🌸🌸しばしば戦うは亡びる道🌸🌸
貞観9年、北方の突厥(とっけつ)から帰国したものが、
突厥の状況について、次のように報告📃した。
「突厥は大雪⛄️に見舞われ、人は食うに食なく、羊🐏や馬🐎もばたばたと倒れています。
中国の同胞で、かの地にある者は山賊となって諸方を荒らし回り、情勢は極めて険悪であります」
これを聞いて、太宗が側近の者に語った。
「昔の君主☀️の治世を見るに、
賢良の士🌸を任用して仁義🍀に則った政治を行った国はよく治まり、
小人を任用して、でたらめの政治を行った国は滅びている。😵
そちたちも知っているように、
突厥で羽振りをきかせた重臣に、ろくな者はいなかったし、
突厥王の頡利(けつり)自身、人民の窮状に思いをいたさず、自分勝手✊な振る舞いに及んだ。🌀
君臣そろってかくのごとき有様では、突厥が滅んだのも当然であった」
魏徴🌸が進み出て語った。
「昔、魏(ぎ)の文侯(ぶんこう)が宰相(さいしょう)の李克(りこく)に、
『諸侯の中で、まっ先に滅びる😵のはどこであろうか』
と尋ねたところ、李克は
『それは、呉でしょう』
と答えました。
そこで、文侯がその理由を問いましたら、
李克は
『呉はしばしば戦って🔫、
しばしば勝利🌸を収めているからです。
しばしば勝てば、王は得意満面💕となり、
しばしば戦えば、民力✊は底をつきます。😵
まっ先に滅びるのは、呉に決まっています』
と答えたということです。
突厥の頡利も、隋末の中国の混乱に乗じ、大挙して中国🇨🇳に侵攻し、
その後も、しきりに蠢動(しゅんどう)を続けました。🍀
かように、しばしば兵を動かしては、
やがて滅亡の道をたどったのも当然です」
太宗は魏徴の言に大きく肯いた。🎵🎵
(「貞観政要」より)
貞観9年、北方の突厥(とっけつ)から帰国したものが、
突厥の状況について、次のように報告📃した。
「突厥は大雪⛄️に見舞われ、人は食うに食なく、羊🐏や馬🐎もばたばたと倒れています。
中国の同胞で、かの地にある者は山賊となって諸方を荒らし回り、情勢は極めて険悪であります」
これを聞いて、太宗が側近の者に語った。
「昔の君主☀️の治世を見るに、
賢良の士🌸を任用して仁義🍀に則った政治を行った国はよく治まり、
小人を任用して、でたらめの政治を行った国は滅びている。😵
そちたちも知っているように、
突厥で羽振りをきかせた重臣に、ろくな者はいなかったし、
突厥王の頡利(けつり)自身、人民の窮状に思いをいたさず、自分勝手✊な振る舞いに及んだ。🌀
君臣そろってかくのごとき有様では、突厥が滅んだのも当然であった」
魏徴🌸が進み出て語った。
「昔、魏(ぎ)の文侯(ぶんこう)が宰相(さいしょう)の李克(りこく)に、
『諸侯の中で、まっ先に滅びる😵のはどこであろうか』
と尋ねたところ、李克は
『それは、呉でしょう』
と答えました。
そこで、文侯がその理由を問いましたら、
李克は
『呉はしばしば戦って🔫、
しばしば勝利🌸を収めているからです。
しばしば勝てば、王は得意満面💕となり、
しばしば戦えば、民力✊は底をつきます。😵
まっ先に滅びるのは、呉に決まっています』
と答えたということです。
突厥の頡利も、隋末の中国の混乱に乗じ、大挙して中国🇨🇳に侵攻し、
その後も、しきりに蠢動(しゅんどう)を続けました。🍀
かように、しばしば兵を動かしては、
やがて滅亡の道をたどったのも当然です」
太宗は魏徴の言に大きく肯いた。🎵🎵
(「貞観政要」より)