と告げました。

それを聞いた勝が、

「左様か、ではお心安く御成仏を」

と言って辞去すると、

鉄舟は、そのまま、いつの間にか息を引き取っていたということです。

座は崩れず、形は正しく、結跏趺坐(けっかふざ)したまま、

皇居を向いて絶命しました。

死に際に、その人の生き方が凝縮されるとするならば、

まさしく山岡鉄舟こそ
"ラスト・サムライ" と言えるのではないでしょうか。

(ちなみに「ラスト」には、「最後の」という意味のはかに、「永遠に続く」という意味もあります)


私利私欲を捨て、公に生きた鉄舟。

彼の生涯は、
「どの道を選ぶか」ということよりも、

むしろ選んだ道で、いかに生きるのか、

それに、どれだけ心を込めたかが大切なのだということを、

私たちに語りかけてくれているような気がします。

鉄舟が亡くなる少し前、
明治政府の大物・井上馨が、鉄舟の家を訪ねたことがありました。

幕末における鉄舟の功績を称え、勲章を授与するためです。

通常、このような名誉は、誰もがありがたく受けるものですが、

鉄舟は、

「そんなものはいらん」

と突き返したそうです。

そして、
次の一言を述べたと伝えられています。

「維新の大業は、俺と西郷の2人でやったのだ」

明治10年(1877年)の西南戦争で、鉄舟の盟友・西郷は亡くなりました。

それ以来、西郷は、賊軍の汚名を着せられたままなのです。

その西郷を差し置いて、自分だけ勲章もらう事はできないと、鉄舟は考えたのでしょう。

西郷隆盛の罪が赦されたのは、

鉄舟の死の翌年、明治22年(1889年)のことでした。


おしまい

(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)


カッコいい生き方ですね!